第8話 可愛い子には旅をさせよ
日の本の国。山々に囲まれた土地に開かれた港町。
温泉も湧き出ているその町で、その蒸気を利用した蒸し饅頭を作り、繁盛している茶屋が一件ある。
茶屋と言うが、実際のところは街道にあるような茶屋ではなく。時と場が違えば、喫茶店などと言われるであろう店だ。
その茶屋の若旦那の目下の心配事は、腰を痛めた父と、その父が盛り立てた茶屋を自分が継いで切り盛りできるのか、ということだった。
〇
茶屋は夜の営業に向けて動いていた。
一茶の父、現在の茶屋の旦那が編み出した蒸し饅頭は、朝方と昼頃にかけては甘い餡を詰めたものを、夕から夜にかけては、甘じょっぱく煮付けた肉や魚と野菜の餡を包んで、酒と共に出す。
この中身が辛い蒸し饅頭が意外とこの町で働く男たちに好評で、毎晩、軽い晩飯として、晩酌の共として、求める者がやって来る。
彼ら相手に一茶が接客をするわけでも、勘定をするわけでもないが、それでも店の主人代理として、後継ぎとして、その場に居ることが求められる。
早めの夕飯の汁物の中に入っていた椎茸との格闘を終えて、炊事場へ皿と椀を下げる。食器の始末は一茶が小さい頃から世話をしてくれているミチさんに任せて、一茶はまだ湯気の漂う夕飯の乗った膳を持って、廊下を渡る。
向かう先は、腰を痛めて寝ている父、
〇
乗せた汁物がこぼれないように、一度
「父さん。一茶です。
「あぁ、ありがとう。入ってくれ」
引き戸をゆっくり開けると、うつ伏せになって腰にカイロを乗せている父と、その世話をするために最近この部屋に篭りっきりの母が居た。
膳を部屋に置いて、立ち去ろうとしたところ、父に止められた。
「母さんや、たまにはミチさんたちと夕餉でも取ってきてはどうだね?」
「……そうですか。では、お言葉に甘えて。一茶」
「はい」
「父さんのカイロが冷めてきたら外して、起こしてやって頂戴。
「わかりました」
母はそう言うと、音もなく部屋を出て行った。
一茶は父の腰に当ててあるカイロを触ると、すぐに手を引っ込めた。意外と熱かったのだ。
「まだ、熱いだろう」
「そうだったようで……」
「腰に布がたくさん巻かれているのに、ちょっと熱いと思うんだ」
「少しどかそうか?」
「いや、いいさ。せっかく母さんが目一杯、熱くしてやってくれたんだ。それにこうしているとなかなか気持ちが良いもんだよ」
父はそう言うと皺の増えた顔でにこりと笑う。
「腰の調子はどうだい、親父」
「やったばっかりの時よりはいいけども、なかなか、元通りとはいかんね」
ふぅと、父がため息を吐くのを一茶は見てやっているしか出来ない。
母が居れば、きっと跡取りとしてもっとしっかりしろと言われる事だろう。
父ももう歳だ。昔のように、何でもかんでもやれるという風には行かなくなるのだろう。だが、自分がその跡を、父のやった事を継いで行けるのか。
一茶には、それが出来ないのではないかということの方が、正直なところ父の腰より心配だった。
「一茶。店はどんな具合だね」
「なんとか回っていますよ。ミチさんと、親方さんのおかげで。朝と昼は小豆餡、夜はやっぱり肉餡の人気が高い。よく出るよ」
「そうかい。それはよかった。でもそろそろ、何か面白い工夫を取り入れたいものだね」
「面白い工夫、か」
腰を痛めていると言うのに、父はまだまだやる気に満ちているようだ。商魂たくましいと言うべきなのか、そのたくましさが、次男である父が大豆田の家を背負って、茶屋として盛り上げて行ったのだろうとも、一茶は思う。
「……一茶、何か思いつかんかね?」
「俺が?」
「俺が思いついても、この腰じゃあね。なかなか動けんでな。それなら動ける一茶が思い付いたものにした方が良かろ?」
「それは、そうだろうが……」
ようは、現店主から、次期店主への課題なのかもしれない。このくらいこなして欲しいという。
だが、目の前の店を回すだけで精一杯の一茶にとって、それは重荷のように感じるのだ。
シンと静まりかえった部屋で、一茶は腕を組んで、上を見上げて考え込む。その時間が永久に続くかのように思っている時に、父から声をかけられる。
