第13話 新しい蒸し饅頭
昼休憩を取っている境内は、祭りがある日のように盛り上がっていた。
皆、茶屋の蒸し饅頭を手に木陰で雑談を楽しんでいる。
「まだまだありますよー。食べていない味を楽しんでもいいし、食べて気に入ったのをもう一回取りに来てもいいからねー」
「冷タイ、オ茶。コッチデス。今日ハ、麦茶デス。汗流シタ人、イッパイ飲ンデ!」
結局、茶屋が用意した新しい味の蒸し饅頭は、塩辛いものが四種類、甘いものが三種類の合計七種類。
各種、百五十個ずつを、大人の男なら一口で食べられる大きさで用意した。
味を研究したのは茶屋のできる女中ミチだが、一口サイズの饅頭を包んだのは若いミドリだ。
ミドリの手つきはとても早く、慣れていることがわかった。茶屋でミチと女将が褒めると、少し寂しそうに『昔、沢山作ッタカラ』と言っていたそうだ。
七種類の中でもよく出ているのは、胡桃味噌が入った饅頭で、酒を飲む男向けに塩辛くしたものも、女、子ども向けに甘めにしたものも、皆こぞって手に取る。歯ごたえがあるので、食べ応えがあるところを気に入っているようだった。
瑠璃も神社の軒先で、よく冷えた麦茶と一緒に蒸し饅頭を味わっていた。
町の人間の食べ物だからと、蒸し饅頭を食べた事がなかった瑠璃は、その美味しさに驚いた。
「……どうしてこんなに美味しいのに、うちで出ないのかしら。お茶請けにもいいと思うのだけど」
「手で掴んで食べるだなんて、少しはしたないですから。それに、この蒸した生地は、時間が経てばきっとこの張りがなくなってしまうでしょうし、水っぽくなってベタベタしてしまいます。今も手に生地が張り付いてしまっていませんか?」
「そうね。指先についてしまっていて、ちょっと困るわ」
「買ってその場で食べるから美味しく、食べやすいのだと思いますよ。大浦のご自宅で食べようと思うと、その場で蒸して出さなければいけませんから、少し手間がかかると思います」
「そう。残念ね」
瑠璃はちょっとお行儀が悪いかなと思いつつも、指先についてしまった生地を舐めて食べようとした時だった。
「美味いかい?」
建物の中から出て来た青年に声を掛けられた。
瑠璃は慌てて、口に含もうとしていた指を降ろして、手ぬぐいで拭った。
「あ、はい。とっても美味しいです」
「そうかい。それは良かった。っと、すみません。こちらの地主さんのお嬢さんなのに、そこら辺の娘っ子に話しかけるみたいに口調が荒くて」
「い、いえ。あの、気にしないでください」
瑠璃は本当に気にしないで欲しいのだが、側仕えの女中が鋭く睨んでくる。
宗近はできるだけ丁寧な言葉を選ぶように心がける。
「もし気に入った味がありましたら、教えてください。それが茶屋で出す新しい饅頭になるかもしれないので」
そういえば、そんなことがあの書状にも書いてあった気がした。
瑠璃は、うーんと悩んでどれが一番よかったか考える。
「そうですね。わたしは、黄色の餡が入っていたものが好きです。甘くて、柔らかくて、食べやすかったです」
「ふぅん……やっぱり、お嬢様方は柔らかい方が好きか」
何故か青年は、神社の奥の方を見ながら呟く。お嬢様方と言うのなら、境内の方にもっとたくさん集まっているのに。瑠璃は、不思議に思いつつも、せっかく話しかけてもらえた青年との会話を続けたかった。
「ちなみに、あの黄色い餡は何だったんですか?」
「あぁ、芋だよ」
「お芋? 普段食べているものとは随分味が違うように感じましたけれど……」
「種類が違うんですよ。今回入れたのは
「まぁ、お芋だけでこんなに甘くなるのですね! うちでも出してもらおうかしら。ねぇ!」
「……そうですね。調理を担当している者に聞いてみましょう」
