第18話 瑠璃嬢の華麗なる一日

 山裾の港町。その北東に建つ町一番の大きな屋敷が、この辺り一帯を管理している大浦家の一族が住む屋敷だ。

 大浦瑠璃は、この時代の大浦の家に生まれた一人娘だ。

 瑠璃はその日もゆっくり寝ていたかったが、朝、陽が登ってからしばらくしたら、いつも通り、身の回りの世話をしてくれる女中のカエに起こされる。

 瑠璃は眠い目を擦りながら、仕方なく起きて、顔を洗う。昨晩、遅くまで小説を読んでいたので、本当に眠いが、それを言えばカエから小言を言われるのがわかっているので言わない。

 起きた瑠璃は、幼い頃からずっとしてきたように、カエにされるがまま着替えをする。今日の着物も、数年前に買ってもらった物だ。そろそろ新しいものが欲しいけれど、この間、神社で汚した分を新調してもらったばかりなので、きっと無理だろう。

 着物が整えば、次は髪だ。つげ櫛で丁寧に髪を梳かすカエが問う。

「お嬢様、髪はどうしますか?」

「いつもと同じでお願い。リボンもね」

「かしこまりました」

 カエは、まず瑠璃の髪の上の部分を選り分けて、そこから左右に分けて三つ編みを作っていく。左右の三つ編みを後ろでまとめて、紐で括ると、余って垂れた一房を、何もしてない後髪と一緒にまとめて、紐で一括りにする。一括りにした後ろ髪でまた三つ編みをこさえたら、三つ編みにした長い髪を折り曲げて、輪を作ったら、三つ編みの根元に留める。

