神学校へ21

 ズィーボルト邸での学習を終えた俺は家に帰ると父親役と母親役の人間にお泊り会がある旨を伝える事にしたのだが、「子供だけで一夜を過ごすなど許すはずがないだろう」と叱咤されたら、それはそれで気楽だなと思った。楽しみになってしまってはいるが、やはり時間は惜しい。アデライデは集まって勉強をすればいいなどといっていたが、俺は人がいるとどうも集中できない質で、机と椅子を並べて仲良く教え合いなんてできない。一日の学習効率が著しく低下するのは避けられず、その分、他の誰かよりも遅れをとってしまう。神学校へ入学を希望する人間は優秀かつ努力を怠らない者ばかりであると聞いていたから、一日とはいえ無駄にしてしまう事を俺は恐れていた。それでも、何度も述べるがお泊り会を楽しみにしてしまっている部分もあるから、ここは親の強権を発揮してちゃぶ台をひっくり返してほしいと願ったのである。俺は「今いいかな」と父親役、母親役に向かって口火を切った。食事中、団欒の時。二人のうち一人、あるいは二人が厳格な教育信念を持っていたら楽しい夕食が台無しとなってしまうだろう。だが大変申し訳ないが、そうなったらそれはもう、副作用として、そういうものであるという事で耐えねばならないし、耐えていただきたかった。また、俺からしたらむしろ、その程度で時間が確保されるのであれば安いものだとさえ考えていた。




「ザクセンさんとズィーボルト様。それとハルトナーから、ズィーボルト様の屋敷の離れで明日一晩を明かそうと誘われたんだけれど、行っちゃ駄目かな」



 言い終わった後、奥歯を噛み締めた。鉄拳制裁を受けるための準備である。父親役からも母親役からも殴られた事などそれまでなかったが、人間はどこにどんな地雷が埋まっているのか分からない。目の前に座る両親役は子供の自由を許さず成人するまでは所有物とみなし自我を許さないタイプかもしれないと用心したのだ。しかしながら、そんなものはまずあり得ないだろうと分かっていたし、特に父親役の男は……



「勿論だとも! 存分に楽しんでこい! あぁ、菓子を持たせよう。モニカ。林檎のケーキを作って持たせなさい。貴族の方々が食されるような上品な味付けにしてな!」



 そうなるだろうなと思った。権威主義者のこの男であれば、貴族との交流を止めるはずがない。反対される可能性は、俺の希望であり幻想だった。そうとも。俺は自分で断る事ができないから、両親役の人間にどうにかして止めてくれないかと願ってしまったのだ。愚かな他力本願である。



「ベルント。貴方、いつも作る私のケーキが下品だって言いたいの?」


「あ、そういうわけじゃないよ! 言葉のあやだよあや!」


「ふぅん」




 夫婦間に入った俄かな亀裂はこの際どうでもよかったし林檎のケーキについてもこれといって感じるものはなかった(あまり関係ないが田舎の鼠と都会の鼠という寓話を思い浮かべはした)。それよりも、許可が出てしまった以上、遅れてしまう学習分をどこで帳尻合わせするか必死になって考えねばならなかった。勉学で消費する時間は十六時間程度だから、睡眠時間を八日間だけ二時間削ればいいという計算になるが、事はそう簡単ではない。十六時間あればスケジュールを立てて何時に何を学ぶか効率的に分配できる。しかし、そこに二時間だけ延長してもできる事は限られてしまう。失われたのは時間そのものではなく学習の機会であるわけだから、その損失した機会を全て補う事ができなければ挽回したとはいえない。理想は六時間以上。六時間を、休みも暇もない殺人的日程に差し込む隙間が果たしてあるのか。俺は飯を呑み込みながら考え、結局答えが出ずに自室へ戻り、蝋燭に火を灯して学習机に向かった。それからひたすらに羊皮紙へ文字を記載していき、十六本目の蝋燭が燃え尽きそうになるのを確認して寝る支度を整えた。勉強を始めたのが大体六時。蝋燭一本で三十分程の燃焼であるため、深夜二時頃である。

 ここで俺は閃いた。あと八時間勉強すれば十六時間のうち半分が消化できる。それと同じ事をもう一度行えば、失われた学習時間がそっくりそのまま戻ってくると。

 二日に渡って徹夜を敢行し、後れを取り戻さんとする算段。完璧のように思えた計画は即座に行動に移され、俺は新しい蝋燭をランプに入れた。二本、三本と順調に消費していき、八本目の延長に入る際に異変が発生。瞼が重く、集中力を発揮できないのだ。身体が睡眠を欲しているのである。ぶっ続けての作業に脳が悲鳴を上げ休止を訴えかけてくる。蝋燭三本目までではなんとか耐え凌げたが、四本目からは夢と現実の境界が曖昧となり文字を追う事も覚束なくなった。これでは勉強どころではない。仕方なしに、俺はカフェインの力を頼る事にする。この時代、コーヒーはまだまだ貴重であり上流階級の趣向品であるため庶民が手にするなどまずできなかったが、俺には貴族の家に出入りする機会があった。そう、ズィーボルト邸のパントリーから、いざという時のために豆をくすねてきたのだ。

 この時がいざである。俺はコーヒー豆を二粒口に入れかみ砕いた。舌が炭に支配され吐き戻しそうになるも呑み込む。効果は覿面。たちどころに眠気は退場し、再び集中を取り戻す。機械的にペンを動かしているといつの間にか朝は明るみ小鳥がさえずっていた。俺は頭痛を併発しながらも、徹夜の学習を遂行したのだ。


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