第26話 秋の長雨
北部を山に囲まれた港町では、今日も雨が降っていた。
秋の長雨というやつだ。
先日の嵐の様な大降りの雨ではなく、サラサラと穏やかに降る様な雨が続いている。
そんな雨の様子に、今は留守にしているはずの雨神様が楽しい旅の時間を過ごしているのだろうかと、宗近は何となく思う。
海の男たちは余程風が強くない限りは船を出す。雨の日の方が魚たちはかかりやすいそうだ。
だがせっかく揚げた魚も、こんな天気では干物にもできない。
男たちはその日食べるだけの分の魚を揚げたら、もうそれ以上は取らない。
だから最近の宗近は、港での仕事がない。
理由は天気だけではないのだが、それについては、男たちの勘違いなので、早くその誤解が解けて欲しいと思っているのだが、まだまだかかりそうだ。
なのでここ数日の宗近は大人しく、本当に大人しく、アカの世話以外は、茶屋の手伝いだけをしている。
それさえミチにもう少し大人しくできないものかと、言われる始末だが、何もしていないのは宗近の性に合わない。
なので、せめてもの手伝いを茶屋でしている。宗近の手伝いは大体蒸し饅頭の生地を作る事だ。
餡子を作る親方がいい加減、弟子に本格的に餡子の作り方を教え込みたいと思っていたので、丁度良かったらしい。
あまり力を入れすぎると、せっかくのふわふわとした食感がなくなってしまうので、注意が必要だ。
最近、大きめの饅頭を包む手伝いもしている。まだまだ時間はかかるが、それでも手慣れて来た。大きめの饅頭を作るくらいなら宗近にも出来るようになってきた。
それに合わせて、ミチは小さい蒸し饅頭を包む練習をする。
大きい蒸し饅頭では、子どもたちが神社の薬草を採って、薬屋へ売った駄賃で買うには金額が足りず、おやつにするには大きすぎる事や、若い女が一つ食べるだけで満腹になってしまうので、いろんな味を楽しめない事から、小さめの饅頭を作ろうということになったらしい。
小さい蒸し饅頭はミドリしか作れていなかったので、今までは、子どもたちだけの限定商品だったらしいが、ミチが作れるようになれば、茶屋の新しい定番商品として、大々的に出せるようになる。
ミチが張り切って練習する横で、宗近もまた蒸し饅頭を包む手伝いに勤しむのである。
〇
「ごめんください」
夕に近い時間。客足が少し途絶えつつある時間帯に、若い女の声が店から聞こえる。
いつもなら、さっさと注文を取りに行くはずのミドリが嫌そうな顔をして、なかなか厨を離れたがらないので、代わりに宗近が厨を出た。
客は一人だ。そのくらいの注文なら、宗近にだって取れる。
「いらっしゃいませ。ご注文はなんでしょう?」
「え……馬飼さん?!」
驚いて声を上げたのは、身なりのいい少女だった。
独特な髪の結い方をしていて、それをまとめる紫がかった深い青色のリボンに、宗近は見覚えがあった。
「えっと、確か君は、神社を綺麗にする時にも居た……」
「
「そうだ。地主さんのところの娘さんでしたね」
「はい。覚えていていただけて、とても嬉しいです」
にっこりと笑う少女は、本当に嬉しそうだった。
「あの、ところで馬飼さんはどうして大豆田屋さんで、働いて? いらっしゃるのですか?」
「あぁ、いや働いている訳じゃないんだ。港もこの天気じゃ仕事がないものだから、ちょっとこちらで手伝いをしていてね」
「そうなのですね。では雨が上がるまでは大豆田屋さんでお手伝いを?」
「たぶん、そうなります。あ、それでご注文は?」
「あ、そうですね。えっと……」
瑠璃が迷っている間に、湯飲みと急須を持ってきたのは、これまたミドリではなく、若旦那だった。
「大浦さん。いらっしゃいませ。今日は、カエさんと一緒では、ないんですね」
「こんにちは。大豆田さん。……えぇ、はい。今日はちょっと、一人で来てみたのです」
