第25話 嵐

 港町を灰色の雲が覆う。

 漁に出た男たちが険しい顔をして、額を寄せ集めて話し合っている。

 荷運びの手伝いが終わった宗近は、何事かと思って漁師たちに声をかける。

「親父さんたち、どうしたんだい?」

「あぁ、あんたか。いやね、ちょっと海の様子がおかしいもんだからね」

「今日は全然魚がかかっていないし、海がちょっと荒れているんだ」

海鳴うみなりもしているし、たぶんこれは近いうちに大時化おおしけになるんじゃねぇかって、話をしていてな」

 宗近には心当たりがあった。

 御使い様が、山の上の神社に御座おわす神を出雲へ連れ立つために、準備をしているからだ。


 三日後の晩に迎えに来る。

 あの日から二晩経った。

 

 宗近はまだ、あの日からアオに会っていない。

 もちろん、本来の仕事である荷卸しに忙しかったのもあるが、その忙しさを言い訳にして、会いに行っていないという気もする。


 宗近が死ねば、アオの名が死に、アオが消える。

 御使い様から聞かされた話を、宗近はまだ飲み込みきれていない。

 

 覆水盆に返らず。

 そんな当たり前のことを、宗近はまだ飲み込めない。飲み込みたくないのだ。


 あんなにも、嬉しそうに名のことを話していた少女に、その名のせいで、本来ならもっとずっと先に消えてしまうかもしれなかったその御魂が。人間が、宗近が名を与えたせいで風前の灯火になってしまっているだなんて、誰が言えよう。

 あの日、御使い様もアオに名の事について、アオ自身へ厳しく言及はしなかった。

 御使い様も自分が救った愛し子が、まさか人間から名を受け、御魂を縛られているだなんて、思わなかったのだろうし。あんなにも嬉しそうな顔をした彼女に、何かを言ってしまう程、無神経でもなければ、厳しくもなれないのだろう。

 

 結局は、宗近も御使い様も根本は同じ。

 山の上の社で、一柱きりで人々を守っている神に対して、大切に思っていて、優しすぎるのだ。


「……って訳で、馬借の兄さんも町中に触れ回ってくれないか?」

 宗近を現実に戻したのは、力強く背を叩く海の男だった。

 そのあまりの力の強さに、一瞬宗近は咳き込んでしまった。

「ゴホッゲホッ……すみません、何ですって?」

「なんだい、聞いてなかったのかい? たぶん近いうちに嵐が来るから、準備と用心するように、町中の人に触れ回って欲しいんだ」

「……あぁ、そうですね。たぶん、明日の夜は荒れると思いますよ」

「明日? なんだってそう思うんだい?」

 山を行く男が、何故海の荒れ具合を知るのか。

 港町の男たちは首を傾げた。

 宗近は少し悩んだが、こう、口にした。


「こないだ売ってもらった魚が、そう言っていましたから」


 〇


 宗近は海の男たちに伴われて、茶屋へ帰された。

 宗近があまりにも妙な事を言ってしまったがために、働きすぎで疲れて、幻聴が聞こえてしまったのだと思われたのだ。

 茶屋で宗近を出迎えたミチが驚いて、「あらあら、まぁまぁ」と言いながら、まるで小さい子にする様に、手を引いて背中をさすりながら、店の奥の卓まで連れて行って、椅子に座らせる。

