第24話 覆水盆に返らず
《なんじゃ人間。神無月に神が出雲へ出向くことの、何が不思議か》
白銀の尾が、盥の縁を叩く。
その衝撃で溢れた水を拭くことを宗近は忘れていた。
「いやだって……。アオ様は、出雲へ行けるほどの力はまだ無いって」
《それはそうじゃろう。愛し子は社を出るのもやっとなのだから》
「ならどうやって」
《何のために我が来たと思うておる》
「アオ様の顔を見に来ただけじゃ?」
《違うわ! 我が愛し子を背に乗せ、出雲まで送り届ける。それが出来ることを伝えるためじゃ》
宗近は二晩前の自分の言葉を思い出す。
『……他の神様が迎えに来たりはしないのかい?』
神は迎えに来ない。だがその代わりなのか、御使いは迎えに来た。
アオ自身も初めての時は御使い様の背に乗って行ったと言っていた。
神無月に、神は出雲へ出向く。
それが当然の事で、あるべき理だ。
二晩前の宗近だって、そう思っていた。
けれども。
「……御使い様。アオ様は、境内に出るのもやっとなのだろう? そんな、そんな状態なのに、本当に出雲なんて、遠いところへ、たとえ御使い様の背に乗ったとしても、道中、何もないと言えるのか?」
出雲は、雨ノ宮神社が見下ろす港町とはまるで正反対の場所にある。
それも宗近の故郷である山を越えても、さらに山を越えて、ずっと、ずっと先にある地だ。
人間だって、病み上がりに無理をすればぶり返す。馬だって一緒だ。
それが、神だけは例外だと言えるのか。
そんなに遠いところへ、外へ出ることすらやっとになったばかりの神が、たとえ使いの背に乗ったとして、本当に何も起こらないと言えるのか。
宗近はやっと整い出した彼女が、力を取り戻した彼女が、消えてしまうのではないかという事が、ただただ、恐ろしかった。
《……おそらく、今ならば大丈夫だろう》
「だろうって、そんな無責任な!」
「……宗近。そこまでにしてくれ」
宗近を諌めたのは、アオだった。
「御使い様。わたしは、御使い様のお力を信じています。御使い様がわたしを出雲へ送り届けられると言うのなら、その通りでしょう」
《では!》
「ですが、宗近の言うことも、わからなくはないのです。今のわたしは、昔、御使い様と共に出雲へ出向いた頃から比べれば、まだまだ弱い。それはわたし自身がわかっているのです」
《……だが、今の愛し子であれば、耐えられるはずだ。“名”のある今ならば》
御使い様は盥から身を乗り出して、アオの方を向く。
《たとえ人間が与えた名であっても、名は名じゃ。愛し子は今、“アオ”としての存在を得ておる。長旅にも耐えられるはずじゃ》
宗近はやたらと“アオ”の名の事を強調する御使い様の言葉に、すこし嫌な予感がした。
だが、今尋ねるべきではない。
宗近は押し黙ったままのアオの方を見る。
アオはうつむいて、膝の上でぐっと握りしめた白い手を見つめる。
《……愛し子よ。長い間出雲へ出向いてこなかっただろう? 海神様も、見かけないと心配なさっておられる。今年は、我と共に行かぬか?》
「……」
《愛し子よ……》
「……御使い様。お誘いはとても嬉しいのです。でも、急なことでしたので、今すぐにお応えするのは、難しいです。……少しわたしに考える時間をください」
アオの顔は、握りしめた手を見つめたまま、上がらなかった。
〇
御使い様の用意した期限は三日だった。
三日後までにここを出発しなければ、いくら神の御使いとて、さすがに間に合わないとの事だ。
三日後の夜、今度は本来の姿で、海を駆け、空へ登り、山の中の神社へ来ると言った。
アオが行くならば、そのまま背に乗せて出雲へ行き、全てが終わり次第連れ帰るとの事だった。
行かないのならば、それでも構わないとの事だ。御使い様から海神様へ報告をするという。
神社から出る前に、御使い様は地面を見つめるアオに最後の問いかけをする。
《……愛し子よ。アオ、という名は気に入っておるのか?》
アオの顔が、弾かれたように上を向く。
日の光に照らされた瞳は、本当に宝石のようだった。
「……はい。宗近が、わたしの瞳が一等綺麗な青色をしているからと、名付けてくれた名です。とても、気に入っております」
盥から、荷車から身を乗り出していた御使い様は、頬を薄紅に染めながら目を細めるアオを見ると、《そうか》とだけ、呟いた。
〇
港へ降りる道を宗近は、また荷車に御使い様を乗せて、戻る。
御使い様が嫌がったので、蓋をしていない盥からは、荷車が揺れるのに合わせて、時折パシャンと言う音がする。
ゴトゴトと、荷車の車輪が回る音がする中、御使い様は宗近の頭の中に響く声で話しかける。
《……人間。貴様には言っておきたい事が、山ほどある》
「……何ですか?」
《まずは、我が愛し子の名の事だ》
やはり。
としか、言いようがなかった。
「……やっぱり、まずかったんだな?」
薄々、そんな予感はしていた。
やけに“アオ”という名を気にする御使い様の様子、そして、決して“アオ”とは呼ばず、“愛し子”と呼んでいる様からして、アオに名があることに何か悪い意味があるのではないかと、考えつかないほど、宗近は馬鹿ではないのだ。
盥の中の御使い様は、静かに宗近の頭の中へ語りかける。
