神学校へ26

 コアへの怨嗟は積み上がる一方であったが同時に自己矛盾への葛藤も生まれ、待ちわびた朝食がちっとも美味しく感じず喉に入っていかなかった。


 俺は奴との会話でエニスを「まやかし」と答えた。しかしここは奴の言う通り現実なのである。この世界で生き、この世界の人間と縁ができてしまった。当然、情も芽生える。生まれて十数年の間に関わった人間達やジャマニの文化に絆されないわけがない。俺にとって、ジャマニは特別な場所になってしまっていた。

 だが同時に俺は日本の生活も、日本で築いてきた人間関係も忘れられず、全て捨てるのには抵抗があった。ろくでもない仕事のために命を削るような毎日だったが、俺が生きてきたという事実を消去してしまうにはあまりに長く日本で生き過ぎた。文化も生活も、やはり恋しい。固執するような黄金の記憶があるわけでもないのに、何気なく過ごしていたうだつの上がらない、冴えない日常について、戻ってきてほしいと祈らないわけにはいかなかった。あれだけ息の根を止めてやりたいと呪っていた上司の顔でさえ見たいと思ってしまう。かつての人生を振り返ると流れそうになる涙。これを抑えるのは難儀だった。

 こうした逡巡は多々あった。脳が若いせいか感受性豊かになり、発作的にセンチメンタルリズムが起こるのである。この時期は特に大変で、寝る直前などにふと考えてしまうと枕が濡れる事もしばしばあった。二度と日本に帰れないのではないかと思うと大きな喪失感に苛まれて胸が不安で重くなっていき、喉から「ぐぅ」と、声にならない悲鳴のような息のような音が絞り出されるのである。頭痛よりもなによりも、その瞬間が嫌だった。処理できない感情に支配されてしまうとそればかりしか考えられなくなり、余計に自己憐憫に陥ってしまうからだ。憂鬱というのは苦しいものだ。その苦痛から逃れるために、俺は勉学に励んでいたのかもしれない。

 受験勉強や将来制作する予定の銃について考えていると夢中になって、他の事は忘れられた。それだけが俺には救いだった。その救いを奪おうとするエッケハルト・フライホルツは敵だった。過去を思い出させ今を濁らせるコアは悪魔だ。ここまで表明すれば俺の奴らに対する怒りは理解されよう。誰にも語れぬ感情だが、語りさえすれば多数の人間から賛同を得られるだろうという予想は多少の慰めになる。俺の精神衛生を保つためには必要な事だ。







「ごちそうさま」



 上記の通り、コアのせいで朝食を食べ終えるのに時間を要し、満腹の余韻に浸る暇もなくすぐにジィーボルト邸へ行く準備を始める。歯を磨いて顔を洗って、余所行きに着替え、荷物を持って玄関に立った。



「あ。待って」



 今一歩で発つ俺を、母親役の人間が止めた。



「ケーキと葡萄酒を用意したから持っていきなさい。くれぐれも粗相がないようにね」


「分かっているよ」



 この時代のジャマニは水が貴重であったため、日持ちするワインが主な飲料水だった。すぐに飲むならフルーツの果汁やミルクでもよかったが、人の家に持参する場合は控えられていたし、なによりこの時は貴族のお坊ちゃんお嬢さんへの土産であるから、万が一もあってはならないため、ワインを持たせるのは必然だった。母親役の人間は根っからの庶民で貴族との付き合いもなかったから、ズィーボルト邸では紅茶やコーヒーをもってもてなされるとは考え付かなかったのだ。




「それじゃあ、皆様によろしくね」


「うん」



 母親役の人間に見送られ今一度玄関から外へ。明朝よりも陽が高く僅かに温もりもあったが寒いものは寒い。一着しかないコートを頼りに集落を歩く。辺りの草木に葉はなくすっかり禿げてしまっていて冬の様相。表面が白くなった道に枯れた土手。石のような皮を露わにした木々。どれも春夏にあった瑞々しさが消え去って、無機物と変わりないくらいに冷たい。

 この日は特に寒かった。身を縮めながら思わず、手にしたワインを一足早く失敬してしまいそうになるほどに。



「ロルフ。いいところで出会った」



 ワインを眺めていたところにやってきたのはハルトナーである。彼のおかげで秘密の喜びを味わう事ができず、「あぁ」などと気のない返事をした。




「なんだ、元気がないね」


「寝不足なんだ。今日、朝まで勉強していてね」


「それはよくない。いくら勉強熱心だからって、身体を鑑みないのは止した方がいいよ」


「今日、フライホルツ先生にも同じ事を言われたよ」


「フライホルツ先生と会ったのかい」


「うん、朝、散歩に出たら”深夜に君が勉強しているのを外から見たよ。あれはいけない。是正勧告を出させてもらう”なんて言われてしまった」


「いったいどうしてそんな風になるのか、いまひとつ要領を得ないんだけれど」


「僕だって分からないさ。あの先生は、とにかく尋常じゃないからね」


「君は殊更気に入られているからね。必要以上に面倒を見たくなるんじゃないかな」


「だから言ってやったよ。“二度と関わらないでください”って」


「なんだ君、そんな事を言ったのかい。駄目だよ」


「駄目なもんか。あの先生は僕を支配しようとしているんだ。これくらい言ってやらなきゃ、いずれ僕が駄目になってしまう」


「どうも極端だね。君ならもっと上手くやれると思うんだけれど」


「そこまで器用じゃないさ。それより、今日は随分と冷える。どうだい。母親からワインを貰ったんだけれど、お嬢様方に内緒で、二人で少しやらないかい」


「それもよくない。よくないけれど。そういった悪さは大歓迎さ」



 俺とハルトナーはワインを少しずつ回し飲みして顔を赤くした。ラーメンや牛丼は恋しかったが、この世界でも替えの利かない美味いものがあって、その内の一つがこの時のワインだった。どう考えても現実世界にある安酒の方が質はいいはずなのに、不思議と美味いと感じたのだ。記憶の美化といえばそうかもしれない。


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