神学校へ25

 けれども奴の背中は俺に語り掛けていた。決してこれでは済まないぞと、然るべき処置をするぞと訴えかけていたのだ。これは俺の妄想か、その後に行われたエッケハルト・フライホルツの暴挙を知っているからいえるのかもしれないが、並々ならぬ情念を燃やしていたのは確かなはずであるから、何かしら怨念めいた意思が猛っていたのは確かだろう。



 エッケハルト・フライホルツの背中が見えなくなると俺は空腹を思い出す。眩暈と吐き気を誘発しているあたり、先よりも悪化している事が伺えた。呑気に散歩などしている場合ではなくなり、川へ足を延ばす予定を変更。急遽帰宅の途につき、もと来た道を戻って自宅の扉を開けたのだった。結局この散歩はエッケハルト・フライホルツと出会って不快感を得ただけ。無益。



「オリバーお帰り。お早いご帰宅ね」



 家に入るとまだ母親役の人間が料理をしていた。



「お腹が空いたんだ。朝食はまだかい」


「もうじきだけど、我慢できない?」


「なにか、軽くつまめるものでもいいから欲しいな」




 母に頼み無花果を半分もらうと、それを一口で食べて自室へ行って椅子に座った。横になりたかったが、ひとたびベッドに飛び込んでしまえば意識を失う事確実。アデライデ達と約束した集合の時間までに覚醒できない可能性を考慮し睡眠を断つ。睡眠と食事。三大欲求のうち二つが満たされていないせいか次第に意識が朧気となりはじめ思考が濁った。頭の中が重湯になったようで、気分が悪い事は悪いのだが浮遊感と脱力により不思議な心地だった。この感覚には覚えがあって、現実世界の仕事終わり、終電に乗って帰宅しソファに座った際に陥った感覚と同じだった。エッケハルト・フライホルツではないが、子供がこのような思いをしなければならないというのは確かに非人道的である。俺はまだ精神年齢が大人だから耐えられるが神学校への進学を希望している他の者は身心共に十代前半。それでこの苦行を経験せねばならないとは、受験制度というのは大変な業ではないか。意識と無意識との境が曖昧となった危うい状態が常時続けば人格形成にも影響を及ぼす。破綻と隣り合わせだ。

 エッケハルト・フライホルツはそれを危惧していたのではないか。そんな好意的な解釈もできるが、それでも奴の独善と偽善は許容し難く、心中を汲み取る気にはなれない。どれだけ正しい信念を持っていようが、人の持つ自由と尊厳を無視し矯正を試みる人間とどうして手を握れようか。例え子供であっても理不尽を強要する輩とは相いれない。脳が重湯になっていても、それだけは確かに頭の中にあった。俺はエッケハルト・フライホルツが嫌いである。




 理不尽を強要する輩といえば、もう一人知っている者がいる。人間なのかどうかすら分からない、超神秘的な、超越的な力を持つ者。そいつがこの時、俺に語り掛けてきたのだった。




“どうですかエニスは。十年以上暮らしてみて、気に入りましたか“


「……」




 コアだ。コアが悪びれもせず俺に声を飛ばしてきたのだ。無理やり俺を異世界に転生させた、不条理の権化のような存在が!




“どうしましたか? 私の声が聞こえていませんか?“


「聞こえているよ」


“あぁ、よかった。それで、どうですかエニスは。いい世界でしょう。私はこの世界がとりわけ好きなのですよ。それだけに、迅速に救っていただきたいのです“


「……」


“おや、また黙ってしまいましたね“


「喋りたくないんだ、お前とは」


“もしかして、異世界に転生された事を怒っていらっしゃいますか“


「当然だろう。どうして俺が縁も所縁もない世界の救済などしなくてはいけない」


“縁も所縁もできたじゃないですか。この世界に生まれ、この世界の物を食べ、この世界のお友達もできた。これを縁や所以といわずしてなんと呼ぶのですか“


「まやかし」


“なるほど。ブッディズムにおける色即是空のフィロソフィですね“


「違う。俺が生きるべき場所は地球の日本だと言っているのだ」


“おかしなことを仰いますね。別に望んで生まれてきたわけでもないのに、生きるべき場所もなにもないでしょう“


「今までずっとそこで生きてきたんだ。それを今更別の世界で生きろと言われ、目的まで決められている。こんなもの、認めるわけにはいかん」


“しかし現実です。貴方は今こうしてエニスで生きている。まやかしではない“


「認められないと言っている。確かに日本で生まれたのは俺の意思ではないかもしれない。だが、生まれてからは俺の意思で生きてきた。それを否定する権利は誰にもない」


“そこまでしがみつく価値がありましたか。日本で生きていた事に。私は知っています。貴方が酷い労働条件の中粗末な食事で飢えを凌ぎ、小さな部屋で丸くなって眠る毎日を過ごしていたのを。何が面白いわけでも楽しいわけでもない。虚無と自堕落に塗れた人生。これを、貴方は肯定するのですか“


「黙れ! 俺の人生を貴様が計るな!」


“日本で暮らしていた頃と比べてどうですか。目標があるエニスの人生の方が余程生き甲斐があっていいと思いませんか。一所懸命になれているのではないですか“


「黙れと言っている! お前が決めるな!」




 椅子から立ち上がると声は聞こえなくなった。代わりに母親役の人間がやってきて「どうしたの」尋ねてきた。俺は「悪夢を見た」とだけ答えた。同時に、この世界が夢だったらと、頭に過ぎった。


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