 そうして出来上がった輪の根元をリボンできつく留める。“まがれいと”と呼ばれる、この時代の少女たちに人気がある結い方だ。

 リボンの色は、気に入っている紫かかった濃い青色。瑠璃の名前の由来になった色に近いものをわざわざ選んで、使っている。

 髪が整う頃には、瑠璃の目もしっかり覚めていて、父が買ってきたよく映る鏡越しに自分の姿を確認する。

 髪も着物も、黒い瞳に潜む深い青色もいつも通りだ。

 身支度に問題がない事を確認して、朝食を食べに食堂へ向かう。食堂にはすでに、母が綺麗に正座をして待っていた。

「おはよう。瑠璃」

「おはようございます。お母様」

 朝の挨拶が終わると、瑠璃と母の前に朝食が運ばれる。

 白いご飯に、わかめの浮いたお味噌汁。焼き魚に、おひたし。

 時々、お味噌汁の中身が違っていたり、焼き魚の種類が変わったり、お浸しが煮物になったりするけれど、おおむね、瑠璃の食べている朝ご飯はこんな感じだ。

「では、いただきましょう。いただきます」

「……いただきます」

 ほとんど毎日、代わり映えのしない朝食に、瑠璃はうんざりしている。港町に住む者の宿命なのか、ほぼ毎食、魚が出るので、飽きている。

 今朝も少し残そうと思って、手を止めると、母から注意を受ける。

「今日もお稽古がいくつかあるのでしょう?」

「二つだけよ。お花と舞踊だけ」

「舞踊は身体を動かすのだから、しっかり食べなければ、身体が持ちませんよ。きちんと食べなさい」

「……はい」

 瑠璃は仕方なく、ちびちびと魚を食べる。

 今朝は干物だったのか、魚の表面が硬くて、よく顎を動かす方が瑠璃は疲れた。


 〇


 朝食を終えると、すぐさま、畳のある方の客間へ向かう。

 もう華道の先生はいらしていて、瑠璃を待っていた。

 けれど慌ててバタバタと動いてはいけない事を瑠璃は学んでいた。楚々そそとした動きを心がけて、待っている先生の前に座って、お辞儀をする。

「本日もよろしくお願い致します」

「はい。よろしくお願い致します」

 先生は置いていた花の束を瑠璃の前に広げる。

「本日は、ヤマユリ、リンドウ、マツリカ、それからササを使ってみましょう」

「はい」

 瑠璃は先生の持ってきた花から、使いたい花を使いたいだけ取って生けていく。リンドウの花の色が、リボンと似た色なので、つい多めに生ける。

 だが、増やすだけ増やしたところで、先生に止められる。

「お花の種類が偏っていて、見栄みばええが揃っていませんよ。もう少しヤマユリやマツリカを使ってみてください」

「……わかりました」

 瑠璃は生けた花からリンドウを少し減らして、マツリカを入れることにした。ヤマユリは花が大きくて、花粉が付くのが嫌なので、あまり使いたくない。

「……できました」

「結構です。ですが、もう少し工夫をしてみましょう。ヤマユリを中心にマツリカを背後に、リンドウとササで盛り立てて行くのです」

 先生は丁寧に、花の綺麗な見せ方と生け方を教えてくれるけれど、瑠璃の興味は正直そちらへあまり向かない。

 好きな花を好きなように生けられないこの時間は、瑠璃にはつまらないのだ。


(だいたいこんなの、お嫁さんになった時に何の役に立つのかしら)


 瑠璃はそんな言葉を飲み込んで、リンドウをギリギリまで減らして生ける。


 〇


 午前の華道のお稽古が終わると、昼食になる。

 母はいない。大浦夫人には、大浦夫人という仕事があるのだ。

 昼食は、また白いご飯に、菜っ葉の浮くお吸い物、それからまた魚が出る。昼食の魚は塩焼きだった。

 一人きりで食べる食事は正直味気ない。だが、周囲で働いている女中や下女は、使えるべき主人の後に軽く食べると決まっているので、一緒に食べてはくれない。

 瑠璃は柔らかく焼かれた魚をほぐして口に入れる。干物と違って食べやすいが、毎日魚ばかり食べていて、特に塩焼きは飽きている。

「……毎回、毎回。魚ばかりで飽きたわ、カエさん」

「お嬢様。そんな事を仰っていては……」

「いいじゃない。誰も居ないんだから。私だって不満の一つや二つくらいあるわよ」

 瑠璃はお吸い物を吸って、口の中の塩辛さを消そうとする。

「そろそろ、いつもと違うものが食べたいわ。せめて塩焼きじゃなくて、味噌漬けとか」

 言うだけならタダだ。

 瑠璃は塩焼きの魚を突きながら、思う。


 〇


 お昼ご飯を食べて、少し休んでから午後のお稽古がある。

 今日は日舞のお稽古だ。先生が奏でる音楽と歌に合わせて、扇を手にして舞う。

 すり足や、静かな動きを身につけるためと、幼い頃から習っているお稽古だが、華道や茶道、手習いなんかと違って、身体を動かしていいお稽古なので、瑠璃は嫌いじゃない。

 じっと静かに座って、好きなように動けない他のお稽古よりも、ずっと楽しいし。楚々とした動きは、身につければ母のようになれるとわかっているだけ、他のお稽古よりも身になると思える。