 その様子に驚いた若旦那が、小走りで宗近のいる卓に着く。

「馬借さん。どうなさったんです?」

「いや、どうってことはないはずなんだが……」

「そんなわけありませんよ。港の男衆が血相変えて連れてきたんですからね?」

 ミチさんは温かいお茶の入った湯飲みを宗近と若旦那の前に置く。

「働きすぎなんですよ、馬借さんは。年明けしてから、雪が溶けるまでここに居るんだから、少しぐらい、ゆっくりしたって罰は当たりませんよ」

「そうですよ。もうちょっとゆっくりしてくださいよ」

「若旦那はもう少し働いてくださいな」

「……すみません」

 若旦那は子犬のようにシュンとなる。

「それじゃあ、若旦那に仕事を頼みたいんだが」

「……力仕事には自信がないのだが?」

「いや、力仕事じゃないから。むしろ、若旦那の方が俺よりも上手くこなせると思うぞ」

「そんな仕事が、この世にあるとは驚きだ」

 若旦那は少し自嘲気味に笑う。

 そんな若旦那に宗近は真剣な顔で告げる。

「港で漁師から聞いたんだ。海が荒れ始めている。海鳴りも聞こえるそうだ。近いうちに……いや、明日にでも嵐が来るはずだ。それを町中の人に広めて欲しいんだ」

 若旦那の顔が強張っていく。

「それは、すぐにでも広めます。親父にも言っておかないと……」

「大丈夫。今、聞いたよ」

 いつの間にかやってきていた茶屋の旦那様は、少し腰を庇いながら、宗近たちのいる卓までゆっくり歩いてきた。

「どうにも朝から腰の調子が悪くてね。大雨や嵐が来ると痛むというから、宗近くんの言っている明日にでも嵐が来るというのは、本当だと思うよ」

 旦那様が椅子に腰を下ろすと、すぐさまミチさんがお茶を運んで来る。

「ミチさん。たぶん聞こえていたと思うけど、嵐が来るから、明日は店を閉めるよ。嵐が来ることを知らせるついでに、お客様にお声がけしてくれ」

「はい。かしこまりました」

「一茶は、風来さんを呼んで来ておくれ。店だけじゃなくて、家の窓や雨戸を補強してもらわないと。呼びに行く途中で、宗近くんに頼まれた仕事もこなせるね?」

「あ、はい。頑張ります」

 若旦那はスッと席を立つと、少し急ぎ足で店を出て行った。

「旦那様、俺も手伝いま……」

「宗近くんは、休みなさい」

「でも、ここに置いてもらっている身ですし」

「それでも、休む時は休むべきだ。大豆田屋は、そういう習わしだからね」

 よっこらしょ、と言いながら立とうとする旦那様を手伝って、宗近も席を立つ。

 旦那様はお礼を言うと、宗近の両手を取って、優しく包み込む。

 その手は、昔よりシワが増えていた。

「宗近くん。ここ数日、あまりいい顔をしていない。今は休むべきだ。大丈夫。港の男衆は嵐に慣れている。自分の家の用意ぐらい、なんともないさ。うちには風来さんを呼んだから、大丈夫だ。彼はこういう時に働きたがるからね。だから今日は、休みなさい。いいね?」

 ポンポンと、包み込まれた手を優しく叩かれる。

 ここまで言われては、宗近も大人しく休むしかない。

「……わかりました。でも、どうしても手が足りなくなったら、呼んでください」

「……あぁ、わかったよ」

 それだけを約束して、宗近は茶屋の借りている部屋へと下がって行った。


 〇


 借りている部屋からは、山が、そこにある神社がある場所が見える。

 宗近は一瞬そちらへ目を向けたが、すぐに逸らして、畳の上に寝転ぶ。

 天井を見ることもやめて、静かに目を閉じて、じっと耳を澄ませる。

 窓の外からは、人々の行き交う音が聞こえる。

 下からは店を動かしているミチやミドリの声と音が聞こえてくる。時折聞こえてくる少し厳しそうな声は女将さんだろう。

 しばらくすると何やらガタガタという音と、大きな男の声が聞こえてくる。

 神社を綺麗にしに行った時にも、良く耳に入って来た声だ。便利屋の風来さんがやって来たのだろう。

 宗近は借りている部屋にただ寝転がって居るだけでも、人の息づく音が耳に入ってくる。

 