「何も一人で考えんでもいいんだぞ? 誰かの力を借りる能力も、時には重要だからな」
「誰か……」
まず浮かんだのは実際に働いている母である女将を含めた、女性陣だったが、母とミチさんからは恐らく『そのくらい考えつかないでどうする』と、二人してしっかりしろと説教が始まるだろう。そして、その説教をされている姿を見たミドリが呆れた顔でこちらを見てくるのが、容易に想像できてしまった。
常連の
「宗近くんに聞いてみたらいいんじゃないかい?」
「馬借さんに?」
「彼は、いろんなところを回っているだろう? 他のところで食べた事のある、変わり種なんかを知っているかもしれない」
「あぁ」
山奥の方に里があるという気のいい男は、そこで育てていた馬に乗って山を下って、馬借の商売を始めたと聞いた。彼が持ってくる山の幸は、港町では少し珍しいものも多い。それに、山だけでなく、都会の方にも行くことがあると聞く。
何か珍しい話を知っているかもしれない。
「二人して何を話していたんだい?」
いつの間にか、母が戻って来ていた。相変わらず、廊下を歩く音もほとんどしないので、気が付かなかった。
幼い頃は、いつ母が現れるのかがまるでわからないから、いたずらをしようとも思えなかった。
「なぁに、そろそろ新しい饅頭の味でもあればいいと思ったもんでな」
「そうねぇ、娘っ子は新しいものが好きだし。そろそろ一茶にもそのくらい考えてもらいたいものだわ」
ジトリと母の目が一茶をねめつける。一茶はその目から逃れようと、父の腰にあるカイロを触る。カイロは少し冷めていた。
「父さん、カイロが冷めたようです。身体を起こしますか?」
「あぁ、頼むよ。それが終わったらお前は店に行きなさい」
一茶は父の腰がこれ以上悪くならないように気を付けながら、父が座るのを手伝う。
いい具合に座れた父の前に膳を置いて、部屋を下ろうとした時にふと、山が見えて、思い出す。
「なぁ、親父。山の神社ってあのデカい地主さんとこのモノなんだよな?」
「雨ノ宮神社の事か? 確か、そうだったと思うけど。それがどうしたね?」
「いや、馬借さんがあそこで雨宿りをしたらしんだが、酷い荒れ具合だったらしくて」
「そんなにかい?」
「あぁ、床板が腐っていて、あとは綿の入った布団やら本やらの高価な物が仕舞い込まれたままで、カビと埃が酷いんだって。どうにか綺麗にできねぇかなって考え込んでいたから、俺もどうしたもんかなと思ってさ」
「……そうかい。それは、どうにかしたいもんだな」
「まぁそれよりもまずは店の方だな。行ってくるよ」
〇
一茶は足早に廊下を渡る。足音がどたどたと響く。
その音を聞いて、一茶の母はため息を吐く。
「全く。あの子はいつまで経っても、足音がうるさいのが直らないのだから……あれじゃあ、落ち着きのない人だと思われてしまいますよ」
「まぁまぁ、元気なのはいいことじゃないか。昔は何度あの神社に参ったことか」
そう言いながら、茶屋の店主は山の方を見る。
一茶が一人息子なのは、店主が跡取り争いでひと悶着あったこともあり、それを避けたかったのもあったが、一茶は思った以上に病弱な子どもで、一茶の世話を見るだけで、店主も女将も女中も手一杯だったこともある。
何度も危ないほどの高熱を出すたびに、店主は、女将は、女中は、あの山の中にある神社に参った。
『どうか息子の命をお助けください』
『どうか息子から
神様が聞き届けてくれたのか、一茶は今を生きている。
店主としては、それで充分だった。
「地主さんか。確か
「えぇ、そうですよ」
「大浦さんか……。前に茶を卸したことはあったかな?」
「……ダメですよ」
「ん?」
「私たちが手を出してやっては。あの子たちも、もういい大人なんですから」
「それは、そうだが」
「私たち年寄りが引いてやらなければ、いつまでも若い者が出て来られないでしょう」
「……なるほど」
店主は少し冷めた汁物の椀を手に取る。
「かわいいい子には旅をさせよ」
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