神学校へ5

「では、オリバー・ロルフの教育について見直していただけるのですね?」


「その通りだ。そろそろ考える時かもしない」




 不倶戴天の敵であるエッケハルト・フライホルツの言葉に耳を貸し、あまつさえそれを肯定するなど急転同地の出来事。ズィーボルトの不可思議な振る舞いに俺は自身の正気を疑った。度重なる勉学のストレスにより精神の均衡を失い幻聴、妄想の症状が誘発されたのかと慄いた。正気を失えば縁も所縁もない異世界で第二の生を受けるなどという理不尽極まりない超常的現象の渦中であってもくよくよと悩む事なく楽しいセカンドライフを謳歌できたかもしれず、むしろそうであったらと今なら思わなくもない。けれども実際には狂気でも聞き間違いでもなく、ズィーボルトの口から「一理ある」という利敵行為にも等しい発言が飛び出したのである。言質が取られた以上、ズィーボルトには今後の教育方針について修正する義務が生じた。話しを合わせるために頷く逃げのアグリーなど貴族にはない。有言実行の精神があってこその特権階級であるから、言った以上やらなければならないし、やらないのであれば言うべきではないのだ。もしそれができなかったとあれば貴族の名折れとして面汚しの誹りは免れず、生き恥を晒すのをよしとするか名誉挽回を求めて死地へと赴くかのいずれかしかない。つまりこの時のズィーボルトはとんでもない軽率な言動をとってしまったという事となる。こんな片田舎の、取るに足りない小人の戯言に対して。


 だがズィーボルトは万物の天才。考えなしに即断をするような人間ではなかった。俺はこの時、まだどこかで彼の思慮を軽んじており、変人が過ぎるだろうと内心で悪態をついていたわけだが、それは間違っていた。





「貴族として、行動で示していただけると信じております。フィリップ・ジィーボルト様」




 エッケハルト・フライホルツはそう言葉を残して去っていった。奴の姿が遠方に消えると、俺は「先生」と不安げに言葉を落とした。




「どうかしたかね」


「いえ、僕はですね、未だ数学とリンガ語が拙く、遊んでいる暇など……」


「そんな事は知っている。だがね庶民ロルフ。君は神学校へ入学したいのだろう」


「だからこそ、勉学に励み抜かりなく受験に挑みたいのです」


「そう、庶民はそういうものの考え方をする」


「貴族の方は違うのですか?」


「違うとも。まず君は神学校の受験科目を知っているかね」


「数学と語学と幾何学と天文学。それから歴史と神学とリンガ語です」


「それだけと君は思うか」


「他に何かあるのでしょうか」


「あるとも。だから庶民は易々と入学できず辛酸を舐めるはめになる」


「分かりません。他に何を覚えるべきか、教えてください」


「あの教師が言った通りだ。遊びだよ」


「遊び。どのような遊びなのでしょうか」


「基本的な礼儀作法に加えて発育優良検査がある。会食時のマナーとダンスと茶の飲み方。それから競争と円盤投げだ」


「それが遊びですか」


「知識の探求に比べれば、遊び以外のなにものでもない」


「なるほど。しかし、そんな科目があるなんて初めて伺いました」


「それはそうだろう。なにせこれは庶民を落第させるための試験であるから、非公開となっている。貴族しか知らん」


「あ、そんな差別的な選別があるのですね」


「そうとも。しかし庶民であっても突破する事は可能だ。そこは中立。だから豪商などは法外な金額を積んで貴族に教えを乞う事もある」


「……」




 俺は衝撃を受けたと同時にハルトナーと神に感謝した。もしズィーボルトがいなければ俺はこの事実を知らず、田舎者丸出しで受験に挑んだ結果敵前逃亡をはかりおめおめと故郷に帰ってくる新兵のような心持で敗北に打ちひしがれなければならないところであったからだ。ズィーボルトが召集されなくとも、どこかのタイミングでハルトナーの口から聞けたかもしれないが、そうだとしても貴族所作などを独学で身につけるなどまず不可能。社交界に通ずる人間にご指導いただく他に術はない。




「早速ご教授願いたく」




 俺は前のめりでズィーボルトに懇願した。しかし、けんもほろろであった。




「君はたまに愚かな事を言う。私がそんなものに興味があるわけがないだろう。おっと、誤解はしないように。無論、貴族としての振る舞いは心得ている。だがね。そんなものを他人に教えたくはない。それは執事の仕事ではないかね」



 この世界でのマナー教育は本来、勉学と一緒に家庭教師が教えるというのが一般的であったから、ズィーボルトの弁は間違っている(教養と品格を兼ね揃えた執事が担当する事もあったそうだが、ジャマニでの執事の扱いはあくまで一使用人という位置づけであるため稀である)。しかし当時の俺は無知であったため、そんなものかと納得したのだった。




「では、誰に教えていただけるのでしょうか」


「シュトルトガルドから妻と娘を呼んだ。もうじき到着するだろうから、二人から教わるといい」


「奥様がいらっしゃるのですか」


「私が嫁ももらえない半端者だと思ったのか君は」


「あ、いえ、そうではありません」




 コミュニケーションブレイクダウン。俺はわざわざこんな辺鄙な場所に家族を呼びつけたのかと聞いたつもりだったが、ズィーボルトは結婚しているのかという意味に捉えたようだった。わざわざ説明するのも言い訳がましく聞こえるし面倒なので、俺は謝罪を述べるだけに留めた。




「着いたら紹介する。それまではいつものように勉強だ。発育検査対策については……その辺を走っておきなさい。ハルトナー伯爵家のご子息が付き合ってくれるだろう」


「分かりました」




 ズィーボルトの言う通りハルトナーに頼んでみたところ本当に一緒になって駆け回ってくれて、思ったよりも愉快な思い出となった。ズィーボルトの妻子が到着したのは、そんな無理な運動により発生する筋肉痛に悩まされなくなってきた頃である。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る