第16話 緑色の記憶
港町一番の茶屋では、常時二人の住み込み女中が働いている。
今年十八になるミドリはその一人だ。
「ミドリちゃん。今日も一日よろしくね」
「ハイ、ミチサン。今日モ一日、ヨロシク、オ願イシマス」
朝、日が昇る少し前には茶屋は支度を始める。まずミドリたち女中が始める仕事は、掃除だ。
店の中、
饅頭に入れる餡子と生地は、通いの親方と、その弟子が作ってくれている。
朝仕込むものは、中身が甘い物がほとんどで、少しだけ塩辛いものも出す。限定百五十個とはいえ、全てを人の手で包んで、蒸し器に並べなければならないので、女中と職人が厨に集まって総出で取り掛かる。
一つ分に分けられた生地を片手に取って、もう片方の手で生地から溢れないかつ、少なすぎない量の餡を小さい木べらで掬って、包んでいく。
手際の良さは職人である親方が一番だが、その次に美味いのは、弟子よりも、長年勤めたミチよりも、若いミドリだった。
もう一人の女中、ミチはそれに感心する。
「相変わらずミドリちゃんは包むのが上手いわね。私の方が長い事ここに勤めているのに」
「……私、子ドモダッタ時、ヨク手伝イ、サセラレタ。ダカラ慣レテル。ミチサンハ、丁寧ネ。私、好キヨ」
「あら嬉しいこと言ってくれるわ」
ふっくらとした朗らかな笑顔のミチさんに、ミドリも思わず笑顔が出る。
この茶屋の店主に拾われたことで、ミドリはミドリとしてここに居られるようになったのだ。
〇
ミドリの元の名前は
理由は、緑蘭の茶色い瞳の淵が緑色をしているからだ。
本来であれば、緑蘭の故国の人間の瞳は、この日の本の国の人間と同じで、黒に近い茶色なのだが、緑蘭の母方の祖母のずっと前の人が、緑蘭の住んでいたところよりも西の砂漠に住む人だったそうで、その人たちから受け継ぎ、混ざった色が出たのだと、祖母は言っていた。
緑蘭は自分の名前も、瞳の色も好きだった。
親に売られるまでは。
緑蘭が親に売られたのは、十歳の時だった。
珍しい瞳の色をしている事と、まだ何も知らない娘であることで、親よりも歳を取った金持ちに買われた。
その金持ちは、他にも緑蘭の様な幼い娘たちを集めていた。
つまり、そういう
綺麗な服も、豪華な食事も、緑蘭には恐ろしかった。
毎晩、自分じゃない娘が、男の元へ連れて行かれる度に、強張った顔をしていたから余計に恐ろしかった。
だから、逃げ出した。
雨で視界が悪い日に、大人が見ていない所で、屋敷の
地面に足が付いた緑蘭はとにかく走った。絹の服が破れても、履物を無くしても、とにかくあの屋敷から遠くへ、でっぷりと太った蛙のような男が追いつけない所へ行こうと走った。
緑蘭が金持ちに買われて幸運だったことは、逃げた先に他の国へ行く船がある港があった事だけだった。
〇
緑蘭は雨に紛れて、他の国へ行く船にこっそりと乗った。
絹の服は脱いで、船に乗っている人間の服を盗んだ。食事も、貯蔵室に潜り込んで
そうして、まずたどり着いた場所は、故国の人間以外にも、緑蘭の先祖よりも西の方の人間たちと、故国の人間に見た目は似ているが、見知らぬ服を着た人たちのいる国だった。
密航したことがバレる前に、緑蘭は雨の日を狙って、次の船へと移る。
それを何度か繰り返している内に、二つの季節が過ぎて行って、港で見かける人間も、西の人間が減って行き、見知らぬ服を着た人たちが増えて行った。
それでも、緑蘭は船を降りなかった。
降りられなかった。
ある日、緑蘭はいつもの通りに雨に紛れて、船を変えようと動いたところを、港町で働いている見知らぬ服の男に捕まった。
男は緑蘭の知らない言葉を話していたが、緑蘭がしていたことについて怒っていることは感じ取れた。
緑蘭が恐ろしかったのは、男が怒鳴っていることでも、密航したことで捕まり、裁かれることでもない。
言葉が通じないからこそ、何も知らない女だからこそ、珍しい瞳の色だからこそ、また売られるのではないかということが、一番怖かった。