 一曲舞い終わったところで、先生からの総評をもらう。

「瑠璃さん。動きが少し荒いです。もう少しゆったりと、指先まで集中させて動いてください」

「……はい」

「もう一度、やって見ましょう。綺麗に動けたら、新しい曲に移りましょう」

「はい!」

 瑠璃は新しい曲を目指して、もう一度、丁寧に舞う。


 〇


 結局、今日は新しい曲には行きつけなかった。

 それでも、次のお稽古で進められるだろうと言われて、瑠璃は上機嫌で午後のお稽古を終える。

 暑くなるにつれて、陽が長くなってきた最近。夕飯は陽が暮れてから取る大浦家では、しばらく、瑠璃には自由時間が出来る。

 その自由時間を、前なら本を読む事で潰していたが、最近は別の目的が出来た。

「カエさん! お茶屋さんへ行きましょう! 準備して頂戴!」

 今日は舞のお稽古で身体を動かしたので、おやつを食べても、夕飯が入るだろう。そう思っている瑠璃は嬉しそうに、外出の準備をする。

 カエは仕方なさそうな顔をして、瑠璃が気に入っている外出用の巾着を用意すると、瑠璃と一緒に屋敷を出る。空を見ると、暗い雲が見えたので、傘も持っておく。

 港へ向かう道を、カエは瑠璃と一緒に歩いて行く。

 漁師はもう仕事を終えていて、家へ帰って行く。そんな彼らと反対の方向を目指して、瑠璃とカエは足を進める。

 目指す場所は、港町一番の茶屋、大豆田屋だ。


 〇


 漁港の少し手前、店々が立ち並ぶ通りにその茶屋は居を構えている。

 店は夕刻の休憩を終えて、夜の営業に向けて、用意をしている。

 この店は、朝、昼、晩と、食事を求める客が多い時間が稼ぎ時だ。それ以外の時間は、働いている人間が休憩を取る時間以外は基本的に開いているが、客は少ない。

 瑠璃は混んでいない時間を見計らって店に来ている訳ではないが、たまたま瑠璃の空いている時間が、店に客があまり入らない時間なので、ほぼいつも貸切のような状態で店に居ることになる。

 今日も店の暖簾をくぐった先には、誰も居なかった。

「ごめんください」

「……イラッシャイマセ」

 瑠璃の声に反応して出てくるのは、いつもぶっきらぼうな若い方の女中だ。彼女は日の本の国の人間と似たような顔形をしているのに、どこか発音がこちらに合わない。淵が緑色の瞳から、彼女は外の国から来たのではないかと、瑠璃は思っている。

 発音がぎこちないせいで、瑠璃は彼女と会話をするのが苦手だ。彼女も、わざわざ瑠璃と会話したくないのか、注文を取る以外は話しかけてこない。

「注文ハ?」

「芋餡と、胡桃味噌餡の蒸し饅頭を一つずつ。小さいのでお願い。それからお茶を二つ。暖かいお茶がいいわ」

「……カシコマリマシタ」

 若い女中は瑠璃から注文を聞くと、不機嫌そうに緑色の混ざる茶色の瞳を細めて、ふいと、厨へ戻って行く。

 それと入れ替わりで来るのは、ここの茶屋の主人の息子である、若い男性だ。相変わらず、不健康そうな顔色をしている。

「いらっしゃいませ。大浦さん」

「こんにちは。大豆田さん」

「今日も芋餡の蒸し饅頭を?」

「はい。それと胡桃も。小さいお饅頭なので、一度に二種類の味を楽しめるので、前よりも食べに来やすくなりました」

「そう言っていただけて嬉しいです。実はその小さい蒸し饅頭をお店で出そうと考えたのは、こちらで働いている女中で……あ、丁度、本人が来ました」

 やってきたのは、ぶっきらぼうな若い女中の方だった。

 器用に片手に湯呑みを乗せた盆を持って、もう片方の手に熱そうな急須を持って来ていた。

「彼女です。ミドリさんと呼んでいます」

 瑠璃は初めて彼女の名前を知った。

「ミドリちゃん、今、この小さい蒸し饅頭の話をしていたところだったんだ。大浦さんが褒めてくださったよ」

「ソウデスカ」

 若い女中は、褒められたと言うのに、まるで喜ぶような素振りを見せずに、さっさと、瑠璃たちの前に湯呑みを置いて、お茶を注ぐ。

「コノ包子パオズハ、子ドモノ、オヤツ。ソノ為ニ、作ッタヨ。若旦那、今コレ作レルノ、私ダケ。アンマリ、広メナイデ」

 そう言うと、ミドリはまた機嫌が悪そうに、厨へ戻って行った。

「すみません。元々、この小さい蒸し饅頭は、子どもたちのおやつとして作ったものなんですけど、ここまで小さく包むのが、まだ店の中ではミドリちゃん以外得意ではないので、大々的には出してないんです」

