神学校へ10
「ここには熊も蛇も出ないよヘンリエッタ。猪なら目にするけどね」
「あぁ! やっぱり野生の動物が生息しているのですね! 襲われたらどうしましょう! ねぇハルトナー様、ロルフ様。私とアデライデを守ってくださる?」
「そりゃあ猪が出たらできる限りの事はするけれど、めったに出くわすようなものじゃないさ。シュトルトガルドでゴロツキに声をかけられる事の方が多いくらいだよ」
「シュトルトガルドは治安が悪いのかい」
「そんな事はないさロルフ。ただ、やっぱり一定数道を踏み外す人間はいるね。僕はよく演劇を観に行っていたんだけれど、その帰りにカフェがあって、そういう連中がテラスで騒いでいたんだよ。“おい坊ちゃん。一人でお散歩かい? 気を付けなよ。この変は物騒なんだ。いつ攫われるか分かったもんじゃないんだからな”なんて言って脅してくるのさ。酷い時にはティーカップや皿が飛んでくるものだから、困ったものだよ」
「それはハルトナー様がお供もつけずにそんな所を出歩いていらっしゃるからでございましょう。私はそのような経験、一度もございませんよ」
「一人でできる事は一人でやるというのが我が家の家訓なんだ。だから仕様人だって最低限しか雇っていないんだよ。ヘンリエッタ、君だってそれは承知しているだろう」
「付き添い人は最低限に含まれると私は思いますけれど。もし本当に誘拐なんてされたら大変じゃございませんか」
「そうなったら確かに困っただろうけど、今こうして無事でいるんだ。だからそれでいいんだよ。それより、出発しようか。日が暮れてしまうからね」
話しを打ち切ったハルトナーが歩き出すと、ヘンリエッタが自然と彼の隣にくっ付いて足並みを合わせた。必然的に俺はアデライデと並んで歩く事となる。王族の血を引くお嬢様のエスコートを回避できたのは幸いだったが、アデライデとて男爵の娘であり、やはり気を遣って嫌な汗をかいた。
「ロルフ様は、普段、どんな事をされていらっしゃるんですか?」
アデライデからの質問にどぎまぎしながら「勉強です」と答える。彼女は「それはご立派でございますね」と笑った。ヘンリエッタと違って、本音と皮肉の看破は難しかった。なにせ彼女はごく自然に、爛漫とした笑顔を浮かべてそんな事を言うのだから、偽りではないと信じたくなるのが人情ではないか。けれども彼女は貴族で、庶民とは違う。「そんなお勉強ばかりで、平民は大変でございますね。私などはフリーパスで神学校へ入学できるというのに」という裏の言葉があるかもしれない。俺は決して心を許しはせず油断せぬよう、かといって警戒している素振りを見せぬようにアデライデと言葉を交わしたのだった。
「恐悦でございます。なにせ頭がそれほど上等ではございませんので、日々知識を詰め込まなければございません」
「そうなのですか。あ、それだったら、本日はお邪魔してしまいましたでしょうか。貴重なお時間をいただいてしまって……」
「いえ、本日は丁度休暇の予定でしたので……むしろ、私のような人間をこうしてお供にしていただけて、感激の至りでございます」
「それはよかったです。ところで気になっていたのですけれど、どうしてそのような、召使のような喋り方をなさるのですか?」
「男爵様のご息女に向かって気安い言葉でお話しする事などできませんので」
「あら、私、そんな事気にしませんから、普段通りにお喋りしていただけませんか。でないと、なんだか落ち着かなくって」
「そう申し上げましても、やはりやんごとなきお方に対しては礼節を守るべきかと……」
「アデライデ嬢がいいと言っているんだからいいじゃないかロルフ」
ハルトナーが振り返ってそういった。
「いや、しかし……」
「そうですよロルフ様。それに、貴族の格で申し上げましたら、当家よりもハルトナー様の方が遙かに上でございます。それをお考えになれば、私のような小娘相手に気を遣う必要などございません。どうぞ、普段通りにお話しいただければと存じます」
この提案、アデライデの罠かと思った。こう言っておいて、後から無礼な対応を取られたと吹聴し俺と俺の家を破滅させるつもりかもしれないと、一瞬考えた。しかしアデライデがそんな悪趣味な貴族ムーブをするようには見えなかったし、こちらには親友のハルトナーがついている。先に彼女が言ったように貴族としてはハルトナーの方が上であるから、もしもの時は彼が俺をも守ってくれるだろう。そうなってくると彼女の提案が大変素晴らしいもののように思えた。貴族とのパイプを作っておけば将来に役立つからだ。具体的にいえば銃を開発する際のパトロンになってくれるかもしれないわけである。アデライデの性格が裏表なく、感じ通りであれば、ヘンリエッタよりも友情を結べる可能性は高い。
「それじゃあ、今後は普段通りの口調で話しかけるとするよ。よろしく、お嬢様」
意を決した俺は、アデライデに向かって品位を落とさない程度にフランクな口ぶりで確認を取るのだった。
「アデライデと呼んでください」
「あ、アデライデさん……今後ともよろしく」
「はい、どうぞよろしくお願い致します」
さすがに呼び捨てるのは憚られた。
「親交が深まったようで結構でございますね。ロルフ様。私に対しては今まで通りの口調でよろしいですからね」
「……かしこまりました、ズィーボルト様」
ヘンリエッタはやはり、ヘンリエッタであった。
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