緑蘭は必死に瞳を隠しながらも、どうにかして自分を捕まえている男の手から逃れようと身をよじったが、港町で働いている力の強い男から逃れられるわけがなかった。
それが余計に緑蘭を恐怖に
緑蘭は半ばパニックになりながら、叫んで暴れた。それにはさすがに、緑蘭を捕まえている男も怯んで、緑蘭の腕を掴んでいる手が緩んだ。
その隙を付いて緑蘭は男の手から逃れて走った。
とにかくめちゃくちゃに走ったところで、傘を差す一人の男にぶつかった。
それが、緑蘭がたどり着いた港町で一番の茶屋の主人だった。
〇
茶屋は夜の営業に向けて動いていた。
中に詰める餡は朝とは変わって、塩辛いものになる。酒を飲む男たちのためだ。
親方と弟子は明日の朝に詰める甘い餡の仕込みをしている。
塩辛い餡を作るのは女中のミチさんなので、自然と夜の分の饅頭を包むのは、ミドリだけになる。
時折、若旦那が手伝おうとしてくれるが、どうにも手先が不器用で、売り物にならないものを作り出すので、丁重にお断りしている。
作り置きができる胡桃味噌と菜っ葉の漬物が入った壺を取り出して詰めようとした時だった。
「こんにちはー!」
「お饅頭くださーい!」
小さな子どもの声が、店の方から聞こえてきた。
ミドリは手を止めて、店の方へ顔を出す。
「イラッシャイマセ」
「あ、ちょっと言葉が変なねえちゃんだ」
「ねえちゃんこんにちはー!」
子どもはなんとも素直である。
ミドリはそれを叱る事もせずに、子どもたちに聞く。
「今日ハ、ドウシタ?」
「河津のあんちゃんとこに、草持って行ったお駄賃が、やっと二つ分買えるくらい貯まったんだ。あんちゃん意外とケチだから、一回持ってただけじゃ、まだ買えなかったんだ」
「たくさんお手伝いしたからね、やっと二つ分買えるくらい貯まったの。だからね、こないだ食べたやつで、美味しかったやつ買おうと思って、兄ちゃんと来たの」
ニコニコと笑う子どもたちは可愛いものだ。
何の味がいいかを聞こうとする前に、厨にいたミチさんが顔を覗かせた。
「あなた達、こんな時間に蒸し饅頭を食べて、家に帰ってからお夕飯、お腹に入るの?」
子どもたちの動きがピタリと止まる。どうにも図星の様だ。
ここの蒸し饅頭は大人が満足する大きさにしてあるので、子どもにとっては少し大き過ぎるのだ。
子どもたちは、蒸し饅頭を食べたいけれど、夕飯が食べれられなくて怒られるのは嫌だと、悩み始めた。
そんな子どもたちの様子を見ていたミドリは、ここに来たばかりの時の事を思い出した。
〇
港町で逃げ出した緑蘭がぶつかった男は、傘を放り出して、跳ね返って転がりそうになる緑蘭を支えると、しっかり立たせてくれた。
緑蘭はまた男に捕まるのではないかと思ったが、男は特に緑蘭を力で抑えることもなく、目線を緑蘭に合わせるようにしゃがみ込んだ。
「大丈夫かい?」
もちろん、緑蘭に言葉はわからない。けれど、男の優しそうな目と顔に緑蘭は先ほどのように暴れて、逃げようとはしなかった。
優しそうな男は、後ろから緑蘭を追って来た男から事情を聞くと、少し考えてからそれでも優しい笑顔を絶やさずに、緑蘭の手を優しく握って話しかける。
「うちにおいで。大丈夫、悪い事はしないよ」
緑蘭は追いかけて来た男にまた捕まるくらいならと、優しそうな男に付いて行く事にした。
優しそうな男が緑蘭の手を引いて連れてきたのは、平たい建物だった。
緑蘭が入ったのは、人の出入りが激しい出入り口ではなく、裏手にある木戸だった。優しそうな男はそこに無造作に置かれた木箱に緑蘭を座らせると、少し小走りで建物の中に入って行く。
木箱に座った緑蘭は、流れてくる風の匂いを嗅いだ。雨で土が蒸れた匂いの中に、船に乗っていた時とは違う、
しばらくしてから優しそうな男は、これまた優しそうな見た目の少しふっくらとした女を連れて来た。