「そうだったんですか」

 確かに瑠璃が最初に小さく丁寧に作られた饅頭を見たのは、たまたま居合わせた子どもが注文をしているのを見た時だ。

 小さいものも売るようになったのかと思って注文していたが、出てくるまで時間がかかるところをみると、注文を受けてから、わざわざあのミドリという女中が作っているのかもしれない。

「……次からは、大きいものを頼みますね」

「申し訳ありません。今、職人たちが覚えようとしていますので、出せるようになりましたら、またお知らせいたします」

「はい。お願いします」

 瑠璃が注がれたお茶を飲むと、外からサラサラという音が聞こえて来た。どうやら、家を出るときに暗いと思っていた空から雨が降って来たようだ。

「大浦さんがいらっしゃる時は、よく雨が降りますね」

「……えぇ。きっとあの神社の神様に嫌われているのです」

 あの日、山の中の神社を綺麗にすると言う催し物の監督として訪れた瑠璃が、興味本位で手を伸ばした丸い物は、あの神社の御神体。つまり、神様だったと後から聞いた。

 触れようと手を伸ばしたときに、バシッと、何かに叩かれるような音と、衝撃を受けた事を、瑠璃は忘れていない。

 あの日から、瑠璃が外へ出る度に、特に港町の茶屋へ訪れる時は、雨が降るようになった。

 雨ノ宮神社は、その名の通り、雨の神様を祀った神社だと聞いて以来、雨がよく降る季節だからという話を聞いても、瑠璃はあの神社の神様に嫌われているのだと思うようになった。

