第31話 時雨時施す

 西の空をジッと、見つめる男がいる。

 

 何かを待つように、常に、西の空を気にして見上げる男がいる。

 男の傍らにいる見事な赤い栗色の毛並みを輝かせる馬もまた、同じように空を見上げる。

 空には、雲一つない、晴れ間が広がっている。

 秋晴の中、涼しい風が彼らの側を通り抜ける。


 その天気に、男は今日も、待つモノが来ない事を悟るのだった。


 〇


「こら、ぼさっとしてないで、さっさとついてこい」

「あ、はい! すんません」

 馬借の青年、馬飼宗近は、見上げていた西の空から目線を外す。

 今日の宗近は、港町の便利屋、天具てんぐ風来ふうらいの手伝いが仕事だ。

 理由は、港町の男衆がゆっくりしていろと、まだ仕事をくれない事が一つ。

 これに関しては、盛大なる誤解がまだ解けていないので、宗近も仕方ないとするしかなかった。

 それでも、身体を動かしていないと落ち着かない性分の宗近は、茶屋の手伝いをしていた。

 今日も茶屋の手伝いをするつもりだった。

 が、昼過ぎになったころ急に、便利屋の風来がやって来て「宗近を借りる」と言って、外に引っ張り出したのだ。

「一度でいいから、お前と働いてみたかったんだよ! それに、お前も何かと出来るようにしておけば、他所の町やら村やら言った時に、荷運び以外にも役に立てるからいい事だろう?」

「は、はぁ……?」

 宗近には便利屋としての技術を教えるという建前で、茶屋から無理やり引っ張り出しえて来たが、風来は個人的に宗近と話をしてみたかったのだ。

 この馬借の青年は面白い。

 海の民には珍しい山の幸を持ってくるところも、馬を愛してやまないところ、茶屋の若旦那に入れ知恵ができるほど回る頭。

 そして何より、あの山の中の神社の主たる神に好かれているところも、風来には面白かった。

 何をどうしたら、そうなるのか。風来は聞いてみたいと思っていた。

「ところで、板材やら工具やら持って、また雨漏り修理ですかい?」

「いや、そろそろ雨漏りよりも、寒さ対策してやらねぇと。ここいらは、あんまり雪は降らねぇけど、風は強くなる。からっ風が家の中まで吹きこんだら、小さい子どもらや、老人はすぐ弱っちまう。だから、そういう家を中心に回ってやることにしているんだ」

「なるほど……」

 宗近の故郷は、冬は雪深い地域で、寒さで馬や年寄り、幼い子どもが弱って行くのを間近で見てきた。

 それに宗近自身も冬に吹く冷たい風には、毎年苦労させられている。それを防ぐと言うのなら、今日はこの不思議な男に付いて周ってもいいだろう。

 そう言えば、アオがこの男は本物の天狗だと言っていた事を思い出す。

 だが風来のぱっと見は、港町で働く男たちと変わらない。

 赤ら顔でもないし、鼻筋は通っているが、長くはない。少し赤銅色っぽい髪を一本にまとめている姿からも、伝承にある天狗、というよりも普通の人間の男と変わらない。

「なんだい? 俺の顔が気になるかい?」

 つい、ジッと見すぎてしまっていたようだ。

「いや、別に」

「いいんだぜ。なんたって、俺は、良く働く美丈夫びじょうぶの風来さんだからな!」

「……はぁ?」

 宗近の口から思わず、呆れた声が出る。

 アカに乗って、それなりに旅をしてきた宗近でさえ、自分で自分の事を美丈夫いけめんと言う男に出会ったことはない。

 宗近は、激しく今すぐに、茶屋へ引き返したいと思った。

 だが、思った途端に、風来に肩を組まれた。天狗なだけあって、力が強く、振りほどけそうにない。

「そんな俺が、お前に仕事を伝授してやるんだ。光栄に思え!」

「……」

 宗近は、大人しく天狗に付いて行って仕事をするしかなかった。

 

 〇

 

 風来に連れてこられたのは、港町の西側ある長屋が建ち並ぶところだった。

 風来はこの長屋の住人達、特に年寄りに好かれているようで、ちょっと歩くだけで、茶菓子だ、お裾分けだと、様々な物を貰う。

 宗近もついでとばかりにもらうので、両手がお裾分けでいっぱいになってしまったので、まとめていつも腰に下げている巾着へ入れておくことにした。

 日持ちしそうな物は、アオの為に取っておこうと考えて、またいつもの癖で社のある山の方を見てしまう。

 今、アオは出雲へ行っていて社に居ないのに。

 御使い様が迎えに来る前に、宗近は、アオからだいたいの日程は聞いていた。

『おそらく、御使い様が早駆けをして三日以内には出雲に着かねば、間に合わぬ。そこれから七日かけて、神議りを行う。神儀りが終わるまでは、出雲を離れることができぬ』


 アオが出立してから、もう三日経った。


 今頃は、出雲に着いているのだろうか。

 まだ帰って来ないとわかっているのに、宗近はアオと御使い様が飛び立った西の空を見上げる。

「おい、こら。お前また、神社のお姫様ひぃさまの事を考えていたな?」

「え?」

 風来はお裾分けで貰った団子の串も振りながら、宗近を睨む。

「俺は天狗だからな。神社のお姫様も見えるし、そのお姫様が良くしている人間の事も知っている。特にあんたは、あのお姫様が入れ込んで……いや、惚れ込んでいる男だ。あんたも、お姫様に惚れている。そうだろう?」

