第10話 大豆田一茶からの提案

 少し雲の多い晴れ間が広がる港町の朝。

 働き者の女たちが蒸し饅頭を求める喧騒で賑やかな店から少し離れた場所に、茶屋の店主、大豆田次郎の部屋はある。その部屋で、息子である若旦那と呼ばれている大豆田一茶は父に向き合っていた。

 要件は、父に朝食を持ってきたのが一つ。

 そしてもう一つが、昨晩、馬借の青年と練り上げた茶屋の新しい試みについての相談だ。

「……なるほど。面白い」

「本当か?!」

 一茶は思わず身を乗り出す。側に居た母が咳払いをしたので、一茶は慌てて居住まいを正す。

「面白いが、前準備と人集めが大変そうだな。特に、町中の人に伝えるとなると、とてもお前一人では回らないだろう? どうするんだい?」

「あんちゃん……港町の男衆にも手伝ってもらうつもりだし、朝来てくれている女たちにも声を掛けて広めてもらうつもりだ。それに、宣伝なら馬借さんが手伝ってくれる」

「なるほど。宗近くんなら、この町でも顔が広いだろうし、しっかりと伝わりそうだ」

「人がきちんと集まる算段が付いたら、地主さんに許可を貰おうと思うんだ」

「……いや、地主さんには集まる前に、ひと言相談したほうがいいだろう。集まってからでは文句も言えないし、そうすると、無理を通そうとしているように思われてしまう」

「なるほど……」

「人付き合いは大切だ。後で禍根が残るようなやり方にならないように気を付けなければ……。取り返しのつかないことになってからでは、何も戻らないからな」

 そう告げる父はここではない遠くを見る。その顔は酷く寂しそうだった。 

「ところで、一茶。どうやって地主さんと話をつける気だい? お前、大浦さんに会ったことないだろう」

「あ」

 人との縁が、まだ顔を合わせるところから始まるこの時代。地主という、この辺り一帯の土地を取り仕切る相手に、その辺に居る人間と同じように声を掛けられる訳がない。

 そこまでの考えに至っていなかった一茶は冷や汗が出てきた。

「全く。お前は昔から、詰めが甘いねぇ……」 

 呆れた顔をしながらも、助け船を出してくれたのは、母だった。

「大浦さんの奥様なら、娘時代の私の知り合いですよ。私からお声がけしましょう」

「母さん……」

「その代わり、きちんとした書状を用意なさい。何もわからないのに、お声がけも、お話もできませんからね」

「あぁ! ありがとう!」

 ため息を吐く母の顔は、笑っていた。


 〇


 宗近は茶屋の裏手に繋いだ愛馬、アカの手入れをしている。

 アカは朝一番に身体を綺麗にしてやらないと機嫌よく仕事をしてくれない。特に、昨日は雨上がりの道を行ったり来たりしたせいで泥跳ねがすごい。宗近はそれを丁寧に布で拭き取ってやる。拭き取ってやれば、自慢の赤みがかった栗色の毛が輝きを増す。

 少し離れて、汚れが残っていないかを見て確認する。綺麗になった毛並みに満足して眺めていると、店の方から一茶が小走りにやって来た。顔が晴れやかに見えるところを見るに、旦那様との話し合いは上手く行ったのだろう。

「おぉい! 馬借さん!」

「おう! 若旦那、上手く行ったかい?」

「なんとか……。まだちょっと詰めが甘いって指摘は受けたけどな」

 それでも、話は通った。

「これで、馬借さんの提案もお願いも聞いてやれる」

「まさか、若旦那に俺のお願いを聞いてもらえる日が来るとは思わなかったな」

 宗近と一茶はお互いの顔を見合わせて笑う。

 その様子を見ているのは、優しい目をした赤い毛の馬だけだった。


 〇


 昨晩の宗近の提案は、意外と単純な事だった。

「町中の人が集まれるような広い場所で、試しに作った蒸し饅頭、いつもより小さく作ったものを、だぜ? 振舞ってやって、その様子を見ればいい。そうすれば、まるまる一個をたくさん作るよりも少ない量で、たくさんの饅頭が作れるだろう?」

「確かにそうだが……振舞うってことは、売るって訳じゃないのかい?」

 店主代理とはいえ、一応、一茶も商いをする者だ。なんの利益にもならないことをするのには、少し抵抗がある。

「売り物にしてしまうと、なかなか人の手が伸びなくなると思うんだ」

「なんでだい?」

「若旦那、例えば饅頭を一つしか買えないだけの金を持っていたとして、どんな味なのかわからない新しいものと、いつも食べ慣れている味のもんがあったらどっちを買うね?」

「……そういうことか」

 店に来る客は、饅頭をいくつも買えるだけの金を持っている方が少ない。みんな買うのは一つで、それを食って生きている。

 生きる糧となる食べ物に金を出しているのに、それが自分の口に合わないかもしれないと思えば、食べ慣れた味に金を出す方に利を感じるはずだ。

それでは、一茶の欲しい結果は出てこない。

「新商品のお試しだって言って振舞ってやれば、人の手は伸びやすい。とりあえず、物は試しだって、ひょいと口に入れてくれれば、後は何が良かったか、何が一番減ったかを調べてやればいいだけだ」