 だが、あの山の神社にいる少女神はどうなのだろう。


 そうしてまた、あの神社にいる少女神の事を考えてしまっている事に気がついた宗近は、起き上がって、また窓から神社を見る。


 明日は、御使い様の用意した期限の日だ。

 アオ様は、どうするつもりなのだろう。


 宗近は聞きに行きたい気持ちを抑えて、また畳の上へ寝転んだ。


 〇


 翌日は、朝から盥をひっくり返したような雨が降っていた。

 降っている雨のせいで、窓の外を見ても先が見通せないほど激しい雨だ。

 茶屋は昨日の宣伝通り、今日は臨時休業で締め切られている。

 たとえ店が開いていたとしても、こんな悪天候では、誰も外に出ようとは思わないだろうから、商売にならないだろう。

 港町は雨音以外の音が消え去ったようだった。

 雨音が、人々の息づく音を吸い込んで、消してしまっているようにも感じた。

 今日は大豆田家の全員が、母屋の方で過ごしている。

 旦那様は昨日よりも腰の調子が悪いのか、朝食が終わったら、部屋へ戻ってしまった。女将さんも心配そうにそれに付いている。

 若旦那は今のうちとばかりに、溜め込んでいた店の帳簿を確認する作業に大忙しだ。

 ミドリとミチは、小ぶりの蒸し饅頭を包む練習をしていた。今日の昼はその練習の蒸し饅頭を食べることになる。

 そんな中で宗近一人が、何もする事がなかった。ひとまずアカに着けている馬具の手入れでもしようと手を伸ばしてみても、心ここに在らずという調子で、あまり進まない。

 気がつけば昼食が終わって、辺りが暗くなって来ている頃だった。

 雨はより一層強くなり、強い風も出て来たようで、大豆田の家の窓や雨戸がガタガタと揺れ始める。

「そろそろお夕飯ね。今日はどうしようかしら……」

 そうミチが呟くのを聞いた宗近は、ハッと気がつく。


 今日の晩、御使い様がアオを迎えに来る。

 

 もし、アオが行くと言えば、アオはしばらくここを留守にして、出雲へ行ってしまう。

 御使い様は、名があるから大丈夫だと言っていた。けれど、もしもがあればどうする。

 それにもしも、宗近に何かがあっても、アオは消えてしまうのだ。


 気がついたら、宗近は走り出していた。

 

 大豆田の家の廊下を駆け、店の裏へ通じる方へ向かって走る。

 風で重くなっている木戸を開けると、吹き込んで来る雨に逆らって、屋根の下に繋がれているアカの元へ駆け寄ると、その身体に乗る。

「アカ、すまん。アオ様のところへ連れて行ってくれ。急いで!」

 アカは宗近の言葉を聞き届けると、山へ向かって走り出した。


 〇


 アオはその日、朝から本殿の御神体の前に姿を現していた。

 板の間にちょこんと正座をして、外の音を聞いていた。

 御使い様は晩に来ると言っていたが、それでもやはり、朝から空は荒れている。

 それは晩に近づけば近づくほど、強くなる。

 何せ御使い様は海の底から出て来なければならないのだ。海の底から巨大な力が湧き起これば、嵐とて呼ばれてしまう。地が揺れないのが幸いだとすら思う。

 山裾の民に、大きな影響がなければいい。

 アオはそれだけを考えた。

 朝から激しい雨と強い風が吹き込んでいる。

 こんな日に人が神社まで来るわけがない。いや、来てしまっては危険なのだ。

 だから、たとえ、今晩アオが旅立つとしても、彼はやって来ないだろう。


 そう思っていた。


 激しい雨音の中、吹き荒ぶ風の中、社の戸を開けて、彼が入って来た時は、驚いた。

 自分に都合のいい情景を、勝手に見ているのではないかと思った。

「アオ様……」

「宗近……」

 宗近は、頭の上から足の先まで、ぐっしょりと濡れていた。髪は乱れて、顔の半分が隠れているほどだった。

 そこにいる宗近は間違いなく、この嵐の中、神社までやってきた人だ。

「こんな嵐の中、あなたは一体何を考えておるのじゃ!! 下手をすれば、命を落としたのかも知れぬのじゃぞ!!」

「……それでも、今日、アオ様に会わなければ、後悔すると思ったから」

 命の危険を考えなかった訳じゃない。

 それでも、宗近は会わずにはいられなかった。

「アオ様。出雲へ行くのか?」

「……まさか、それだけを聞くために、来たのか? 嵐の中?」

「だって、もし出雲へ行ってしまったらしばらく会えないだろう? ……それに名があるとは言え、御使い様は絶対とは、言っていなかった。もし、出雲へ行ったアオ様に何かあれば、もう二度と会えなくなる。それが、嫌だったんだ」

 宗近はアオの前に跪いて、その宝石のような青い瞳と自分の目を合わせる。

「アオ様。出雲へ行くのか?」

「……あぁ。行こうと思う」


 アオは、宗近の黒い瞳を真っ直ぐに見つめて応える。


「せっかく御使い様がくださった機会じゃ。それに、たくさんの若い娘が良縁を願うために来てくれた。わたしが出雲へ行って、直接伝えなければ、娘らに面目が立たぬであろう?」

「……そうか」

「それに、この先また行けるか、わからぬからの」

 アオは少し寂しげに、それでもなるべく優しい笑顔を作った。

「わたしには今、“名”がある。あなたが付けてくれた、“アオ”と言う体がある。あなたが、無事でいてくれれば、出雲へ出向いても、再び帰って来られるだろう」

「それって……」

 アオは静かに頷く。

 アオは、わかっていたのだ。

 名を与えられるということの意味も、それによって起こる最悪の場合も。


 全て。


「わたしは、長い間一柱きりでここに居た。いずれは消えるのだと思っておった。今でも思っておる。だからせめて、わたしを見つけてくれたあなたに、名を呼ばれたかった。だから、許した」