「……ちょっと、待ってくれ。どこから突っ込んでいいのかわからない」

 ひとまず、目の前の男が天狗であると言うことは、置いておこう。天狗は山の神なのだから、アオの姿を見ることができても不思議はないし、良くしている人間の事を知っていてもおかしくないだろう。

 だが、『アオが宗近に惚れ込んでいる』と『宗近もアオに惚れている』という話は、一体どこから来たのか。

「俺はこれでも天狗なんでね。この長屋にいる年寄り達よりも長く生きているし、人に紛れて生活してきた年数もそれなりの長さになる。だから、わかる。お前はあのお姫様に気に入られているし、惚れ込まれている。お前はお前で、あのお姫様に惚れている」

「よし、まずだな? 俺が、アオ様に惚れている訳がないだろう。相手は神様だぞ? それに、アオ様の見た目は幼いじゃないか」

「え、嘘、お前、年嵩の女が趣味なの? さすがの俺も引くわぁ」

「断じて違う!!」

 何故そうなるのか。どうにも、人ならざるモノは、やけに特殊性癖を疑ってくる。

「それに、アオ様が俺の事を気に入って、は……いるかもしれないが。何でそれが、惚れた腫れたみたいな話になるんだ。おかしいだろう」

「いいや、何もおかしくないね。そうやって名前を呼んでいるのが何よりの証拠だ」

 また、名前か。

 さすがの宗近もそれには反論できない。

「俺たち人ならざるモノは、名前が一等大事なモノだ。なんせ、自分の命に等しいモノだからな。だからこそ、俺たちはそう簡単に名乗りはしないし、名を呼ばせたりもしない。たとえ取引をしていても、だ。河津の息子なんかは、その辺上手いぞ。よく河童たちと渡り合っている」

「あんたは、どうなんだよ。風来って呼ばれているじゃないか」

「これは、俺が俺自身に付けた名だ。どんなに人間に呼ばれたところで、大したこたぁねぇよ。本来の名前は別にあるしな」

「……で、そんな大事な名を呼び合っているってだけで、惚れていることになるのか?」

「わかってねぇなぁ。お前、女がいた事ないだろう? 言い寄られた事も」

「今すぐ、アカに積んだ板も工具も降ろして、茶屋に帰ってやってもいいんだが?」

「まぁまぁ、待て、待て。俺だって、ただ名前を呼んでいるだけでそうは言わねぇよ。だが、あの神社のお姫様があんたを見る目を見て確信したね」

「何をだよ」

「あれは、恋をしているモノの目さ。たとえ、しているモノが人であろうとなかろうとも、あの目は変らねぇよ」

 そう風来は、したり顔で語るが、宗近はまるでピンと来ないどころか、信じられないと思った。

「……違うね。本当に恋をしている娘の目は、もっと悲しい目をしているさ」

 まだ相手を自由に自分で決めることができなかった時代。

 恋をしても、叶わない事が当たり前である時代。

 本当に恋しいと思われた娘から向けられる目は、悲しい色をした目だ。

 宗近は、それだけは知っていた。

「ふぅん。お前、いい恋をしてこなかったんだな」

「あぁん?」

「まぁ、いいさ。お前がそれを信じたくないなら、それでもな。だが、俺からしてみれば、お姫様がお前に惚れ込んでいるのも、お前がお姫様に惚れているのも、紛れもない真実だ」

