第22話 朝焼けと雨の日の思い出
宗近はアカと共に朝焼けを背に、港町へ降りていった。
これほどまでに見事な赤い空は、雨が降る予兆であることを、宗近はこれまでの経験から知っている。
ただ確実に雨が降るとわかっているのには、もう一つ理由がある。
雨の神である、少女神、アオの機嫌がすこぶるいいのだ。
どうにも、あの雨の神は、嬉しくなると雨を降らせてしまうらしい。
逆に怒った時はどうなるのかを聞くと、神を怒らせるのもまた人間。降らなければ困る恵みの水である雨が、全く降らなくなるというのが答えだった。
宗近は午前のうちに、ある程度荷下ろしをしてしまう算段を頭の中で組み立てながら、道を下って行くのだった。
〇
港町一番の茶屋は今朝も盛況だった。
店の裏手に通じる木戸の前でアカを止めて、宗近は女たちが注文する蒸し饅頭の中身に耳をそばだてる。
従来通り、小豆餡を頼む者も居るが、聞いていると、芋餡の注文が多い事がわかる。
試食会の時は胡桃味噌が一番人気だったと覚えているが、季節が変わって欲しがるものが変わったのだろうか。
通りに面した出窓から蒸し饅頭が出て行く。
その最中に宗近が居ることに気がついたミチさんが嬉しそうに笑うと、奥に引っ込んでいく。
しばらくするといつも通り、店から若旦那が出てきた。
「馬借さん。お久しぶりです。お元気そうで、何より」
「若旦那。お久しぶりで。すまないね、言った時期より遅れて到着しちまって」
「いえいえ、こうやって無事会えたので、良かったです。今、戸を開けますから」
そう言うや否や、戸を開けたのは若旦那ではなく、茶屋の現主人。旦那様だった。
「旦那様! お久しぶりです。腰はもう大丈夫なんですか?」
「宗近くん。久しぶりだねぇ。お盆の辺りに良くなってね。ようやく最近、トワとミチさんに店の前へ立つことを許してもらえたんだ」
柔和な顔の旦那様はそう言ってアカを撫でる。アカも旦那様の事が好きなので、気持ち良さそうに撫でられている。
「さて、ここじゃなんだから、中に入っておくれ。荷も下ろさねばならんだろ」
「はい。そうさせてください」
「親父、後は俺がやるから……」
「わかった。わかった。無理はしないさ。じゃあ、申し訳ないけど。宗近くん。私は店の方で待っているから、荷下ろしはうちの息子に」
「大丈夫です。俺も旦那様にお願いがありますので、また後で」
旦那様はそういうと、店の方の出入り口へと歩いて行った。
宗近はその様子が、初めて会った時よりも少し、小さくなっている気がした。
「……旦那様、まだ本調子じゃないんだな」
「あぁ。動けるようにはなったが、だからって無理はさせられない。それに本人も早く楽をさせてくれって言っている」
「そうか。なら、若旦那も頑張らないと、だな」
「全くだよ……。店の事もだけど、最近ミチさんから、嫁はまだかってせっつかれていて……」
若旦那はもう二十五になる。
正直、いいお年頃を通り越して、下手すれば遅いくらいなのだが、港町一番の茶屋の跡継ぎという、少し高めのハードルがあるせいか、はたまた別の理由か、残念なほどなかなかご縁がないそうだ。
「何、若旦那は悪いお人じゃない。意外と近いうちにいいご縁が来るかもしれませんよ?」
「そういう馬借さんはどうなんですか」
「俺は、ほら、三男だから絶対嫁を貰わにゃならん訳じゃないし、馬に乗ってあちこち動いてるから、嫁を貰うどころか、女も寄り付かねぇよ」
「そんなことないと思いますけどねぇ……」
若旦那は知っている。港町の働く女たちが、うちに婿に来たらどうかと声を掛けていることを。
だがそれは言わない。なんとなく、言いたくないのだ。
「店でミドリちゃんにでも、聞いてみます?」
彼らにとって身近で、参考になる若い娘は茶屋で働く女中のミドリぐらいなのだ。
「絶対、馬借さんだと思いますよ」
「案外、若旦那かもしれませんよ」
男二人はお互いにお互いを推薦しつつ、荷を下していった。
〇
「ドッチモ、嫌ネ」
ミドリは即答だった。
情けも容赦もなく。スッパリと。
「馬借サンハ、働キ者。デモ、馬デ、ドコデモ行ク。落チ着キナイ。若旦那ハ、頼リナイ。モット旦那様グライ、シッカリシテクレナイト、イクラ町一番ノオ店ノ若旦那デモ、ダメネ」
緑色の混ざる茶色の瞳はそれだけ言うと、ふいっと
「やれやれ、若い男二人して、振られてしまったねぇ」
旦那様は暖かいお茶の入った湯飲みを両手で抱え込みながら、優しそうな顔のまま若旦那と馬借の青年を見る。
若旦那は面と向かって頼りないと言われたことが、よほど堪えたらしい。一人沈んだ顔をしている。
宗近は予想はしていたが、それでもきっぱりと言われたので、多少、胸に来た。
「さて、今回も荷卸しをありがとう。宗近くん。一応、俺も内容を確認させてもらったよ。芋と胡桃を随分と仕入れたもんだね」