優しそうな女は、緑蘭を連れて来た男から話を聞くと、「あらあら、まぁまぁ」と言いながら、緑蘭の様子を確認すると、男と同じように優しく手を握って、建物の中へ連れて行った。
連れていかれた先には常に暖かい湯が入って来るところがあった。
優しそうな女は緑蘭の服を有無を言わさずに脱がして、頭の上から足の先まで丸洗いした。
勝手に船に乗って逃げている間に風呂なんて入れなかった緑蘭の身体を洗った湯は、最初のうちは黒く濁った湯が流れていった。女はそれが透明になるまで、丁重に、優しい手つきで緑蘭を洗った。
その間も緑蘭は自分の瞳を隠し通した。顔を洗われる時はぎゅっと目を瞑って、湯を流される時は両手で顔を覆った。
丸洗いされた緑蘭は、柔らかい布で全身をくまなく拭かれて、その後、あの見知らぬ服を着せられた。
特別綺麗なわけでも、良い素材でもない服に、緑蘭は売られることはないのかもしれないと、少しだけ思った。
全身を綺麗にして、見知らぬ服を着せられた緑蘭は、女に手を引かれて平たい建物の中へ連れられて行った。
連れられた先は、家具の他に布団が一つだけ敷かれている他には、何もない部屋だった。
「ここで休んでいて頂戴ね。今、ご飯を持ってきますから」
相変わらず言葉はわからなかったが、ずっと人に見つからないように気を張って隠れていたこと、全身を丸洗いされたこと、久しぶりに肌触りの良い服に身を包まれていることで、一気に疲れが出て来て、とりあえず布団の上で、身体を丸くして休むことにした。
もしまた、何かをされるようなら、また逃げればいい。この建物は平たいから、走れば簡単に外に出られる。
少しだけ、眠気が出てきてウトウトしていた時、連れてこられた部屋の引き戸がそろそろとゆっくり開いた。
そして部屋へ入ってきたのは、若い、まだ少年の顔が抜けきらない男だった。
緑蘭は反射的に飛びのいた。
そしてそれに驚いた若い男も、また後ろに飛びのいた。
緑蘭は後ろに何もなかったからよかったが、若い男は後ろが引き戸だったせいで思いっきり頭を打ったようだ。頭を抱えて、うずくまった。
うずくまっている若い男の様子を緑蘭は離れた所から観察する。細くて力がなさそうで、あまり健康そうじゃない顔色の男だ。まだ打った頭を擦っている。痛そうにしている顔は、緑蘭をここへ連れて来た、優しい男に顔が似ている。あの優しい男の家族だろうか。
緑蘭は少しだけ、ほんの少しだけ若い男の方へ近寄った。
若い男はようやく痛みが治まったのか、緑蘭の方を見ると気まずそうに笑う。
「ごめん。ごめん。こんなところに人がいるなんて思わなくて。さっき親父が言っていた子かな? 俺はここの息子の一茶って言うんだ。よろしく」
若い男が軽く頭を下げたので、緑蘭も頭を下げる。
「えっと、君の名前は?」
「……?」
何かを聞かれても、緑蘭にはわからない。こちらを見て首を傾げる若い男に向かって、同じように首を傾げるしか返事のしようがなかった。
「あー、もしかして、口がきけないのかな? うーん。あ、そうだ!」
若い男は服の袖の中から、何かを取り出した。紙に包まれたそれは、故国でも見た事のあるものに似ていた。
「
「あ、なんだ喋れるのか! でも、聞いたことない言葉だな。もしかして外の国の人なのかな? 綺麗な目の色をしているし」
若い男は何かわかったように、話を続けながら、手に持った包子を二つに割ると、一つを緑蘭に渡した。
「本当は、夕飯の前に食べるとミチさんにすっごい怒られるんだけど、半分だけなら大丈夫だろうし、共犯者ってことで」
「……
「うん。あげる」
緑蘭は少し戸惑いながらも差し出された食べ物を手に取る。緑蘭が手に取ったところで、若い男ももう半分を食べる。その様子を見て、何も悪いものが入っていないのだろうと思った緑蘭は手に持ったものに口をつける。
船に隠れていた時にまともに食事を取っていなかった緑蘭にとって、その食べ物はいつ振りかの食事になった。