 そう言って、ツンと顔を背けていると、茶屋の若旦那が苦笑しながら執りなしてくれる。

 「そうでもないかもしれませんよ? 馬借さんが、『雨の神様なんだから、雨がお好きで、好きな物なら、機嫌がいいときに出したくなる』んじゃないかと、言ってましたから」

 “馬借さん”、という言葉に瑠璃の胸の奥がとくんと、跳ねる。茶屋の若旦那が、馬借さんと呼ぶ人物は一人しか居ない。

「あの……馬飼さんは、次はいつ頃こちらにいらっしゃるのかしら?」

 瑠璃は聞きたいと思っていたが、なかなか聞けずに、それで何度も茶屋に通っていたのだ。

「あぁ、いつも通りなら、秋に入る少し前には、来られると思いますよ」

「秋……」

 まだまだ先の話に、思わず瑠璃は肩を落とす。

「そういえば、大浦さん。一つ、ご相談がございまして」

「何でしょうか」

 正直、目当ての待ち人がもうしばらくやって来ないとわかった瑠璃の気分は沈んでいる。

 興味のない、茶屋の若旦那の話など、あまり聞きたいとは思えないのだが、大浦の娘として、聞く姿勢だけは取らなければならない。

「ご相談と言うのは、神社の話でして。前回、大浦さんが帰られた後、屋根の雨漏りを修理することは出来たのですが、床の修繕がまだなのです」

「そうなんですか」

「はい。なので、また神社の修繕について、大浦様から許可をいただけないか、というご相談です」

 確か、前回はこの若旦那の提案で、新しい蒸し饅頭を振る舞うという催し物があって、場所を貸して欲しいという意図もあって、大浦家まで話に来ていたはずだ。

「今回も、大豆田屋さんが、何かなさるのですか?」

「特別、前のような催しはしませんが、麦茶を振る舞ったり、修繕が終わった夜に修繕に関わった男たちが店へ来る予定ではあります」

「そうですか……」

 前回同様、特別大浦家が何かをする必要は無さそうだった。それに元々、前回の書状には床の修繕の事も書いてあったはずだ。

 またやると町の人が言うなら、町の人に任せればいいだろう。

「わかりました。念のため、母にお伝えしておきます」

「ありがとうございます!」

 瑠璃はようやく来た蒸し饅頭を摘むと、口へ入れる。味噌の甘じょっぱい味と、ごろごろとした胡桃が口の中に広がった。


 〇


 夕飯の少し前に、家に帰ると、珍しく人が帰宅していた。

「お父様! 帰っていらしたのですか?」

「あぁ、瑠璃。今さっき帰ってきたのだよ。ただいま、私のお姫様」

「おかえりなさいませ、お父様!」

 瑠璃は父が好きだ。

 外の国の方と一緒に仕事をしていて、日の本の国では珍しい物をたくさん知っているし、それを瑠璃に贈ってくれるからだ。瑠璃が髪を結う時に使っているリボンも父から贈られた物だ。

 それに、おねだりをすれば着物も買ってくれる。母と違って、顔を合わせても、小言ばかりではないところも、好きだ。

 瑠璃は父と一緒に、夕飯を食べるために食卓へ向かいたかったが、雨の中を歩いて帰ってきたので、一度着替えなければならなかった。

「カエさん急いでちょうだい! お父様が待っているのだから!」

「お嬢様、そのようにはしゃいで居ては、はしたないですよ。少し落ち着いて、お稽古の時のように、所作に気を遣ってください」

「わかっているわ。お母様の前では、もう少し控えるもの。髪は崩れてないかしら?」

「えぇ、大丈夫かと。念のため鏡で確認されてはいかがですか?」

 瑠璃は鏡の前で、自分の姿を確認する。夏らしい涼しい色をした着物に、整えられた髪を結うお気に入りのリボン。そして、黒の中に潜む深い青の瞳もバッチリだ。

 瑠璃は早足で、それでも出来るだけ優雅に食卓へと向かう。

 食卓には、父といつの間にか母も席についていた。

 その日の夕食は、父が帰ってきたので洋食になった。牛肉を煮込んだ汁物と煮物を合わせたような料理で、“びーふしちゅー”と言うそうだ。

 母は、あまり良い顔をしていなかったけれど、毎日魚ばかり食べる事に飽きた瑠璃は、違うものが出て嬉しかった。

「お姫様、今日は何をしていたのか、父に話してくれないか?」

「えぇ、もちろん! 今日の午前中はお花のお稽古をしたの。リンドウがリボンと同じ様な色をしていたから、たくさん生けたかったけれど、それは難しい事だったわ。それから、午後は日舞のお稽古で、きっと次には新しい曲を練習できるはずよ」

「そうか。よく習っている様で安心したよ。だが、さっきは外から帰ってきたみたいだが、どこへ行っていたんだい?」

「町のお茶屋さん。大豆田屋さんよ。新しい味のお饅頭がとても美味しいの。お父様も気にいると思うわ! 今度一緒に行きませんか?」

「ふむ……大豆田屋というと、この間の神社の件で、書状を出してくれた所かな?」

 父が母の方へ目を向けて問う。母は、静かに頷く。

「しっかりしたお店ですよ。この間の件も上手くやってくれたようで、神社が綺麗になっています。そのおかげで、町の女や子どもたちも神社へ足を運べるようになったようです」

