神学校へ32
それにしてもなぜあのような傲慢娘に好意を寄せるのかちっとも分からなかった。ハルトナーは貴族と平民の垣根を破壊しようと思っているがヘンリエッタは貴族の象徴。民主主義と貴族主義という相反するイデオロギーが混ざり合うとは到底思えない。思想でいえばアデライデの方が余程近いというのになぜヘンリエッタなのだろう。これについて下世話な俺はこう考えた。ハルトナーの獣が、発育している身体を求めたのではないかと。
ヘンリエッタとアデライデの身体的特徴には大きな違いがある。小さく細く、料理した後の鶏肉のように引き締まった体躯のアデライデに対し、ヘンリエッタは豊満であり、十代ながら女としての部分が発達していた。好みは人それぞれであるものの、ハルトナーの若い性がどちらに動物的情動を傾けさせるのかという話になるとアデライデは分が悪い。子供時分であれば身体よりも顔に惹かれるものだがハルトナーは思春期真っ盛り。男女の肉を意識する歳である。もう二年、三年若ければアデライデにもチャンスがあったかもしれないが、滾る血潮が胸部、臀部、大腿部の魔性に抗えるとは到底思えない。ケダモノは肉を好むのだ。性の化身へと変貌したハルトナーは、肉が実ったヘンリエッタに必要以上の欲望を抱いていると俺は名推理したのである。
「君、今はヘンリエッタの肉体が眩しく見えるかもしれないけれど、長い目で見た場合はもっと薄い身体をした女の方がいいぞ。運が良ければ四十、五十で熟れるけれど、たいていの場合は早々に腐って酷い有様になるからね」
俺はフェミニストでもなければアンチエイジストでもない。公共の場でなければ誰に何を言おうが自由である。ただ、自由は自由であるが、的を得ているかどうかは別の話だ。
「君はなにを言っているんだロルフ」
「なにって、君はフロイラインズィーボルトの、豊穣の女神を思わせるような肉付きに惚れているんじゃないのかい」
「馬鹿な事を言うな。君、発言が最低だぞ」
ハルトナーからお叱りの言葉をいただく。どうやら名推理ではなく迷推理のようだった。とんだ早合点である。
「となると、君は彼女のどこに惚れたんだ。顔面の造形か?」
「確かに美貌にも惹かれてはいるけれど、そこじゃないんだ」
「他に美点があるのか?」
「……君は、ヘンリエッタが嫌いなのか?」
「すまない。そうじゃないんだが、フロイラインには一度きつく言われているからね。どうしても色眼鏡で見てしまうよ」
「なんだい色眼鏡ってのは」
「あ、それはいいんだ。忘れてくれ」
この時代、サングラスはまだ普及していない。色眼鏡などという単語は理解できないのだ。
「で、彼女のどこに惚れたというんだ君は」
「……誰にも言うなよ?」
「言うもんか。僕たちは親友だろう」
言うにしたってアデライデかヘンリエッタ本人くらいなものである。アデライデに伝えるような残酷さはないし、ヘンリエッタに言って聞かせる度胸もない。
「……彼女は、優しいんだ」
「優しい?」
「そうとも。あれだけ慈悲深い女性を、僕は見た事がない」
「君はシュトルトガルドの屋敷で使用人から折檻でも受けていたのか? そうでなければ、あのおん……フロイラインズィーボルトを優しいなんて表現するのはちょっと理解に苦しむんだが」
「君、本当に彼女の事嫌いじゃないのか?」
「勿論だとも。そんな事より今は君の恋物語だ。フロイラインズィーボルトは具体的にどう優しいんだ」
「さっき君が、きつく言われたと言っていたようなところさ。あれは、君が神学校の面接や、受かった際の生活で下手を踏まないようにあえて嫌な立ち回りをしたんだよ」
「あぁ。アデライデからも同じような事を聞いたよ。まぁ百歩譲ってそれは分かるけれど、普段のあの取っつきにくさはどういう了見なんだろうと思う事がある。フロイラインズィーボルトは貴族主義だろう? 君が掲げる社会平等とは正反対の思想を持っているんじゃないかい」
「あれは彼女が家を大事にしているからさ。知っての通りヘンリエッタは、直系ではないにしろフィレンチ王族の血を引いている。その伝統と誇りを守っているんだよ。ルイーザさんや。ズィーボルトさんのためにね」
「フラウズィーボルトのためというのはなんとなく分かる。しかし、ズィーボルト様のためというのはどうも腑に落ちないな」
「ズィーボルトさんね。貴族の生まれじゃないんだ」
「え?」
「あの人はその知識と功績から、ジャマニ皇帝からズィーボルトの名跡を継がれたんだよ」
「あれだけ貴族にこだわっていたのに、生粋の貴族じゃないのか……」
「そう。だから僕はあの人を尊敬しているんだ。その身一つで立身し、今や財政にも意見できる立場になっているんだから。けれど、それをよく思わない貴族も多い。成り上がりや上等庶民なんて陰で言われているんだ。酷い話じゃないか」
「確かに」
「だからルイーザさんも大変な思いをしているんだよ。ズィーボルトの家名は由緒あるけれど、ズィーボルトさんは庶民の出。王家の血族の嫁ぎ先として疑問を唱える声も少なくはない。まぁ、それだけズィーボルトさんが優れているからというのもあるんだけれど、貴族というのは能力だけを見ているわけじゃないからね。だから、ヘンリエッタは誰よりも貴族らしく立ち振る舞って、ルイーザさんと共にズィーボルト家を支えているというわけなんだよ。僕は。彼女のそういうところに胸を打たれ、人間的に惚れてしまったんだ」
「なるほど……そんな背景があるのか」
「そうとも。さっきも言ったが、誰にも言うなよ?」
「この話は君との信頼関係のみに影響するものじゃない。言えと言われても言うものか」
「……ロルフ。君のそういうところは素晴らしい。大切にすべきだ」
「しかしフロイラインズィーボルトへの好意はやはり理解できないな。嫌な言い方をされるのは慣れない」
「そういうはっきりとしたところも、嫌いじゃない」
人というのは目に映っているところばかりが全てではなく、心の内は決して覗く事はできない。ハルトナーの話を聞いて、ヘンリエッタにも立場と考えがあったというのは理解ができた。苦手意識は消えなかったが。
それはさておき、秘匿していたものをさらけ出しハルトナーは落ち着いたようだった。これでヘンリエッタからの依頼は完了。あとは二人の帰りを待つばかりである。
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