神学校へ33
待つまでの間、俺はアデライデの事を伝えるか悩んだ。それがどれだけアデライデの心を踏みにじり、ハルトナーを苦悩させる事であるか承知しながら尚、そんな邪悪なお節介をすべきか否か考えていたのだ。結局打ち明ける事はなかったものの、俺があの場で「アデライデは君に恋をしているらしい」と言えば情に絆され彼女の恋心が実った可能性もある。この時点ではハルトナーのヘンリエッタに対する恋慕は一方的なものであるから、アデライデに意識を向けさせるだけで別々の方向を見ていた相関図の矢印が相互を差す未来もあったはずである。けれどもそれはさすがに人としてどうだろうかという良識に阻まれた俺は黙秘を決め込み冷めた茶を飲んで血中アルコール濃度を下げる努力をした。酔っぱらって口を滑らせたなどという失態は避けるべきだからだ。
「ところで君は誰かに恋をしていないのかい」
ハルトナーの疑問に紅茶を飲み下して答える。「ない」と。
そもそも俺は大人だ。アデライデにドキリとした事は認めるがどうこうなりたいというものではない。
「それはもったいない。人生というのは一人では生きていけないからね。是非、恋をすべきだ」
「なんだ急に。だいたい、こんな人の少ない田舎で恋も何もないだろう」
「牛飼いのゾフィアとか、いつも笑っているミラとか」
「ゾフィアとミラね……」
牛飼いのゾフィアも微笑みのミラも客観的に見て美人ではあった。女性としての発育も年相応で、未熟ながらも男を受け入れる用意はできているようだった。普通の男子であれば彼女たちに好奇の目を向け、時に男を自覚させる存在であった事には間違いない。俺も子供であれば憧れ以上の感情を抱き必死になって一緒にワインを飲む口実を見つけて果敢にお誘いをしていたかもしれない。だが彼女たちが俺を受け入れるかは疑わしい。俺は決して顔面の作りがいいわけではなかったし魅力もなかった。勉学に力を入れているので頭脳は優秀だと認識されていたかもしれないが、田舎において学力の高低はさほど重視されない。顔と力強さと野性味が評価される主な指標である。
「ゾフィアもミラももっと相応しい相手がいるさ」
「そうかな。じゃあ、アデライデなんかはどうかな」
更に話題が拡大。とうとうアデライデの名前が出てしまった。この時の俺の心情は筆舌に尽くし難い。先に振り切った秘匿を暴露するという誘惑がまたぶり返したきたのだ。
「冗談はやめてくれ。彼女は貴族だ。それこそ。もっと相応しい相手がいる」
「ズィーボルトさんの例もある。君が実績を積めば問題ないさ。それに、今は難しいかもしれないけれど、近い将来必ず身分の差はなくなる。今のうちに好意を伝えておいてもいいんじゃないかな」
「不確定要素に頼り過ぎだよそれは。それに僕は恋だの愛だのは興味がないんだ。自分の人生だけで手一杯で、とてもじゃないけど人の人生に介入している余裕がない」
「そうか。残念だな。君とアデライデはお似合いだと思うんだけれど」
アデライデが聞いたら泣いて塞ぎ込みそうな台詞だった。知らないとは罪である。
「……君、アデライデにそういう話はするなよ?」
「どうして?」
「なんでもさ。もし守れなかったら君との関係性を考えさせてもらう」
「……分かった。理由は知らないけれど、そんな事で友人を失いたくはないからね」
一応ハルトナーに釘を刺しておいた。何度も述べるが、俺にも情はあるのだ。
「ところで、遅いな二人は。どこまで行っているんだろう」
「女同士の話は長くなるものさ。ハルトナー。僕は今ひどく眠い。仮眠を取るから、フロイラインズィーボルトとアデライデが帰ってきたら対応を頼みたい」
完徹の後にワインを飲み腹も満ちた。睡魔が襲ってこないわけもなく、瞼が重かった。ハルトナーからの「そりゃいいけど……」との返事を聞くや否や、俺はその場で倒れ込んだ。数秒もせず入眠したと思う。
目が覚め起き上がると窓辺は橙色に染まっていた。
「おはようございますオリバーさん。ゆっくり眠れましたか? そのまま朝までお休みになっていてもよろしかったんですよ?」
ヘンリエッタの嫌味は気つけに丁度いい不快感だった。
「申し訳ございませんズィーボルト様。少し気が緩んでおりました」
「謝る事など何もないですよオリバーさん。この仮住まいが余程居心地よかったのでしょう? 私達が帰郷した後にお住みになったら如何かしら。そしたらずっと眠っていられますよ? 誰に気を遣う必要もなく」
「えっと……あの、すみません……」
「だから謝る必要はないと言っているでしょう。えぇ。本当によかったです。お客様に眠ってもらえる程気楽にしていただいて」
「……」
「ヘンリエッタ。それくらいでいいだろう。ロルフも疲れていたんだ」
「なんですかハルトナー様。まるで私が悪いみたいな事を仰りますね」
「そう追い詰めなくてもいいだろう。確かに随分とよく眠っていたけれど、そこまで怒る事じゃない」
「怒ってなどいません。嬉しいんですのよ? 私を平民を見下す俗悪な貴族と仰っていた方が私の屋敷で非常におくつろぎになっているんですもの。ようやく心を開いてくれたと、胸いっぱいでございます」
見事な当てこすりにもはや笑うしかなかった。本当にこの女が優しいといえるのか。俺はハルトナーに問い詰めたかった。
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