「ふむ。そうか」

 神社、と聞いて、瑠璃は茶屋の若旦那からの相談を思い出した。

「そういえば、今日、お茶屋さんへ行った時に、大豆田さん……の息子さんから相談をお受けしたの」

「相談? 何のだ?」

「前回、神社を綺麗にした時は、雨漏りのしている屋根までしか修繕できなかったので、今度は床を綺麗にしたいそうなのです」

「また何か催しでも開くのか?」

「いえ、今回は特別何かをするとは言っていませんでした。麦茶くらいは出すようですが、それ以外は特に考えていないそうです」

「ふむ……」

 父が黙って考え込む。それを助ける様に、母が言葉を足す。

「前回だけでは、到底終わらないとは事前に書状にも書いてありました。あの神社を綺麗にしてもらえるのであれば、大浦としても悪い話ではないはずです」

「そうか。では、許可しよう」

 父が許可を出したので、また書状を茶屋に送るのだろうと思っていた瑠璃に声をかけたのは、母だった。

「瑠璃。今回、大浦から出す書状はあなたが書きなさい」

「私が?」

「えぇ、今回はあなたが直接相談を受けたのだから、あなたから出すべきです。丁度いい機会です。これを機に、人へ出す書状の練習をなさい」

「……わかりました」

 母が瑠璃の事で決めた事柄が覆る事は、まずない。瑠璃は夕食を終えると、書状を書くために部屋へ戻った。


 〇


 食堂ではまだ大浦夫妻が話を続けていた。

「……瑠璃の教育はどこまで進んでいる?」

「先程、瑠璃が言った通りです。お花とお茶はまだ少し不安ですが、舞は進みが早いです。おかげで、所作に落ち着きが出てきました。手習いも問題ないと思ったので、書状を書かせる事にしました。出来栄えは、旦那様が直接ご確認ください」

「そうか。では、そろそろ、婿を探しても問題ないな?」

 瑠璃は今年数えで十四になる。年が明ければ、十五で、この時代では結婚適齢期に入る。

 そして、瑠璃は大浦の家の一人娘であり、跡取りである。瑠璃の母、葵と同じように、この港町を守る為に、婿を取らなければならない。

 その為には、高い教養と相応しい所作を身につけておかなければいけないのだ。

 どんなに瑠璃が面白くなくても、毎日お稽古があるのはその為だ。

「……早い方がいいでしょう。婿へ来るとなれば、お相手とのお話もしっかりしなければなりませんから」

「そうだな。また仕事に出た時に、それとなく声をかけておこう」

 大浦家へ婿入りした男は、食後のお茶を飲み干した。


 〇


 瑠璃は何度も書状を書いては、直してを繰り返していた。

 正直、興味のあまりない神社に対しての書状を書くなど、気も乗らなければ、どう書いていいのかもわからない。

 とうとう、筆を放り出した所、カエがお茶を持って瑠璃の部屋へやってきた。

「お嬢様、いかがなさいましたか?」

「……書状に何と書けばいいのか、わからないの。特段、面白い場所でもないのに、どうしてみんな、あの神社のことばかり気にかけるのか、わからないのだもの」

「……そうですね。お屋敷からあまり出ないお嬢様には身近ではないかもしれませんが、あの神社は、町の人間や、あの町へ山を通ってやってくる者にとっては、大切な場所なのですよ」

「山を通ってやって来る……。例えば、馬を連れた荷運びをする方とか?」

 瑠璃の脳裏に、満面の笑みを讃えて良く日焼けした健康的な青年の姿が思い浮かぶ。

「……そうかもしれません。山から来る旅人からしたら、あの神社はこの町の玄関の様な場所でしょう。そんな玄関が汚れていては、どう思われますか? お嬢様」

「……気持ちが良くないわね」

「はい。だから、綺麗にしたいのだと思います。その様な気持ちを汲み取って、前回の書状の内容も踏まえつつ、書かれてはいかがでしょうか」

 カエの言葉に、瑠璃もようやくピンと来た。

「ですが、今日はもう遅い時間です。一度眠ってから、明日の朝、気持ちを新たにして書かれてはいかがでしょうか?」

 今日はお稽古で身体を動かしただけでなく、茶屋へ行って、父とも会った。

 昨晩の夜更かしも含めて、疲れているのは、瑠璃もわかっていたが、少しでもまとまった考えを書き付けたいと思った瑠璃は、カエが持ってきたお茶を飲み干すまでは起きている事にした。

 サラサラという雨音に耳を傾けながら、瑠璃は筆を進める。

「……秋に戻って来られる時には、びっくりするほど綺麗にしたら、馬飼さん……宗近さんはどんな顔をするかしら?」

 クスリと笑った目元で、濃い青がキラリと光る。

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