「そうだ。もしご注文がお決まりでなければ、小さい蒸し饅頭を食べていただけませんか?」
「あら。では、とうとう出来上がったのですね!」
「商品としては、実はまだ練習中なんです。なので今日は、練習で作った物をお出しさせてください。味だけでなく、形も大浦さんが納得されるものでしたら、店で大々的に出そうと考えております」
「そうなのですね。では、是非頂きたいわ」
「えぇ、ではお持ちしますね。馬借さん、手伝ってくれないかい?」
「はい。それじゃあ一度、失礼いたしますね」
宗近と若旦那は厨へ戻る。厨ではミドリが不機嫌そうに、店の方を睨んで立っていた。
「今日ノ、ゴ注文ハ?」
「今日は、ミチさんの作ってくれた練習の饅頭を出すことになったから、大丈夫だよ」
「……ソウ」
ミドリはそれだけ言うと、緑の混ざる茶色の瞳を店の方から逸らす。
その様子からして、さすがに宗近もわかった。
「若旦那、もしかしてミドリちゃんって、大浦さんの事……」
「どうにも、馬が合わないらしくてね。大浦さんはたまにいらっしゃるんだけど、いつも機嫌が悪くなるから、できるだけ俺が出るようにしているんだ。だから、今日は申し訳ないけど、馬借さんが蒸し饅頭出してもらってもいいかい?」
「そりゃ、全然構わないよ」
「すまん。よろしく頼むよ」
〇
しばらくして、ミチが蒸しあがった小さな饅頭を皿に綺麗に盛って、宗近に渡す。宗近はそれを持って、瑠璃の待つ卓まで持って行く。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ、俺はこれで」
「え、あの。せっかくですから、馬飼さんも召し上がりませんか?」
「え、でも。一応、お客様のものですし……」
「でも、私一人では食べきれませんし、あんまり食べすぎてしまって、家に帰ってから夕飯を残すと母に叱られます。なので、一緒に食べてくれませんか?」
宗近は困って、厨の方を見る。
が、若旦那が両手で大きな丸を作っている。
よし、ということなのだろう。
宗近は思わず苦笑いを浮かべて、瑠璃の向かいに座る。
「では、お言葉に甘えて、お邪魔させていただきます」
「えぇ、是非!」
瑠璃が嬉しそうに、宗近の方へ蒸し饅頭の乗った皿をずらす。
「どれがいいかしら。馬飼さんはどの味がお好きですか?」
「俺は、そうですね。菜っ葉の漬物が入ったものが好きです。故郷でよく食べていましたから」
「そうなのですね。わたしはちょっと辛味があって苦手なので、漬物が入ったものを是非食べてください」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
蒸し饅頭は、甘い物が入ったものはつるりと丸い形をしていて、塩辛い物が入ったものは巾着を絞ったような形をするようにしている。
宗近は絞りのある方を手に取って食べる。当たったのは、酒に合わせるように作った辛めの胡桃味噌だった。
小さいものをこうやって盛り付けるのなら、中が分かるようにする工夫がもう一つ必要かもしれない。あとで、若旦那に言っておこう。
「あの、馬飼さんは、馬に乗って旅をしながら、お商売をされているのですよね。えっと、町に入る前の神社……雨ノ宮神社は、見られましたか?」
「えぇ。俺がここを立った時よりも綺麗になっていて、驚きました」
「本当ですか! よかった。あそこは山から来られる方にとっては、町の玄関だと聞いて、綺麗にするべきだと思ったのです。そのための書状も、いくつかは私が書いたのです」
「そうだったんですね。ありがとうございます。あそこを綺麗にしてくださって。おかげで今回こちらへ来るとき、夜遅かったので、神社で一晩を過ごしてから来ることができました」
「まぁ、そんなことが……。神社で一晩過ごすだなんて、よく眠れなかったのではありませんか?」
