神学校へ22
本と羊皮紙を片付けると、伸びをして一息つく。
腹が鳴った。
時間を有効活用したような気持になったのと不眠から生じた脳内物質の分泌によって頗る空腹だった。脂肪と塩分がふんだんに使われたラーメンを食べたいという衝動が襲ってくるもこの世界、この文化圏的に背脂ちゃっちゃなどあるはずもなく、トンコツスープが急に恋しくなる。
食の問題はラーメン以外にも当然あり、俺の生活から豊かさを奪っていた。腹が減れば数百円で食べられる牛丼屋もコンビニのホットスナックもない。少し贅沢すれば入れる焼肉屋もレストランもこの世界には存在しない。食べたい時に食べたいものを食べられないというのは、想像よりもずっと悲観的にさせるもので、俺は数えきれない落胆を味わった。転生してから何度感じ得ぬ味を求めただろうか。格差はあったが、自由と娯楽は保障されていた日本はそれなりに良い国だったのかもしれない。もっとも、中世水準の異世界と比較した場合であるが。
ラーメンを食べたくても食べられず空腹に苛まれた俺は気晴らしの散歩に出かける事にした。途中、母親役の人間が厨に立っていたので挨拶をする。
「オリバー。早いじゃない」
「うん。少し早めに起きて勉強していたんだけど、丁度キリがついたから少し散歩に行ってくるよ」
「そう。勉強を頑張るのもいいけど、ほどほどにね。身体壊しちゃなんともならないんだから」
母親として満点の対応。腹を痛めて産んだ子供だ。無茶をして身心に不可逆の傷が入ってしまうなど望むところではないだろう。
ただ残念な事に俺は彼女の子供ではない。肉体的な意味では確かに親子だが精神性は赤の他人。この女の心情は慮るべきだろうが命あっての義理人情。なんどもいうが徴兵されれば死ぬ。己の生き死にがかかっている以上、無理を通させてもらう腹積もり。
「気を付けるよ」
建前を述べて俺は家を出た。まったく気を付ける気などないのだが嘘も方便。これも気遣いである。
日の出たばかりの外は肌寒いというには風が強く空気が冷た過ぎた。それでも、照らされる大地の輝き、薄凍色の空、氷結寸前の川の流れ。普段は眠っていて見る事の出来ない景色を目にできたのは新鮮で、一と時の間頭痛を忘れられたのた。「なんと世界は美し」などと安い演劇のような台詞が自然に浮かび自嘲するも、やはり目に映る集落の風景は明媚で俺の心を安らかにしたのだった。奴に会うまでは。
「オリバー」
気安く名を呼ぶ声に聞き覚えがあった。あの面倒くさい偽善教師、エッケハルト・フライホルツである。
「おはようございます先生。こんな時間から起きているんですか」
「そうだね。いつもはもっと遅いんだけれど、昨日。少し気になるものを見たからね。ちょっとだけ様子を伺いにきたのさ」
「そうですか。それじゃあ、僕はもう少し散歩をしますので。これで」
意味深な事を言っていたが関わりたくなかったため即刻その場から離れるべく別れを切り出す。俺はエッケハルト・フライホルツなどと話すために早朝の散歩に出たわけではない。気晴らし、気分転換が目的である。不快感しか生まないこの男とお喋りなどできるかと、反対方向を向いて足早に去ろうとした。
「待ちたまえ」
たが、肩を掴まれ歩みが阻止。エッケハルト・フライホルツの右手が俺に伸び、進行を妨げたのだ。
「なんでございましょうか」
仕方なしに相手をする。実に不快だった。
「気になるものを見たといっただろう。それが何か、分かるかね」
「ちっとも分かりません」
「であれば教えてあげよう。深夜。君の邸宅から光る火の明かりと、照らされる君の顔を見たのさ。オリバー。君が勉学に熱心なのは結構な事だが限度がある。子供は子供の生活があり、それをまっとうしなければならない。そういう意味では君の夜更かしは、残念ながら看過できない。学長に話して是正勧告を君と、君の両親宛てに出させてもらうよ」
「……」
頭の中が混乱、驚愕、怒気、嫌悪の順で駆け巡った。このエッケハルト・フライホルツは深夜に俺の部屋を覗き込んだ挙句、俺の目的を阻もうとしているのだ。いったい何の権利があってそのような暴挙に出るのか。さすがの俺もこの時ばかりは理性が引っ込む。へいこらと「分かりました」では済ませられなかったのだ。
「先生。どうして先生は深夜に僕の家の周りにいらっしゃったんですか?」
「学校で作業をしていたんだがつい眠りこけてしまってね。気が付いたら夜も更けていたから急いで帰ったんだ。そしたらチラと光が目に入るものだから、気になって見てみたというわけだよ」
「好奇心で人の家の中を覗いたのですか」
「それについては申し訳ない。だが、もしかしたら物盗りの可能性もあると考えたんだよ」
物盗りが明かりをつけて忍び込むものか。だいたいこの小さな集落で誰がそんな真似をするというのだ。絶対に露見する。それとも放浪者がわざわざやってきて盗みを働くと思ったのか? こんな辺鄙な場所に? 馬鹿げている。
感情のままそんな言葉を叩きつけてやろうかと思ったが耐えた。後に学長なり親なりを交えて話す時に言った方が効果的だと判断したからだ。それよりも、俺はエッケハルト・フライホルツの人間性を軽蔑してやろうと思った。
「理由はどうあれ、人の邸宅で行われている事について口出しする権利は、如何に先生といえども有していないのではないでしょうか。自然権の侵害に該当すると、僕は考えます」
「オリバー。君は勉学に憑りつかれている。人間の可能性はもっとたくさんあるんだ。そこに目を向けてほしい」
そんな話はしていない。この男はまったく、自分の尺度と価値観でしか物を測れない哀れな人間である。
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