第12話 復興開始

 光の入らない暗い本殿ほんでんの中で、神社の主たる少女神は、自分の本体である御神体ごしんたいの側でただただ寝転んでいた。

 外から聞こえてくる鳥のさえずりが、おそらく朝になったのであろうということを知らせてくれる。

 本来こうして昔の、人だった頃の姿を現したままでいなくても問題はないのだ。むしろ、力が足りない今、無理に姿を現している事は、少女神にとっては負担であるのだ。

 それなのに、こうして人の姿を現しているのは、待っているからだ。

「……もう十日も経つと言うのに」

 長いこと呼ばれることのなかった、名前というものを付けてくれた気のいい青年はなかなかやってこない。

 もちろん、人には毎日の勤めがあり、忙しい事は知っている。その上、この社は山裾の町と海が見えるようにと、山の中にある。気軽に人が立ち寄れるようなところでないことは、ここに神として建っていた頃からわかっていたことだ。

 それでも、来てくれないのは寂しい。

 今度は馬も連れて来るからと、言っていたのに。


「せっかくの名も呼ばれなければ、忘れてしまうぞ……宗近」

 

 少女神はギュッと身体を丸くする。

 もういっそ、姿を現しているのをやめて、いつものように御神体の中に姿を潜めていようかと思っていた時だった。


 外が、騒がしいことに気が付いた。

 

 それは、鳥や獣の声ではない。

 久方ぶりに聞く、人の声。それもたくさん。


 少女神は身体を起こして、音のする方。神社の入り口にある鳥居がある方を向く。

 たくさんの人が入って来て、拝殿はいでんの前までやって来た気配がする。ガヤガヤと、雑多な声が静まり返ったと思うと、大きな拍手の音が二回聞こえて来た。

「人が、参りに来た? それもたくさん?」

 何か今日は特別な日だっただろうか、と思い返しても、長い間、人が来なかった神社の神には、残念ながらわからない。

 とにかくたくさん人の声が聞こえる。それだけでも嬉しかった。

 ガタガタと戸を開ける音が聞こえて、聞き覚えのある声が聞こえてくる。少女神は気持ちが高揚した。拝殿に通じる扉の前へ小走りで近づくと、本殿の引き戸が開いた。

 その瞬間、長い間見ていなかった眩しい陽の光が差し込んで、少女神は目がくらんだ。

 その光を遮るように立つ人間が、少女神の名前を呼ぶ。

 

「……お久しぶりです。アオ様」

 

 アオが見上げた先には、待ち望んでいた馬借の青年。宗近がいた。


 〇


 茶屋の若旦那が、地主の奥方である大浦夫人と雨ノ宮神社を利用した新作蒸し饅頭の試食会の話をした次の日の朝には、大浦家から当主が許可を出したという署名と共に、一茶の渡した書状が返ってきた。

 その書状を元に、港町の茶屋では朝に買いに来た女たち、夜に晩酌に来る男たちに催しの事を伝え、女たちが子どもたちに、男たちが家にいる年寄りに伝え、人から人へと伝わること三日、気がつけば五十人ほどの人間が参加することになっていた。

 それもこれも、茶屋を盛り立てていった主人と、その後を継ごうと頑張る若旦那の人柄のおかげで、普段から人が絶えない港町一番の茶屋だったからこそ、できたことだ。

 

