試験3

「それでは、本日の試験についてご説明いたします」



 大きな声が教壇から届いた。見れば試験官が立っており、周りの席は受験者で埋まっている。また、少し離れた場所にアデライデとヘンリエッタの姿もあった。彼女たちは一足先に、シュトルトガルドへと帰省していた。



「既にご存知の方もいると思いますが、本試験は筆記と実技に分かれております。筆記は基礎強化とリンガ語。実技は運動能力とマナーとなっております……」



 皆、一様に神妙な面持ちで前を向いていたが、その中でも野心を持っていそうな者、怯えていそうな者、腹痛でも起こしているのではないかという者と多様だった。また、実技試験に関して明らかに聞いていないと困惑する者もいた。俺もズィーボルトがいなければ、同じ表情になっていただろう。おのれエッケハルト・フライホルツである。

 俺は周りからどのように見られていたのか気になるところではあるが、当時はもう切羽詰まっていてそんな事を考える余裕はなかった。頭は目に入る空間と聞こえる声を把握する以上の働きができないくせに、ところどころ試験管の言っている内容が入ってこない。なんでもない単語や服装に注目してしまったりしていた。きっとストレスからの逃避行動なのだろう。とにかく俺は土壇場や本番といった場面に弱く、平時の精神ではいられないのだ。



「説明は以上となりますが、質問のある方はいらっしゃいますか?」



「……」



「いませんね。それでは試験を始めます。試験容姿を表にしていってください」



 俺は先程配られた紙に触れたのだが、いつの間にこんなものを受け取ったのだろうかと混乱をきたした。これは試験管が説明している最中、入り口に立っていた男が席を回って配っていたのだが、動転の最中にあったためそれを認識できていなかった。


 ともかく試験が始まったため解かなければならない。置かれた紙は重なっており厚く、人差し指の第二関節ほどまで積まれていた。時間の指定は昼過ぎ。太陽が頂点に登った頃合い。そこから休憩を挟んで運動とマナーの実技。最後に面談といったスケジュールである。時間が決まっている以上まごまごしている暇はなかったが、俺は用紙を表にするのを躊躇った。もし一目見て、両手をあげて降参するしかないような高度な設問があったらどうしようかと怯んだのだ。ここまできて今更どうしてそんな心境に陥るのか自分でも不思議であるものの当時の俺は尋常ではなかった。おかしな思考に囚われても仕方がない。

 それでも紙を触っているばかりもいられないというのはわかっており、今一度どうして苦難を強いて勉学に励みここへやってきたのか、生きるためではないかと鼓舞し腹を決める。駄目だったらこのまま行方を眩ましどこかでルンペンにでもなろうとヤケクソ気味に用紙を翻して問題を見た。途端、一面に記載された設問に威圧される。これまでに見た事のない密度で刻まれている文字。読み解く人間の気持ちなど全て無視されたノーデザインな体裁は視覚兵器である。これを読み解いて答えを記載していかなければならないのかと、内心で悲鳴をあげる。「やっていられるか」と投げ出せば多分のカタルシスを得られようが、刹那的、破滅的な生き方を選ぶ度胸はなかった。疲れ目を酷使し一文字、一文、一節、一段落と追っていく。幸いにして内容は平凡であり、多くが過去に対応済みのものだった。俺は霞む視界を目一杯搾り出した意力で打開し、ミスをせぬよう繊細に、されど遅延しないよう注意しながら思い切りよく答案を埋めていった。それはもはや作業といっても差し支えなく、工場の現場業務と変わらない、ルーティンとケアフルの流れ作業。短期間で編み出した即席のシステマタイズにより驚く程の効率化が実現された。それを可能としていたのは溢れる知識である。

 ほぼノータイムのQuestion &Answerに自信と高揚感が湧き立つ。ここまで続けてきた努力は無駄ではなかったのだ。持たざる者が、何も得てこなかった者がここまで成長した。それが嬉しく、感動があった。どうせできない。やるだけ無駄と諦めず、ひたすらに、愚直に、泥臭く、毎日毎日命を削って羊皮紙を書き潰してきた意味があったのだ! 




「それまで」




 監視員から試験終了の声がかかった。ペンが置かれる音と溜息がにわかに立ち上がり、緊張の緩和が訪れたのだが、よくよく耳を澄ましてみると啜り泣きや出題への不満が聞こえる。悲喜こもごも。誰かの成功の下には誰かの失敗があるのだ。筆記はなんとかなったが、実技では俺が涙を呑むという事もあり得る。自分でいうのもおかしいが、そんな殊勝な気持ちで背筋を伸ばした。



「それでは、解答を回収していきます。この後は小休止を挟んで実技試験となりますので、手洗い以外で部屋から出ないように。また、すぐに軽食を出しますのでそれまでは着席していてください」



 答案が回収され、目の前に小さな黒パンとよく分からない果実が置かれた。紙はふんだんに使う癖に昼食はケチだなと思ったが、シュトルトガルドのあるジャマニ南部は水資源が不足しがちであるため仕方のない事だった(カフェで茶を飲むだけでも一食分の値段は取られる。母親役の人間がいかに浪費をしているかこれで分かるというものだ)。そもそも、戦中に食事が出てくるだけでもありがたいという話である。俺は黙ってパンをちぎり、心の中で「いただきます」と唱えた。




「オリバー!」



 パンを齧り解いた問題を思い出しながら自己採点していると知った声が聞こえてきた。アデライデである。



「一緒に食べましょう」



 彼女の右手にはパンが握られていた。「男爵家の御令嬢が黒パンなどを口にするのか」と皮肉めいたジョークを言ってやろうか悩んだが、やめておいた。




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