「はい。夏にここを立つ前にやった試食会のおかげで、芋も胡桃も、あるだけあっても損はないと思いました。両方とも乾き物ですし、保存も効きます」
「そうだな。うちでも意外と、朝は芋餡、夜は胡桃味噌が出るもんだからありがたいが、いつもの倍は持ってきているね。今回、到着もいつもより遅かったし、何かあるのかい?」
茶屋の現店主は鋭い。
相手の変化に素早く気が付き、そこから話を引き出す術を持っている。
宗近も若旦那も、この主人に習うところはまだまだ多い。
宗近は居ずまいを正すと、店の主人にしっかりと向き直る。
「旦那様、お願いがございます。俺、今年はこの町で年を越したいと考えています。そのために、いつもの倍の荷を持ってきました。そのせいで、予定より遅い到着になってしまいました。申し訳ありません」
「そうか……。遅れたことは気にしないでいい。無事に着いてくれた事が大切だ」
旦那様はポンポンと、優しく宗近の肩を叩く。
「それで、ここで年を越すって決めたということは、雪が解ける頃までうちに居てくれるってことかな?」
「あ、はい。そうさせていただけると、とても助かるのですが。お願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。宗近くんが居れば、うちも助かるよ。今年の大掃除は、おそらくトワにもミチさんにも止められてしまうだろうからね。良かったら手伝ってくれると、嬉しいんだが」
「もちろんです! 力仕事は任せてください」
お世話になるのだから、当然そのくらいさせてもらう。
宗近はこの町で無事、年を越せそうで安心した。
若旦那が少しだけ、ほんの少しだけ、肩を落として落ち込んでいた。
〇
「……ところで、宗近くん。ここで年を越したいと思ったのは、雨ノ宮神社の為かな?」
思いもよらぬ問いかけに、宗近は思わず湯飲みを持つ手が止まる。
「どうして……」
「いやなに、夏の試食会も、神社での参拝の仕方も、いろいろと宗近くんが関わっていると聞いたからね。もしかして、と思っただけさ」
「……あの時、町に入る前に雨に降られて、お世話になったんです。でも神様の居る場所としては、あまりにも荒れていたので、せめてもの恩返しにと思ったんです。ただ俺はここの町の人間じゃないのに、口やら手やら出してしまって……。悪目立ちしましたか?」
「いいや、そんなことないさ。むしろ宗近くんのおかげで、町の皆があの神社へ行けるようになった。感謝こそすれど、悪く言うような人間はいない。それは、あの神社の神様も一緒だろう」
旦那様はスッと視線を山の方へ向ける。
その先に、雨の神が居る神社があることを、宗近は知っている。
「……宗近くん。初めて俺たちが出会った時の事を、覚えているかい?」
「はい。……そういえば、あの日も雨でしたね」
〇
五年前、宗近がまだ馬借として駆け出しの頃の事だ。
馬借として右も左もわからない宗近は、雨の降る中、背に荷を背負って、アカに跨り旅をしていた。
どこにも縁がない若い旅人は、上手く商売ができていなかった。
そんな時だ。
港町へ降りる途中、この茶屋の旦那様に出会ったのは。
旦那様は、宗近に走り寄ると、縋るように聞いたのだ。
『熱さましになる薬や食べ物。なんでもいい、何かないか?』
と。
〇
「あの日、一茶が大人になってから初めて熱を出してね。河津の薬だけじゃどうにもならなくて、本当に死んでしまうんじゃないかと思ったんだ」
「……そういえば、そんなこともありましたね」
宗近は旦那様について行って、とにかく持っている荷を全て広げた。
その中に運よく、解熱効果の高い生薬が入っていた。
それによって、若旦那は一命を取り留めたという。
その日から宗近は大豆田屋との縁を持ち、それは今日まで続いているのだ。
「宗近くんに出会う前にね。俺、雨ノ宮神社に参っていたんだよ」
「え、そうなんですか?」
その時の旦那様は、もう神にしか縋るところがなかった。
気が付けば、足が山道へ向かい、神社へ参った。
『お願い致します。息子の病を払ってください。そちらへ連れて行かないでください』
何度も何度も祈っている時に聞こえたのが、宗近の乗ったアカの足音だった。
これは、神様が使わしてくれた人に違いない。
この旅人なら、きっと息子の病を払うための物を持っているに違いない。
そしてそれは、本当にあったのだ。
「俺は、宗近くんがあの神社の事で、いろいろとしてくれていることに、何か運命的な何かが動いている。そう感じているんだ」
茶屋の主人は、目を細めて山を見る。
まるでそこに、誰かが居るのが。
神様が居るのがわかっているかのように。
「宗近くん。今年は目一杯、ここでの年越しを楽しみなさい」
「……はい。旦那様。お気遣いありがとうございます」
二人の見つめる先では、サワサワと雨が降り出していた。
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