第5話 “あなた”
蠟燭の灯りだけでは心もとないほどの暗闇が広がる物置を、神である少女は灯りもなしにすいすい進んで行く。
後を追う馬借の青年は、人より身体が大きいこともあってか、少し苦労しながら足を進めている。
「よく、そんなすいすいと歩けるなぁ……」
「仮にも
「でも、昨日の晩はすごい音させてたよな?」
「あ、あれは!
「驚かすって……。声をかけただけじゃないか。あと、なれもたぶん古いぞ。あなたとか、君とか、そっち、とかの方がいい」
「ぬぅ……そうか。やれはて、しばらく人が来んようになってから、言葉は大きく変わったものじゃのう……」
少女神はブツブツと言いながら、覚えたての言葉を上手く使えるように練習している。
しばらく、というのがどれ程長い間だったのか。
馬借は港町で仕入れたい情報の中にそれを含めることにした。
だが、町の人間が来ずとも、物盗りや旅人がやって来ただろうに。
彼らから言葉を教わったり、交わしたりすることで、違和感を覚えなかったのだろうか。
「俺以外の人間から言葉を指摘されたりしなかったのかい?」
「指摘も何も、こうして言葉を交わせる人間の方が少ないのだぞ? そもそも、神の姿が見える人間など、そうそうおらぬ」
少女の言葉に、馬借は思わず目をぱちくりさせた。
「え、でも、俺にはしっかり君が見えているのだが? さっきも
「あぁ、それには我、いやわたしも驚いた。今まで言葉を交わしたり、姿を見ることができる人間には時折会ったことはあるが、
からからと少女は笑っているが、本来接触がないはずの人間、しかも相手からしたら大男から話しかけられれば、そりゃあ悲鳴も上げたくなるだろう。
その上、捕まえられて、逃げられなくされてしまっただなんて、町でやれば巡査(警察)に突き出される行為だ。
「……大変申し訳ありませんでした」
「ぬ? 何がじゃ?」
「いや、その、昨晩は声をかけて驚かせたり、今晩は待ち伏せしてまで、捕まえたりとかしてしまって……。あ、これってまさか、天罰が下ったり?!」
「ない。わ……わたしが許す」
蠟燭の灯りに照らされた少女の顔は楽しそうに微笑んでいる。
「許す代わりに、今宵は汝……いや、あなたの話を、あなたが眠る前まで聞かせてもらおうか」
その笑顔に、馬借は明日の仕事はキツくなりそうだと、苦笑しながら覚悟した。
〇
物置の中は昨晩崩れていた巻物や本がおおよそ元に戻っていた。
おそらく、少女神が片付けたのだろうが、背丈が足りずに戻せていないものもあるようだ。馬借は拾えるものだけを拾って、上の棚に戻しておいた。
そこを少し通り過ぎたところに、布団が積んで置かれている場所があった。少し崩れているのは、少女が掛け布団だけを引っ張って持ってきたからだろう。
「ここから好きな物を持って行くとよい」
「お、おう」
積まれた布団は、上等な物だったらしく。おそらく綿が入っているものだった。少し重いが、毎日のように力仕事をしている馬借にとっては、肩に担いで持って運べる程度のものだった。肩に担いだ布団からは、物置に充満しているカビと埃の臭いがプンプンと漂っていた。
せっかくの上等な布団も、誰もこの神社に訪れることも、管理することもなくなったせいで、ずっと物置に置かれていたせいか、触り心地がジトっと、湿った感じだった。
馬借が愛用しているマントも、時折日に当ててやらなければこうなる。
「布団、干した方がいいぞ」
「干す?」
「日に当ててやることだ。やったことないか?」
「あぁ……。昔はここにある巻物やら書物やらもまとめて、虫干しをする者がおったが、今はおらんようになってしまった」
そういった少女神の顔は丁度、蠟燭の灯りが作り出した影のよって見えなかった。
けれど発せられた声からは、どうしようもないほどの寂しさを感じずにはいられなかった。
馬借は、自分の発した言葉を酷く後悔した。
〇
物置から布団を運び出した馬借は、本殿の御神体の前に布団を敷く。
二組を揃えて、隣同士に。
その状況に、少女神はあるはずの場所にない眉をひそめた。なんなら、上に描かれた毛玉のような丸い眉がひそめられたぐらいだった。
「なんだ? どうかしたのか?」
「……何故、布団が二つ並べられているのじゃ?」
「何故って、他は雨漏りの跡で湿気っていて、これ以上この布団を湿らせる訳にはいかんから。唯一乾いているここに並べて敷くしかないだろう?」
「そうではなく、何故布団が二つあるのじゃ!」
「え、好きなのを持って行けって言われて。意外と担げるから、二組担いで持ってきたんだが。なにかダメだったか?」
「二つもいらんじゃろう! そ、それに、こ、こ、こんなにくっつけて並べて! こ、こう、こういうのは、恥! 恥じらいがない!!」
「え? なに恥?」
「よもや
「え、だって俺が眠くなるまで話を聞きたいんでしょう?」
「は?」
「え?」
少女神と青年はお互いに首を傾げる。
「俺はできれば明日の仕事のために眠りたい。でも君は俺が眠くなるまで話を聞きたいんだよな?」
「う、うむ」