「干したものを、
青年はいい笑顔で、商店を紹介する。物を卸しているということは、この人も商売人なのだろうか。瑠璃がそれを問う前に、青年は履物を履き直して、どこかへ行こうとしていた。
「すみません。アカに餌をやらないとならないので、失礼いたします」
「アカ?」
「あそこにいる馬です。俺の」
そう青年が指さす先には、先日見た綺麗な赤毛の馬が大人しく繋がれていた。
「……やっぱり、綺麗な赤い毛」
「お嬢様にもわかりますか! そうなんです。アカは俺が育てた馬の中でも一等綺麗な赤い毛をしているんです! だからアカって名前にしたんですよ」
アカを褒められた事で、宗近は思わず破顔する。
その笑顔に、瑠璃は胸の奥がポンと跳ねた気がして、思わず胸を抑えてしまった。
瑠璃が胸を抑えている様子を見た側仕えの女中が、瑠璃の体調が悪くなったと勘違いして、瑠璃は午後の本殿の虫干しに参加することなく、自宅へ帰ることになった。
〇
神社の虫干しは
男たちははしごを昇って、雨が漏っている箇所に板を打ち付けて行く。床板はさすがに、腐った範囲が大きすぎて、張り直さなければいけないと、便利屋が言ったので、また次回に持ち越しになった。
女、子どもたちは手を綺麗に洗ってから、宗近に案内されて、本殿の奥の物置へ入って、仕舞い込まれた物たちを出す。巻物や本は薬屋の息子が先導して、仕分けをしながら干していく。女たちは器を綺麗にしたり、湿気った布団を外へ干したりした。
その間、宗近はアオの本体である御神体の鏡が、間違っても傷つかないように、布にしっかり包んで、懐にしまい込んでいた。その事で、やけに薬屋の息子が宗近の方をちらちらと見ていたが、特にもめごともなく、片付けが整った後にはきちんと元の場所へ戻した。
アオは、宗近の懐に仕舞いこまれている間、何か懐かしい気持ちがした。
ずっとずっと昔に、母親に抱え込まれ、守られていた時の様な、暖かく、安らかな気持ちだった。
出来る事ならば、ずっとそのままでもいいとさえ思えた。
〇
宗近がアカに乗って町を出たのは、それから三日後の事だった。
町を出た日の夜。宗近は神社を訪れた。
神社では、アオが待ち構えていた。
初めて会った日のように、
「朝、夜が明けたら。ここから立つよ」
「……そうか」
アオは、止めなかった。止められる訳がない。
宗近の仕事は、馬に乗り、旅をし、そうして物を売り買いすることだ。宗近を止めることは、宗近の
馬を愛し、馬を気遣い、そして馬と共に生きるために宗近が選んだ生業だ。
そんな人の生業を、神社から出ることのできない港町の氏神が、たまたま掬い上げられただけの一柱が、止められる訳がないのだ。
それでも、寂しい。という気持ちは、抑えられずに顔に出てしまっていた。
宗近は見るからに沈んだ顔をした少女神を慰めるためにも、笑う。
「なに、またこの町に来るさ。なんせ、茶屋の蒸し饅頭の新しい味に使う材料が、山で採れるものだからな。俺が運んでこなけりゃ、茶屋の若旦那が困るのさ」
「あぁ、そういえば。結局、あの饅頭の中から何が選ばれたのじゃ?」
「胡桃味噌と、菜っ葉漬け。それに、アオ様も気に入っていた芋餡だ」
「あぁ! あの黄金の餡じゃな! あれは本当に甘くて、美味しかった!」
あの時食べた味を思い出しているのか、沈んでいたアオの顔が浮上して、緩む。
その笑顔に宗近は少しホッとする。
「そりゃあ、よかった。じゃあアオ様の為にも、芋をしっかり仕入れて戻ってこないとな」
「……次にここに来るのは、いつになるのだ?」
せっかく浮かんだ笑顔がまた少しだけ沈む。
けれど、宗近はそれでも、この神社がある港町を立つ。
それが、宗近が自ら選んだ生業で、生きる道だからだ。