 最後の確認にしっかり丸一日かけて、今日ようやく、人の手が神社に入るようになった。


 〇


「男たちは木を切って整えて、女、子どもたちはそこら中に生えている草を抜いてくれ。道具が必要なら便利屋さんが持ってきてくれたのがあるから、そこから借りてくれ!」

「生えている草の中には薬草になるやつもあるらしいから、それは避けて欲しいそうだ。詳しくは河津の息子に聞け!」

「手が空いている奴は、建物の傷んでいるところを確認しろ。雨漏りで床板が弱っているから踏み抜かないように気をつけろ!」


 男たちは手分けして、力仕事を分担する。

 女たちが手を引いて連れて来た子どもたちは、きゃあきゃあ言いながら草を抜く。


 その様子を、アオは本殿の奥から青い瞳を輝かせて見ていた。


「すまんな。なかなか来れんで」

 宗近は本殿の前のさかずきを前に来た時のように綺麗にして、小さな蒸し饅頭を三つ乗せた。

「これは、一体どういうことじゃ? 山裾に住む者が多く集まっているようじゃが……」

「わかるかい? みんな、この神社を綺麗にするために集まってくれたのさ」

「神社を綺麗に?」

「みんな、いつかは恩返しをしたいと思っていたんだ。神社にも、そこにいる君にも」

 人は神社に足を運ばなくなった。けれど、神社のことも、神様のことも忘れてはいなかった。

 それは、ここに来ている人々を見ればわかる。 

「……あなたが、やったのか?」

「いや、俺は思い付きをあそこの羽織を着ている若旦那に話してやっただけさ。ちなみに今供えた饅頭はそこの茶屋の新作だ。甘いやつを選んできたから、後で食ってくれ」


 人の声が、人の動く音が溢れている。

 陽の光が社の中を照らし、初夏の草木の青々とした匂いを運ぶ風が入って来る。

 長く、長く、忘れていた感覚に、アオは嬉しさで震えた。


 あまりの嬉しさに、天気雨を降らせてしまう程だった。


 〇


 地主であり、神社の管理者である大浦家の代表として、瑠璃が側仕えの女中と雨ノ宮神社に訪れたのは、昼時の少し前だった。

 予想以上の人が集まっていることに驚いていると、あの日、我が家の元へこの催し物の話をしに来た痩せた若者が駆け寄ってきた。確か名前は、大豆田おおまめだ一茶いっさだったはずだ。

「大浦さんの、娘さん。ですよね?」

「はい。大浦おおうら瑠璃るりと申します。本日は、大浦家の代表として、雨ノ宮神社の修復に立ち合いをさせていただきます」

「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」

 瑠璃は頭を下げている若者をよそに、先日見かけた赤毛の馬と青年を探して辺りを見渡す。

 動いている人が多いのもあるが、あの綺麗な馬も見つからない。もしかして、ここに来ていないのだろうか。

「何か、気になるところでもありましたか?」

 きょろきょろと首を動かす瑠璃に、一茶は何か気に食わないところがあったのではないかと、声を掛ける。

 瑠璃はただ、この間見かけた青年を探していただけなのだが、それを正直に話すのがなんだか恥ずかしくて、慌てて誤魔化す。

「え、あ、そ、そうね。人が思ったよりも多いことに驚きました」

「そうですね。それには俺……いや、私も驚いています」

 一茶の意外な答えに、瑠璃も驚く。

「そうなのですか?」

「はい。確かに店に来る人たちは皆、気がいい人たちばかりですが、こんな若輩者じゃくはいものの私が考えた催し物に、こんなにたくさんの人が来てくれるとは、思いもよりませんでした」

 柔らかな顔が動き回る人々に向けられる。瑠璃も釣られてそちらへ顔を向ける。

 日に焼けた顔に汗を流しながらも、木に登って高い位置にある枝を一生懸命に落とす男たち。男たちの落とした枝を一ヶ所に集めたり、灯籠とうろうなどに着いた苔を取ったり、汚れをたわしで擦って落としていく女たち。地面に生えている草を周りと競って抜く子どもたち。

 皆、一生懸命で。皆、どこか楽しそうに笑っている。

「皆さん、本当に蒸し饅頭ために?」

「子どもらはそうかもしれませんが、大人はそうとは限らないようですよ」

 一茶の言葉に、瑠璃はこの間の大浦家での話し合いを思い出した。

「……善意、ですか?」

「そうですね。皆、意外とこの神社を慕っているんです。荒れてしまったから寄り辛くなっただけで、綺麗にしていれば、きっと今日ここに来られなかった人も来てくれると思います」