「……
「気に入った? なら良かった」
嬉しそうにしている男からは悪意を感じない。
そこでようやく、緑蘭は自分が何かされることはない、と思えた。
もしかしたら、もう逃げなくていいのかもしれない。
その後、戻って来た優しい女から、二人して夕飯の前に饅頭を食べていることに怒られても、緑蘭はもう逃げ出そうとは思わなかった。
〇
どうしようと悩んでいる子どもたちに、ミドリは入れ知恵をする。
「蒸シ饅頭。一個、大キイ。ダカラ、二人デ、一個ヲ、半分ニスレバイイ。ソシタラ、オ腹イッパイニハ、ナラナイ」
「……ねえちゃん頭良い!」
「そしたら、明日も饅頭買いに来られるね、兄ちゃん!」
子どもたちは喜んで、芋餡の蒸し饅頭を一個だけ注文した。
ミドリは一個分の料金を貰うと、二つ重ねた皿の上に蒸し饅頭を一個乗せて、店の机に置く。
「熱イカラ、気ヲ付ケテ」
「うん! ありがとうねえちゃん」
「ありがとう!」
子どもたちは蒸し饅頭を二つに割る。上手くぴったりと半分にできなかったので、大きい方をたくさん食べられるからと兄が、少しむくれたが、夕飯が食べられなくて怒れるのは嫌だからと小さい方を弟が食べることになった。
その様子を見ていたミチさんも、昔を思い出したようだ。
「あらあら、まぁまぁ。若旦那もミドリちゃんとよくあぁして、おやつを分けていたわね。しかも、夕飯前に」
「嫌ネ、ミチサン。私ハ勝手ニ、共犯者、ニ、サセラレタノヨ」
ミドリははぐらかして見せる。こんな技術も、ミドリになってから覚えた。
半分にしても子どものおやつとしては大きい蒸し饅頭を見て、ミドリは思った。
「……ネェ、ミチサン。オヤツノタメニ、小サイ蒸シ饅頭ヲ作ル。ドウ思ウ?」
「小さいって、どのくらい?」
「ソウネ……神社ニ持ッテ行ッタ時クライ」
「あぁ! あの大きさね。確かにあの大きさなら、子どものおやつぐらいに丁度いいかも。でも、あの大きさを作るのは私苦手なのよねぇ」
ふっくらとした頬に手を当てて、悩むミチさんに向かって、ミドリは少しだけ緑色をした瞳を細めて、笑う。
「任セテ。私、得意ヨ」
〇
日の本の国の、山裾にある、とある港町。
その町一番の茶屋に拾われた緑蘭は、ようやく隠れて逃げる必要がないとわかった途端に、それまでの間に積み重ねられた疲れがどっと出たのか、熱を出して寝込んだ。
茶屋の人間はそんな寝込んだ緑蘭を毎日、献身的に看病してくれた。
優しそうな笑顔の男、茶屋の旦那様は苦いが良く効く薬を持ってきてくれた。
一見厳しそうな顔をした旦那様の妻、女将さんは、実はとても優しくて、何度も緑蘭の額に当てた布を冷えたものに変えてくれた。
ふっくらとした女、住み込み女中のミチさんは、食べやすいお粥を作って持ってきてくれる。
そして、痩せていて一見健康そうに見えない若い男。若旦那は、いつも緑蘭を楽しませようと花を飾ったり、本を持って来たり、こっそりと甘い物を分けてくれたりした。
ようやく熱が引いて、身体の起こしているのが辛くなくなった頃、若旦那がまたおやつと一緒に、紙と筆を持ってきた。
若旦那は紙に「名 一茶」と書いて、自分を指さす。
緑蘭も名前を書いて返事をしたかったが、“緑蘭”のうちの“緑”しか思い出せずに書けなかった。
だが、その文字を見た若旦那は笑顔になった。
「ミドリか、君の瞳の色と同じだね」
「ミ、ドリ?」
「そう、ミドリ」
緑蘭は若旦那を指さして、「イ チャ」と呼んでみる。
そして自分を指差して「ミドリ」と言ってみる。
「そう! 俺は一茶。君はミドリ」
「イッサ、ミドリ」
言い直すと、若旦那は破顔した。
それに釣られて緑蘭も、いや、ミドリも笑顔になった。
それから、緑蘭はミドリになった。
その名前は、元の名前よりも気に入っている。
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