「いえいえ。普段は野宿なんかも当たり前ですから。屋根があって、床があって、しかも布団までお借りできるのですから、あの神社は、とても過ごしやすいところですよ」
「そうなの、ですか……?」
日常を満ち足りた状態で送っている少女には、まるで想像のつかない話だった。
それに、瑠璃はあの神社があまり得意ではない。
何度か、書状を書いた時の案件に関しては、瑠璃も参加していたのだが、いつも社の屋根のある下で監督していると、あの鏡を触ろうとした時のような反発感のようなものを感じるし、本殿の方に保管されている巻物や本を確認するために、奥へ行った時に、ピリピリとした空気が肌を刺した。
だから宗近があの神社が過ごしやすいという気持ちが、理解できそうになかった。
「馬飼さんは、きっとあの神社の神様に好かれていらっしゃるのですね。私は、どうにも嫌われているようです。神社に居ると少し息苦しいですし、それに、私が外出する度にいつも雨が降るのです」
「確かに、あの神社に居るのは雨の神様ですが……」
「雨が好きなのは、神様であって、私ではありませんもの。雨が降ると、髪や着物が乱れるもの。きっと、私が雨に困っているのをお分かりなのだわ。だから意地悪をするのです」
瑠璃は少しむくれた顔で、絞りの出来ている小さい饅頭を口に入れると、すぐさまお茶を飲んだ。おそらく、菜っ葉の漬物が当たってしまったのだろう。
宗近はつるりと丸い方を勧める。
「もし、神様に意地悪をされているとしても。きっと、今はされていないと思いますよ」
「あら、どうして?」
「今、神様は出雲へ出向いて、集まっていらっしゃいますから。あの神社は今は留守なんですよ」
「出雲……?」
「えぇ、神無月になると神様が出雲へ出向いて、縁結びの相談をすると聞いたことはございませんか?」
「……そういえば、うちで働いている若い子たちが、そんなことを言っていたような」
瑠璃は家で働いている下女や女中たちだけでなく、下男までもが秋に入ってから、少しだけ浮足立っていたことを思い出す。
みんな、良縁を願うために神社へ行くと、何やら楽しそうに話し合っていた。
だが、大浦家の一人娘である瑠璃には関係ないと思って、話半分にしか聞いていなかった。
瑠璃の良縁を運んでくるのは、間違いなく神社の神様ではなく。父と母なのだから。
だから、瑠璃には別の事が気になった。
「あの、馬飼さんは、そういったお願いをされましたか? その、どなたか、良いご縁の方がいらっしゃるとか……」
もじもじとしながら問う瑠璃の様子を、宗近はこの子も年頃の女の子なのだな、くらいにしか思わなかった。
年頃の女の子というのは、どうにも、こういうことを聞きたがるもののようなのだと、アカと共に旅をするここ数年のうちに学んだのだ。
いや。本当は、アカと旅を出る前から知っていた。
そしてそれが。時と場合によっては、叶わないものだと言う事も、知っている。
だから宗近は、五年前からずっと、こう答えることにしている。
「……いいえ。俺にそんな人はいません。いたとしても、俺は三男ですから、その方にとっては良いご縁とは言えないでしょう」
家長にはなれない男。
実家に居ては、家長を補佐するためでしかない存在。
そんな男との縁が、良縁とは言えないだろう。
「俺のことよりも、ここの若旦那の方が心配だ」
「そう言えば、大豆田さんのそのようなお話は、私も聞きません。大豆田屋さんの後継ぎですから、何かお話があってもいいと思うのですが」
「なんでだろうなぁ……」
厨から、お代わりの急須を持ってきた若旦那がとても情けない声で二人に言う。
「……お二人とも、そういうこと言います?」
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