「そう、ですか」

 今日ここに来られなかった人もいる。ということは、やっぱり、この間の人は今日は来ないのかもしれない。

 そう思ったら、瑠璃は途端にこの山の中に居ることがつまらなくなってしまった。

 そんな瑠璃を気遣って、一茶は休憩ができるようにと、拝殿の軒先へと案内する。

 瑠璃は土埃が積もった板に直に座りたくなかったが、ずっと立っていても一茶が気にしてしまうようなので、仕方なく座る。

「もうすぐ、昼休憩を挟みます。その時に蒸し饅頭を振舞います。もしよろしければ、大浦さんも召し上がってみませんか?」

「そうですね。いただきます。……でも蒸し饅頭はどこに置いているのですか? 見当たりませんが」

「今、店の方から運んでいます。蒸し饅頭は蒸し立てが一番美味しいので」

「そうですか」

 正直、今の瑠璃にはそんな事、どうでもいい。強いて言うならば、こんな暑い中、蒸したばかりの暑い饅頭を食べなければいけない方が大変そうだな、とぐらいしか考えていなかった。

 一茶が立ち去ってから、側仕えの女中が慌てて瑠璃を立たせて、着物に付いた土埃を払った。

「お嬢様、お着物が汚れてしまっています」

「そうでしょうね。でも、あのまま立っていてもあちらが気を使ってしまうでしょう? それにこの着物はもう何年か前の物だもの、汚れても構わないわ。お父様に新しい着物をおねだりするいい機会だわ」

 どうせ汚れてしまったのだから、と瑠璃は履物を脱いですぐ横の階段を昇る。

「お嬢様、何を?」

「本殿の奥に、巻物や書物が仕舞い込まれているんですって。それを見に行ってみるわ。蒸し饅頭が来たら呼んで頂戴」

 瑠璃は埃だらけの社の中へと足を進めた。


 〇


 瑠璃は建物の中から漂ってくる嫌な臭いに顔をしかめた。幼い頃に、いたずらでコッソリと入った倉の中を思い起こさせるような臭いだ。歩みを進める床からは、足袋越しにもざりざりとした感触が伝わってきて、とても不快だ。瑠璃は履物を脱いだことを後悔した。

 拝殿の床は瑠璃が歩いても所々、深く沈み込むところがあって間違えて踏み抜いてしまうのではないかと恐ろしい。

 奥へ奥へと、足を進める程、ジメジメと湿った空気がまとわりついてくる。

 本殿に足を踏み入れる頃には、白かった足袋は黒く汚れてしまっていた。

「これじゃあ、足袋も新しくしないとダメね」

 本殿は建物の奥ということもあって、陽の光が完全には届かない。普段生活しているよりも薄暗い場所に、瑠璃は少し怖くなってきた。

「……本当にこんなところに、巻物や本なんかが仕舞ってあるの?」

 瑠璃は弱くなった床板を間違えて踏み抜くことがないように、そろそろと足を進めて、とうとう本殿の中央までやって来た。

 床よりも高くなっているところに置かれているのは、何かの残りかすがついている盃と、見たことのない細工の丸い鏡だった。鏡はこんなところにあったというのに、曇りの一つもなく、綺麗そのものだった。