《……全てが悪いとは、言い切れんのだ。名があると言うことは、すなわち存在が明確に捉えられるという事。今の愛し子は、名があることで、より一層存在が強固になっておる。名がある事で、より力が戻りやすくなっておる》
「だからこそ、境内まで出てこれるくらいの力はあるし、出雲へ誰かの力を借りて向かうくらいは耐えられるはずだ。それが、今ならいいと言う話なんだろう?」
《……貴様、人間の割には頭が回るようじゃな》
「一言、余計だ」
海に返してやるつもりだったが、このまま蒲焼にでもしてやろうか、と一瞬だけ思った。
だが、この盥を占領する大物には、まだ聞かなければいけない事がある。蒲焼にするわけには行かない。
「アオ様が、“アオ”様であると困る時はいつ来るんだ」
《そんなもの、わかりきった事じゃろう。人間、貴様が死ぬ時じゃ》
「本当に、たったそれだけか? 名を付けた俺が死ぬだけで?」
《人間には、たったそれだけじゃろう。じゃがな、人ならざるモノ……特に、神や妖のように
「人間だって、“名は体を表す”と言う。子に名をつけた親が死ぬことだってある。それでも人間は生きている。それと、何が違うんだ」
《まるで違うな》
ピシャンと、水面を叩く音がした。
《人間には肉がある。肉の中に魂が宿って、身体になるから、例え名に何かあっても、肉が守ってくれる。名付けた者が死んでも、肉が少し傷つくだけだ。神や妖は御魂だけで存在することができる。名があれば、それだけ名という体が出来上がって、存在が強固になる。だが肉がない。名が体なのだから、名に何かあるということは、人間ならば、心の臓に刃を突き立てられるような事だ》
御使い様の言葉に、宗近が心の臓の辺りに刃を突き立てられたような感覚がした。
たった一晩の、その時の戯れのように、神の許しもあったからと付けた名が、こんな一大事になるだなんて、宗近は思いもしていなかった。
だが御使い様の話にだって、疑問点はある。
「待ってくれ。名のある神様なんて、ごまんといるじゃないか、海神様だってそうだ。でも、海神様はまだいらっしゃるんだろう? 何で、アオ様だけが……」
《まず海神様は、それが本当の名とは言い切れぬ。それに、海神様は神から生まれた存在。名を最初に呼んだのも、つけたのも神のはずだ。元々人間で、人間に名を付けられた愛し子とは、あまりにも違いすぎる》
「だが、元々人間で、神になったお方だっている。
《天神様はいらっしゃる。だがそれは、人々が天神様を、菅原道真という人間の名を、神としてよく知り、信仰し、今も受け継いでいるからじゃ》
そこまで言われれば、宗近は嫌でも理解した。
アオが、“アオ”である事が困る時が、宗近の死によってやってくるということが、今のままでは、避けられないということに。
《名を与えるということは、名で相手を縛ると言うことと変わりがない。名を縛ると言うことは、相手を生かすことも、殺すこともできるということだ。人ならざるモノならば尚更の事だ》
「俺は、アオ様を殺すつもりなんてない。今も、この先も」
《だが、今、貴様が死ねば、“アオ”の名は死ぬ。貴様だけが知っているのでは、意味がないのだ。名が死ねば、その名に縛られている存在も死ぬ。愛し子は再び力を失い、消える》
「そんなこと望んでいない!」
宗近の声に驚いたアカが止まる。
荷車に乗せられた盥から水が勢いよく零れる。
零れた水は、戻らない。
たとえ、その名が相応しいと、呼びかけたものであっても。
相手が人でなければ、それは御魂を縛る鎖でしかなかった。
《貴様は人間。だが、我が愛し子は……あの子は、例え元人間だったとしても、神だ。あの山の中の社を任され、この山裾に住まうものたちを守るために、海神様から神格を与えられた神なのだ》
揺れる盥の水の中で、御使い様は震えていた。
それは怒りか、それとも悲しみか、はたまた別の感情なのか、それはわからない。
《愛し子から今、名を取り上げるわけにはいかぬ。名がなければ、出雲へは行けぬ。……それに、あんなにも気に入っている名を取り上げるなど、我はしたくない》
たとえ人が与えた名でも、たとえ少女が贄となった原因の一つだったとしても、あんなにも、嬉しそうな顔をした愛し子から、名を取り上げるなど、御使いもしたくなかった。
ちゃぷちゃぷと、水の跳ねる音だけが響き渡る。
宗近は黙って、再びアカを進ませた。
〇
港に着いた宗近は、荷車から盥を降ろす。
御使い様を海へ返すためだ。
海へ帰る前に御使い様は、最後に一つだけと、宗近に言付けをしていった。
《晩に来るとはいえ、本来の我が来れば海が荒れる。民に何かあっては愛し子が悲しむのでな、貴様、それとなく三日後に嵐が来ると、人間たちに触れ回っておけ》
言うや否や、御使い様は盥から身をくねらせて海へと帰って行った。
「……というか、それとなく触れ回っておけって、それなりに難しい仕事残して行きやがって」
宗近は大きくため息を吐くと、空になった盥を担いで、借りた漁師の元へ返しに行く。
ついでに、嵐になるかもしれないと、旅をしていたからわかるというような話を適当にでっち上げて、伝えておけば、それなりに広まるかもしれない。
そう考えたが、結局そんな話はしないでアカと共に茶屋へ帰ることにした。
出した言葉は戻らないのだから。
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