「確かに、それなら上手く行きそうだが……。それをどこで、何と言って人を集めるつもりだい?」

「そこからがお願いになるんだ」

 宗近は騒々しい店の音にお願いがかき消されてしまわないように、若旦那の隣に居場所を移す。

「場所はあの山の中の神社の境内。雨ノ宮神社を綺麗に整える手伝いをしてくれた奴には、お礼としてまだ店で出したことのない蒸し饅頭を振舞う」


 それが、宗近が思いついた提案とお願いだった。


 〇


 一茶が地主である大浦家の奥様へ面会ができたのは、両親に相談をしてから三日経った後だった。

 その間に、一茶は宗近と細々としたところを詰めて、書状に取りまとめた。

書状は母に何度も書き直しを要求された。一度目はまだ詰めが甘いという指摘で、残りは字をもっと丁寧に書けという指示だ。おかげで、まだ利き手が痺れている。

 町の北東に居を構えた一番大きな屋敷は、門だけで一茶の住む茶屋が何軒も建つのではないかと思わせるほどの大きさだった。

 母はここ一番の晴れ着を着て、一茶もいつもの羽織ではなく、父の一張羅である羽織を着ている。

 門を軽く叩くだけで、小さな木戸が開く。母が約束していたことを告げると、木戸が大きく開かれて屋敷に招き入れられる。

 門の中へ入ると、独特な形が盛り上がっている外壁を施された、大邸宅と言うべき家が建っていた。

 一茶はこんな立派な家を目の前にするのも初めてだったし、こんな立派な屋敷に住む奥様に、これから自分がやろうとしている事を説明するだなんて、と思うと緊張で胃が痛くなってきた。

 屋敷の女中に案内された客間は、その時代にしても珍しい洋風の家具が揃えられた部屋だった。

 座り慣れない柔らかい素材の椅子に座っているうちに、一茶はさらに胃が痛くなっているのを感じる。

 おそらく、誰かが今の一茶を見れば、青瓢箪と言った事だろう。

「お待たせ致しました」

 そう言って静かに客間に入って来たのは、母と同じぐらいの歳の女性と、まだ幼さが残る顔の少女だった。

 大浦夫人が入って来た瞬間に、母は音も立てずにすっと席を立った。慌てて立った一茶は、前に置かれた低めの机に膝をぶつけた。

 痛みに悶絶した結果、一茶も母と一緒に頭を下げる形になった。

「大浦様。本日はお時間を取っていただきありがとうございます。こちらが、息子の一茶です」

 一茶はどうにか痛みに喘ぎそうになる声を抑えて、挨拶をする。

「は……初めまして、大豆田次郎とトワの息子。一茶と申します」

 痛みをこらえていることが分かったのか、大浦夫人は少しくすりと笑う。

「初めまして、私が大浦家現当主の妻。大浦おおうらあおいです。本日はせっかくの機会ですので、娘の瑠璃るりも同席させていただきます」

 紹介された少女は、静かに頭を下げる。

 瑠璃という少女は濃い紫がかった青いリボンで、あまり見ない髪の結い方をしていた。

 全員が席に着いて、お茶を運んだ女中が部屋を離れた。途端に、大浦夫人の態度が崩れた。

「トワちゃん本当に久しぶりね! 会えて嬉しいわ!」

「私もよ葵ちゃん! まさかこんな事で会えるだなんて思わなかったわ!」

 ここまで、丁寧な態度でいた自分の母の様子が変わった事に、一茶は驚いた。

「それにしても、綺麗なお部屋ね。洋風なの?」

「えぇ、夫が外の方をお相手に仕事をすることがあるのものだから、一応揃えたの。ソフアとテエブルいうものなのだけど、慣れないでしょう?」

「不思議な感覚だけど、座るところが柔らかくていいわ。うちの人が腰を痛めたものだから、こういうのがあると便利なのだけど」

「そういえば、旦那様は大丈夫? だいぶ前に痛めた事は、そちらで朝食を買ってから来る子たちからは聞いてはいたけれど」

「一番酷い時からはだいぶ回復したわよ。やっぱり河津さんのところの薬は効くわね。それでも、前ほど動けるまでじゃないから今日は、私が大豆田屋の店主代理で、息子の話をしに来たのよ」

「あら、トワちゃんが代理なの? まぁうちも同じだけど」

 きゃらきゃらと若い娘たちが話をしているような流れがずっと続くかと思っていたら、席に着いた大浦夫人が居住まいを正すと。一茶の方を見る。

「ごめんなさいね。夫は今、別の仕事でいないものだから、大浦家が関わる事で、私が応対しても問題ない件については、私が対応に当たります。それでも、よろしいかしら?」

 柔らかい印象の大浦夫人から問われる。

 この町の手綱を握っている一族からの鋭い問いと視線は、一茶の胃をさらにキリキリと締め上げる。

 だがここで、ここまで母の伝手を借り、書状を何度も書き直し、父に認められた案を。

 今も港町では荷運びをしながら仲間を集めようとしている馬借の青年の思いを。

 一茶が台無しにして、握り潰したくはない。

 一茶はできる限り丁寧に書状を取り出して。大浦夫人の前に置いた。

「是非一度、私の話を聞いてください」

 大浦夫人は一茶の差し出した書状を取り上げると、静かに読み始めた。

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