 瑠璃はその鏡に触れてみたいと思った。純粋に、女の子としての興味で、綺麗な鏡というものに興味があったのだ。だから、手を伸ばして触れた。


「きゃあっ!!」


 鏡に触れるか触れないかの瞬間に、バシッという音と共に瑠璃の伸ばした手に衝撃が走った。あまりの衝撃に、瑠璃は腰を抜かして、本殿に座り込んだ。

 瑠璃は衝撃の走った手を振るえるもう片方の手で握って、よく見てみる。

 傷も、何かに打たれたような赤みも、何もない。けれど、痛みだけはしっかりと残っている。

「な、なんだったの今のは……」

 瑠璃がへたり込んだまま手を擦っていると、後ろから声を掛けられる。

「どうしたんだ?」

 振り向くとそこには、先日見かけたあの馬を連れて来た青年が、湯気の立つ蒸し饅頭を片手に立っていた。

「あ、あの、私は……」

「……ふむ。途中参加で迷い込んだかい?」

「え、えっと、あの。……はい」

 途中からやってきて、役目もわからずに本殿の奥までやって来たのだから、あながち間違いではないはずだ。瑠璃は、肯定した。

「そうかい。蒸し饅頭なら今の境内の方で配っているよ。よかったら食べてやってくれ。食べ終わったら、午後から建物の修繕と虫干しに取り掛かるから、その時には君の力も貸して欲しいんだ。どうだい?」

「はい。えっと、頑張ります!」

「そうかい。じゃあ蒸し饅頭を貰ってきなよ。早くしないと、美味しい味は全部取られているかもしれないぞ」

「え?」

「ほら、急いだ。急いだ」

「は、はい。行ってきます」 

 瑠璃は急いで外へ向かおうと、する前に問いかける。

「あの、お名前は?」

「俺の?」

「はい、そうです」

「俺は、馬飼うまかい宗近むねちかって言います」

「あの、わ、私は、大浦瑠璃と申します。あ、あのそれでは、外でお待ちしておりますね!」

 瑠璃はお辞儀をすると外へ向かって、笑顔で駆けだした。

 

 〇

 

 宗近は若い娘さんが立ち去ってから、何やらお怒りの神様の横に座って、間に一口蒸し饅頭のたくさん乗った皿を置く。

「で、何が起きたんだい? 大浦ってことは、あの、この神社の土地を持っている地主さんの娘さんだが……」

「どこの誰の娘なぞ、関係ないわ! あの女子おなご、勝手にずかずかと社の中に入ってきたと思ったら、いきなり御神体に触ろうとしたのじゃぞ!」

 アオは垂れ気味の目をキッと吊り上げて怒っている。描かれた眉まで吊り上がっているから、相当お怒りのようだ。

「まぁまぁ、若い娘だからあまりよくものを知らなかったんだろう。俺からも注意しておくから」

「礼儀はともかく、御神体に触れようとするなど、数多の物盗りがここにやって来たが、誰もそんな恐ろしいことはしなかったぞ!」

「御神体って、あの高くなっているところに置いてある盃の側にある、あの丸いやつだよな? あれ、なんなんだい?」

「あれは、わたしの体である鏡じゃ。……ずっと昔、みやこへ行ってしまった姉様あねさまがわたしのためにと持ち帰ったもので、普段はあの鏡の中に姿を潜めている。あれがあるから、わたしは今の姿を現す力を持っている」

 鏡だと聞いた宗近は、先ほどの若い娘さんがあの丸い物に手を出してしまった理由がわかったような気がした。

 よくよく見れば、見事な細工が入っている手のひらぐらいの大きさの鏡だ。若い娘さんなら、小物の一つとして手に取って見てみたくなったのかもしれない。

 だが、ここにあるのは娘が手に取って楽しむ小物ではなく、神様の物。しかも、これがアオの身体だという。急に身体に触れてこようとすれば、確かに怒りたくもなるだろう。

 それと、宗近は気になったことがもう一つあった。

 この後、建物の修繕と本殿の奥の物置から布団やら巻物やらを取り出して作業する予定だからこそ、尚更、アオに確認しておかなければならない。

「……もしあの鏡が割れたり、傷が付いたりしたら、どうなるんだい?」

「そもそもそんなことがないのが当たり前じゃから、どうなるかまではわからぬ。だが、あれはわたしの体。体に何かあれば、わたしにも何かあるじゃろう」


 宗近は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。

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