試験6

 それはそれとして痺れはなくなったのは大きい。落ち着きを取り戻した俺は、また聖書を暗唱しながら呼ばれるのを待った。最初はズィーボルト夫人の講習を一から思い出していたのだが、どうしても落ち着かずに雑念が入ってしまうため断念し、神と神の子の言葉に頼る事にしたのである。



「はい、では次、君ですよ。行きましょう」


「はい! よろしくお願いします!」



 徐々に人が減っていく。隣の列の人間が全員連れられていってしまって右側が寂しい。ペットショップの売れ残った犬猫はこんな気持ちなのだろうかと買い手のつかない畜生にシンパシー。一人きりのケージはさぞ寂しかろう。



「次、君です」


「はい!」



 とうとう俺の列の人間が呼ばれ始め、さすがに心拍が上がった。今度はパニック状態にならないよう早めに呼吸を整えていく。事前に対策さえしておけば、どうという事はない。



「はい、準備はいいですか?」


「はい! 大丈夫です!」



 二席前の人間が連れていかれた。暗唱を止め、一旦目を閉じる。心を無にしようと頭の中に空白のキャンバスを描き虚無状態を意図的に作り出す作業である。しかし何も考えないようにするというのは何も考えないようにするという事を考えてしまっているわけであり、考えてしまうという事は雑念が入り込む余地があるという事である(ちなみに禅の世界に似たような教えがあるそうだが詳しくは知らない)。この時俺は想像した真っ白なキャンバスにイーゼルが付属し、順番に椅子、画家、絵の具が加わっていった。そして画家が被っているベレー帽にフォーカスが移り、手塚治虫の自画像が浮かぶと火の鳥鳳凰編が想起されて輪廻転生について考えだし、次に生まれ変わったらなにになるのだろうかと想いを馳せてみると、次は別の世界の人間として転生するのだったと思い出して、勝手な因果を結んだコアに対しての怒りで無性に腹が立ち思わず髪を掻き毟っていると目の前の人間が呼ばれたのだった。無心とは程遠い時間であった。



「君の番です」


「はい!」



 前の人間がいなくなると随分視界がよくなった。コアへの怒りも輪廻転生も火の鳥も手塚治虫もベレー帽も絵具も画家もイーゼルもキャンバスも一瞬で過去となり、とうとう次は俺の番かと息を呑む。深呼吸で脈を整え待つ。ただ待つ。一分、二分、三分と過ぎていく。俺の時だけなぜかリードタイムが長い。昔からそんな事はよくあって、とにかくトラブルやイレギュラーには事欠かない。嫌な上司とトイレで鉢合わせたり、並んでいるレジでPOSのエラーが出たりする経験が多分にある。なにかと難儀な星の下に生まれてしまったようだ。発生した謎の待ち状態について何かの前兆だろうかと不安になっていると、ようやく案内役の人間が戻ってきて俺の方に近付いてくるのだった。




「はい、少し遅くなりましたが、君の番です」


「はい、ありがとうございます」



 立ち上がり、案内役の人間の後ろをついていく。人の少なくなった教室を歩き、廊下に出て、真っ直ぐに進む。目に入ってきたのは人の列だった。先ほどまで教室にいた受験者が一列に並んでいるのだ。そうして、奥にある部屋から出てきた人間に「どうぞ」と呼びかけられ、先頭の人間が扉に吸い込まれていく。そのペースはやはり早く、数分で一人、また一人と案内されていき、すぐに俺が列の頭となった。



「どうぞ」


「はい」

 

 呼ばれるままに扉をくぐると目の前に部屋が四つ。更に、両端に二つずつ扉があった。



「はい、じゃああちら部屋で実技を行いますね」



 案内人に誘導され、右から二つ目の部屋に入る。ノックと入室時の挨拶は勿論。姿勢も正して万全の態勢。中には教師と思われる人間が一人。人の好さそうな中年で、はにかんだ笑顔が警戒心を薄れさせた。




「はい、では、お名前を教えていただけますか?」


「はい。オリバー・ロルフです」


「ズィーボルト推薦の子だね」


「はい。この度、ズィーボルト先生から格別のご配慮を賜り、誉れ高い神学校入学の試験を受けさせて頂ける事となりました」


「あれの相手は疲れるだろう。変人だからね」


「……」



 返答に困った。確かに変人であり付き合いの中で面倒と思う場面も多々あったが、それをそのまま行ってしまうのはよくない。ズィーボルトは貴族であり、大きな功績がある。しかも恩師であり神学校の推薦まで出してくれているのだから、「本当に疲れますよあの人は」などと述べてしまっては印象悪化は避けられないだろう。だが、ただ「そんな事はないです」とも言えない。試験をしている中年男への否定となってしまうからだ。ここは、否定も肯定もなく、相手が気持ちよくなる答えを口にするべき場面であると確信し、声を出した。



「厳しい面もございましたが多くの事を学ばせていただきました!」



 

 元気を込めた渾身の解答を述べる。よく考えると答えになっていないがそこは勢いでカバー。有耶無耶にしてしまえば全て解決するのである。雑談はこんなものだろう。であとはマナー実技に全力を注ぐだけだと思っていると、中年男から予想外の言葉が飛んできた。



「なるほど。ちなみになんだが、私はズィーボルトの事が好きじゃないんだ。いや、嫌い。嫌いだ。うん、嫌い、嫌いだな」


「え?」



 固まる。信じられないカウンターに思考が止まる。真っ白なキャンバスなどわけもないくらいに、頭の中が真っ白となった。




「嫌いなんだ、あの男が。まったく気に入らないね。鼻持ちならない、いけ好かない男だよ」


「そうなんですか……」


「そうとも。それで、どうだい?」


「え?」


「ズィーボルトの相手は疲れるだろう? なぁ?」


「……」



 窮する。どうするべきか、どうしようもないのか。俺は固まったまま中年男を見た。口角は上がっているのに目尻は水平だった。恐怖と焦りで、どうにかなりそうだった。

 



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