「一応、君は神様で、俺の身分の方がどう考えても下で、そんな俺だけが布団に寝ているのは、おかしいと思って、君の分を持ってきたんだ。そんで、布団を敷くのに辛うじて適している場所がこの本殿の御神体の目の前しかないから、並べて置かざるを得ないだけなんだが……」
「ぬ、う、つまり、汝は我と、その、ど、
「な、ななな、なにを言っているんだ! 俺が、君みたいな
「幼子ではないわ! これでも選ばれた時は数えで十四じゃったわい!」
「え、嘘だろ……まだまだ十を過ぎたか、過ぎてないかじゃないのか?」
「……汝、まさかそっちの方が良いのか?」
「よろしくないよ! 俺の好みはもっと、こう……大人の女性だ! と、とにかく、君にそんな
「そ、そうか。そうじゃったか……」
気まずい沈黙が、本殿にいる一人と一柱の間に流れる。
「あーどうしたい? 俺が離れるか?」
馬借は気まずさを隠す為にも目を動かして、他に乾いている場所がないか探す。
「いや、それでは、汝、あなたの話が聞けぬではないか」
「じゃあ、とりあえず布団はこのままでいいか?」
「そもそも、我……わたしに布団は必要なかったのじゃぞ?」
「何で?」
「わたしは神ぞ? 何故眠り、休む必要がある」
言われてみれば、という感じだった。
見た目が同じ人間だから用意しなければと、馬借は勝手に思っていたが、目の前に居るのは幼児、いや少女の姿をした神だ。
人間とは違う理で、存在している。
「……まぁ寝て休む必要はなくとも、座布団の代わりぐらいにはなるだろ?」
「ぬ? まぁ、そうじゃろうが」
「せっかくの綿の入った布団だ。物置に入れっぱなしでカビと埃の匂いと、あと湿気っているけど……。それでも、上物だ。使ってやらないと可哀想だろう?」
「……一理ある」
馬借は二組ある内の一組にあぐらで座って、隣の布団をポンポンと叩く。
「とりあえず使ってやれや。ついでに、寝てみたくなったら、寝てみればいい」
「……本当に何もしないな?」
「するわけないだろう。君は俺から見たら幼……いや、神様なんだから」
「……うむ。ならば、ここにひとまず座っていよう」
少女は完全には納得していないが、他にどうしようもないと思ったのか、空いている方の布団に静かに正座した。
正座とあぐらが、しばらく静かに向き合う。
「どうした? な、あなたは寝るのではないのか?」
「あーいや、神様が座っているのに、俺だけが寝転んでいいんだろうかと、ふと」
「よいよい。わ、たしが許す」
気軽に許す、と言われても。昨晩、本殿の前で寝るのすら畏れ多いと思っていたのに。神、本人を前に寝転ぶのはどうにも気が引けた。
「本当にいいのかい?」
「な……あなたもしつこい奴じゃの。良いと言えば、良いのじゃ。さっさと寝転ばぬか。人は、休まねば動けなくなってしまうだろう?」
そう告げる少女神の顔は、昔、馬借が馬を連れて家を立つと決めた時に見た母の顔に似ていた。
もしかしたら、少女が生きていた時に。
もしくは、神となってからの長い年月の中で、何度も、何度も、動けなくなってしまった人たちを見てきたのかもしれない。
馬借は布団の上にごろりと横になった。
〇
「で、何を話せばいいんでしょう?」
「ぬ。何、何とな? ぬぅ……ちっと待ってくれ、今すぐ考えるでな?」
少女はむむっと、少し難しい顔をして考える。
その様子を馬借は腕を枕にして見ている。
「なんでもいいんだぞ? なんか気になったこととか、名前とか、歳とか」
「では、名前が聞きたい」
「あぁ、俺は、
「すまぬ。あなたの名前ではなく、昨晩外にいた馬の名だ」
「馬かよ」
「うむ。雨の中、主人を待って辛抱強く待っておったようじゃったからな。良い馬じゃ。是非、名を聞いておきたかったのじゃ」
「まぁな! アカは俺が育てた馬の中でも一等賢くて、忍耐強くて、足腰も強いから山越えだって簡単にこなしてくれる! 十八の俺が家を出られたのも、今の仕事ができているのも、アカのおかげだ!」
馬借は愛馬を褒められた嬉しさで、まくし立てるように語る。少女は思わず身体を引いてしまったが、馬借の口は止まらない。
「今まで何頭か、親父や兄貴にも任されてきたが、その中でもアカはずば抜けていい馬だ。気性よし、毛並みよし、
「う、うむ。あなたは本当に馬が好きなのだな……。特に、アカが。ところで、アカが馬の名なのだな?」
「そうだぞ。俺の家が育てていた馬の中で一等綺麗な赤毛だったから、アカって名前にしたんだ」
「……ふむ」
「いま単純だなと思ったろう」
「お、思ってない。思っておらぬぞ」
「いいさ、兄貴たちからも言われていたからな。だが、実際のアカを見ればわかる。本当に見事な赤毛なんだ! あぁ、今日連れてくればよかったなぁ。休ませてやりたくて、俺一人で来てしまった」
「……連れてきてもらっても、わたしは見ることができないだろう」
少女の寂しそうな言葉に、馬借の盛り上がった熱が一気に下がった。
「なんでだ?」
「わたしは、もうこの社の中から動けないのだ」
そう言いながら少女が見つめる先は、山裾の港町がある所だった。
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