「俺の目まで、恋をしているように見えるってか?」

「出雲がある西の方を見上げては、恋しい目をしておるわ。そんなわかりやすい顔して、なんで認めないのか、俺には理解できないね」

 宗近は思わず手で顔を覆った。

 その様子に風来はカラカラと大声で笑った。


 〇


 秋はどんどん深まって行き、木についた葉が色を変え、落ち始める。

 港へ吹き込む潮風も冷たく、時折肌を刺すような寒さを感じさせる。

 今日も港町の空は見事な秋晴れで、水揚げされた魚がたくさん干されている。

 冷たくも、乾いた秋の風と、晴れ間のお陰で、干物の生産は好調だ。

 港町の漁師たちは冬の間、全く漁に出ないわけではないが、風が強く吹くことが多いため、船が出せないことがしばしばある。

 漁師たちが船を出せないのだから、当然、港町へ荷を運ぶ船も来なくなる。

 漁もなく、荷もなければ、人は飢えるしかなくなってしまう。

 だからこそ、人々は本格的な冬が来る前に、備えを始める。

 港町では、それがそこに住む人間たちが飢えないだけの分の干物を作ることであるだけだ。

「馬借の旦那! これもそっちに頼む!」

「はいよ!」

 さすがに港町の男衆も、冬支度の忙しさに、手が余っている宗近の手を借りない訳にはいかなかった。

 過労疑惑の騒ぎからだいぶ日も経っていたので、男衆も、いい加減疲れが癒えただろうと思って、宗近を呼んだ。

 久しぶりの港町での仕事に、宗近は張り切って働くが、やはりまだ男衆たちから、無理をするなと、声が掛かる。

 冷えた風の吹く中、魚を目一杯に並べた干し網を抱えて運ぶ宗近にも、男衆にも、額に汗が浮かぶ。

 魚を捌いている女たちも、腕を捲って働く。

 宗近は干し網を日が当たる場所まで運ぶと、首に巻いた手拭いで汗を拭って、山の方を、空を見上げる。


 アオが出雲へと立って、もう十日経った。


 アオから聞いた予定通りであれば、今日、神々の集まりは終わり、出雲を離れる。

 もう、出雲を出ただろうか。

 また、御使い様の頭に乗って、帰って来ているのだろうか。

 そう言えば、若旦那とミドリの縁はどうなったのだろうか。

 帰って来たら聞かせてくれるだろうか。


 宗近はまた、西の空を見上げていた事に気が付いて、慌てて顔を逸らして、手で顔を覆う。

 あの日、風来は宗近を指差してひとしきり笑ったあと、腹を抱えて転げまわるまでしたのだ。

 風来は笑うついでに言った。「そんな顔していたら、誰にでもわかる」と。

 どうにか、この癖を直したいものだと、思いながら、しばらく突っ立っていると、再び漁港の方から声が掛かる。

 宗近は、ひとまず今日この後はふと空を見上げないくらいに、忙しく働こうと思うのだった。


 〇


 その日は、朝から冷え込んでいた。

 宗近も朝起きてからすぐに布団から出たいとは思えなくなってきた。

 間借りしている茶屋の中庭にある葉にも霜が降りていた。

「……もう、霜月しもつきか」

 神の居ない月が終わりそうなのに、この土地を守るはずの神は、宗近の待ち人はまだ帰ってこない。

 やはり、出雲へ出向いた事で、何かあったのではないだろうか。

 御使い様が、アオを守り切れなかったのではなないだろうか。

「やっぱり、あの魚。今度見たら問答無用で、親父さんたちに捌いてもらって、蒲焼に……」

「あら、蒲焼が食べたいんですか? それは、ちょっと難しいですよ」

 そう声を掛けたのは、この茶屋の住み込み女中、ミチだった。

 ミチは手に、海老茶色の半纏を持っていた。

「今日は、霜も降って、風も出て来ているし。いい魚は入ってこないんじゃないかしら」

「風、ですか?」

「えぇ。朝から強い風が吹き始めていて、若旦那が『寒くて店に居るのも辛い』なんて言うから、急いで半纏を出してきたところです。黒い雲も来ているし、今日は一雨来るんじゃないかしら?」

「雨……?」


 強い風に、雨の降りそうな黒い雲。

 それは、きっと。いや、間違いなく。


「ミチさん! 俺、今日は一日、用事で出ます! 申し訳ないですけど、今日はお手伝いできそうにないです!」

「え? えぇ、それは構わないけれど。……どこへ行くの?!」

「神社へ! 守るって約束していたんです!」

「……一体、誰と?」

 そんなミチの言葉など耳に入らないまま、宗近は店の裏に通じる木戸へ駆ける。

 アカは宗近が走って来た事で、全てを察して主人を乗せるや否や、神社のある山へと駆けて行く。


 〇

 

 西の空をジッと、見つめる男がいる。

 

 何かを待つように、雨の降る中、西の空を見上げる男がいる。

 男の傍らにいる見事な赤い栗色の毛並みを輝かせる馬もまた、同じように空を見上げる。

 見上げた先には、最初は点のように見えていたものが、段々と近づいて来て、まるで絹の織物が一反、この強い風に煽られて、流されて来たように見えていた。

 それは、港町を見下ろすように建っている神社の境内へ向かって、空を見上げ、待つ男と馬の元へ近づいてきた。

 白銀の巨大な身体を持つモノは、まるで重さがないように、ふわりと、男と馬の前に舞い降りる。

 その頭には、幼児の様な姿の、青い瞳がとても美しい少女神が一柱、座って男と馬を見下ろす。

「……まったく。夏に待たせた時の仕返しかい? こんなに、遅くに帰って来るだなんて。もう、霜月十一月になりそうだぞ?」

 男の言葉に、少女神はふふふと、少し意地悪そうに笑う。

「これで、あなたも待つモノの身が、よくわかったじゃろう?」

「あぁ、本当に」

 男は、満足そうにため息を吐くと、少女の方へ手を伸ばす。


「おかえりなさい。アオ様」


 少女神は、その手を取ると、ふわりと舞うように座っていた所から降りる。

 青く輝く瞳が、笑みで細められる。

 

「ただいま戻った。宗近、アカ」

 

 その日は、港町に久しぶりに雨が降った。

 出雲から帰って来た神と共にやって来た時雨しぐれが、秋の終わりを伝えた。

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