「……それでもし、俺のせいで消えることになっても?」

「よい。誰にも知られずに、人知れずに力を失い消えるより、その方がずっと良い。わたしはそう思う」

 だから。と、少女神は胸を張る。

「今出来ることがあるのなら、やっておきたいのじゃ。人々が祈ってくれた願いを、わたしは出雲へ届けたい。“アオ”の名がある今だからこそ!」


 〇


 御使い様は、ぐんぐんと海の上へ、陸へ向かって泳いでいた。

 今日は愛し子との約束の日だ。


 愛し子はきっと、出雲へ行くと言うだろう。


 人間どもによって、海へ沈められた時から、あの子は変わらない。

 暗い暗い海の底へ沈んだ少女の魂を掬い上げた時に、御使い様は少女へ問うた。


《自らを沈めた人間どもが憎くないか》


 それに少女の魂は、笑って応えた。

『いいえ。これがに与えられたお役目です。その責を果たさねばならないとは思いますが、憎いとは思いませぬ』


 と。

 

 愛し子は責任感が強い。

 海神様から神格を与えられ、山の上の社へ一柱きりで居ることになっても、そこへ願われる祈りも、神無月が近づくとやってくる若い娘の望みも、神であるからとその願いを叶えるために努力をする子だ。

 だから、きっと愛し子は出雲へ行く。

 己の責務を果たすために、そう決めているはずだ。

 御使い様はぐんぐんと速度を上げて陸を目指す。

 愛しい子が待っている山まで、空を登って行かなければならないのだから。


 〇


 社へたどり着いた御使い様は、少し不機嫌そうに、空中で身をくねらせた。

《何故貴様がいる。人間!》

「お見送りですよ。お見送り。アオ様がしばらく旅に出るんだから、見送りぐらいしないと」

 宗近はそう言いながら、御使い様を見上げる。

 御使い様の姿形は、先日見かけた妙な魚と同じだった。

 だが、大きさが桁違いなのである。

 神社をぐるりと一周出来てしまうのではないかと思うほどの長い体をしている。

 そんなものが宙に浮いているのだから、奇妙この上ない。

 アオは背に乗って行くと言ったが、頭に乗った方が安全なように思える。

《見送り、と言うことはやはり……》

「はい。御使い様。わたしは出雲へ参りたいと思います。御使い様、連れて行ってくださいませんか?」

《……うむ。喜んで、連れて参ろう》

 御使い様はそういうと、宙で一回転して、その大きな頭をアオの側へと降ろす。

 御使い様の背、ではなく頭へ乗るアオを宗近は手伝う。

 アオが頭に乗ったところで、宗近はアオへ伝える。

「アオ様。今度は俺が、アオ様の帰りを待つ。だから、必ず無事に帰ってきてくれ。それから、一緒に年を越そう」

 アオはその言葉に笑顔で答える。


「うむ。約束じゃ!」


 御使い様の赤く立派な鰭にアオがしっかり手を掛けたのを見ると、宗近は後ろへ下がる。

「……では宗近。留守を頼む。わたしが出雲から帰ってきても、心地よく過ごせる様に、この社を守っていてくれ」

「……あぁ、わかった」

 御使い様は出立の前に宗近に声をかける。

《おい、人間》

「はいはい。なんですか、御使い様」

《アオをアオのままにしたければ、せめて貴様の先の世代ぐらいへはその名を伝え続けよ。さすれば、お前一人の命だけで、アオが消えることはないだろう》

 

 それはきっと、御使い様がこの三日間で、ずっと考え抜いて、出した答えだ。


《せっかくだ。これから出雲へ行く。我が貴様の分を見繕ってやろうか?》

「……遠慮しておきます。自分の伴侶ぐらい、自分で選ばせてくれ」

《ふん。せっかく声を掛けてやったというのに。まぁいい。そのうちどうしようもなくなって、我に頼み込めばいい。その時は笑って受けてやる。ではな》

 御使い様はぐるりと身を回転させると、勢いを付けて、空へと飛んで行った。

 白銀の身体が、身をくねらせながら、西へ西へと向かう。

 その銀の光が見えなくなるまで、宗近とアカは見送っていた。


 雲は晴れ、雨は止み、風も収まった。

 穏やかな夜が、港町へやって来た。

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