自分で選んだのだから、自分で責任を持つ。
「次は、秋に入る少し前には来られると思う」
「そうか……長いな……」
たった十日ですら、何故来てくれないのかと寂しく思っていたのに。
季節をまたぐ程の長い時間を、また神社の奥で、一人っきりで待たなければいけないのだろうか。
「大丈夫だ」
「……何故じゃ?」
「神社を綺麗にしただろう? それに、床板をまだ張り直してないだろう? それを修理するんだって、便利屋さんが張り切っていたからな。だから、もう人が寄ってこない所じゃない」
「……じゃが、その者たちは、わたしの名を知らないだろう?」
また名を呼ばれなければ、忘れてしまうかもしれない。
たった季節一つでも、アオにはそれが恐ろしかった。
「じゃあ、アオ様。俺がまたこの町に来るまで、毎日俺とアカの安全を祈ってくれないか?」
「ぬ?」
「アオという名前の神様が、俺とアカの安全を毎日祈るんだ。そうすれば、アオという名を呼ばれなくとも、覚えていられないかい?」
自分がアオという名をもらった神であることを、名をくれた者の安全を毎日祈ることで、覚えておく。
毎日行うことなのだから、忘れられるわけがない。
「そうか……そうじゃな。では、明日から毎日、アカと、あなたの安全を祈ろうぞ!」
「ついでに、俺の名前を覚えてくれると嬉しいんだけどなぁ……」
「ぬ? 名は覚えておるぞ? 馬飼宗近じゃろ?」
「うん。だから、俺のことは、あなたとかじゃなくて、宗近って呼んでくれや」
「良いのか?」
「あぁ、そっちの方が自然だろ?」
「ぬ、そうか、自然か」
アオは姿勢を正すと笑顔を見せてくれた。
「わたしの名はアオ。この雨ノ宮神社の神として、旅行く宗近とその愛馬アカの道中に、悪しき者なく、穢れもないように、毎日祈るモノじゃ」
〇
翌朝、港町には霧雨が降っていた。
だが、大豆田屋は、霧雨の中であっても、朝の仕事へ行こうとしている女たちで溢れている。
数日前に神社で開かれた蒸し饅頭の新作を振舞う催し物で、人気があった味が実際に店頭に並ぶ日だったこともあって、当日行けなかった者も、当日の噂を聞いた者も、新しい味の蒸し饅頭が食べたくて並んでいる。
そこに、町の奥から傘をさしてやってきた女が二人。
二人とも身なりがよく、一人は紫がかった深い青色をしたリボンで髪を若い令嬢に流行っているという、“まがれいと”という方法髪で結っている少女だった。
二人が店に近づくや否や、店の女中が慌てて奥へ引っ込んでいくと、ひょろりと痩せた青年を連れて来る。
「おはようございます。大浦さん」
「おはようございます。大豆田屋は盛況の様ですね」
「はい。おかげさまで。それもこれも、大浦さんが神社を使うことを許可してくださったからです」
「そうですか。それはよかったです」
「雨も降っておりますし、店の中へどうぞ」
案内されるがままに店の中へ入ると、少女はきょろきょろと辺りを見渡す。
茶屋の店主代理として出て来た、若旦那はその様子に声を掛ける。
「何か、気になったことでもございましたか?」
「あ、えっと、あの、馬飼宗近さんはこちらにいらっしゃいますか?」
少女は勇気を振り絞って聞いてみた。
「馬飼……あ、馬借さんですね。彼は、昨日の晩この町を立ちましたよ」
「え?」
町を立ったという言葉に、少女、大浦瑠璃は困惑した。
「こちらで働いている方ではないのですか?」
「えぇ、馬借を生業にしているので、町から町を旅している方です」
「そ、そんなぁ!」
瑠璃の落胆の叫びは、茶屋には響いたが、山までは届かなかった。
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