第2話 港町

 翌朝、彼が目を覚ますと雨は止んでいた。

 布団も社も荷物も馬もきちんと昨晩のままだった。

 どうやら本当に人のいい狐らしい。

「もしくは、ここの神社の神様なのかもしれんな」

 そんなことを思い、ふっと笑いながら彼は荷物を元通り荷車に積み直した。

 掛け布団を畳んで本殿の隅に置き、ふと御神体の前を見ると、不可思議なことが起きていた。


 盃に供えたはずの金平糖が、そこにない。

 それも一粒残さず。


「……狐って、金平糖食うのか?」

 そんな疑問を持ちながら、彼は神社を後にして町へと降りて行った。

 

 青い目が、その後ろ姿を見ているとは知らずに。

 

 〇


 朝の港町は忙しい。

 昼頃に港に着岸する輸送船が運ぶ荷物のために、倉庫の扉は開け放たれ、荷物の運び入れを待っている。

 商店は開店のための品出しなだしと、棚卸たなおろしに忙しい。宿屋からは朝出港する船に乗る客の出入りが激しい。飯屋は朝の勤め人のために食事を出すのにてんてこ舞いだ。


 それはこの茶屋でも同じこと。


 茶屋というからには、茶と甘いものを出す場所であるのに、何故昼から夕にかける時間ではなく、朝の食事時にも営業しているのか。

 それはこの港町では、朝から働く若い女性が多く、そういった女性客は飯屋の出す朝食よりも、程よい甘味の餡が入った蒸し饅頭まんじゅうの方を好む傾向にあると今の主人が気付いたためだ。

 近場に温泉も湧いているこの港町では、その蒸気を利用して食べ物を調理することもある。

 この茶屋の蒸し饅頭はその一つで、朝は勤め人、昼は温泉に入りにやって来た客、夜は中身を塩気の効いたものに変えて酒の肴と、中身を変えるだけで繁盛した。

 主人の目算もくさんは上手く行った。

 問題は、今年に入って結婚退職する娘が増えたこと、主人がぎっくり腰になって寝込むようになった事だ。

 そんな茶屋を支えるのは、女将おかみに、古くから勤めている住み込みの女中じょちゅう、唯一の若手で外の国から来た娘、町一番の餡子あんこを作れる親方とまだそこまで達していない弟子。


 そして、二十五になったばかりの若旦那わかだんなだった。


 〇


「相変わらず、すげぇなこれ」

 馬借が茶屋に到着したのは、そんな朝の忙しい時間だった。

 茶屋の表は蒸し饅頭を求める女性客でごった返していた。

 毎朝限定、百五十個まで、というのも女性を誘う文句のようで、あちらこちらから若い女性の元気な声が聞こえてくる。

「若旦那ぁー! 聞こえるかー?」

 大声を出して、彼は店の中にいるはずの若旦那に声をかけた。しばらくして、数十人の女の中から一人の少しやせ気味の男が、疲れ切った顔をして出てきた。

「あぁ、馬借さん。しばらくで。昨日の雨は大丈夫でしたか?」

「なんとか雨宿りできる場所を見つけられたんで、荷物は無事ですよ」

「そりゃよかった。今、裏の戸を開けますから」

「忙しいところ、申し訳ない」

「いやいや、もう直ぐ饅頭も売り切れるだろうから、一旦客足は引きますよ。よかったら少し休憩して行ってください。商店の開店時間にはまだ早い」

「そうさせてもらうよ。ありがとう」

 若旦那は店の裏の戸を開けると、またすぐに店へ戻って行った。

 馬借はいつの間にか定位置になった裏手にある柵に馬を繋ぐと、茶屋へおろす荷物を荷台から降ろして、店の倉庫へ運んで行った。

 しばらくして、若旦那が裏へやって来た。

「売り切れかい?」

「おかげさまで。申し訳ないお任せしてしまって、手伝いますよ」

「いや、あとは蜂蜜はちみつの壺と、そのいもの袋だけなんで大丈夫ですよ」

「せめて袋だけでも運びますよ。ついでに数量確認もしてしまわないと、仕舞しまいにできないでしょう」

「じゃあ、袋だけ。持てる分だけでいいんでお願いしますわ」

「はいよ」

 意気込んで袋を三つ持ち上げた若旦那だったが、一袋一貫いっかん(約三キログラム)の干し芋が入った袋は若旦那にとっては重かった。

 結局、途中で馬借に二袋を軽々と持って行かれてしまった。

「無理して持って来ようとしなくても、あんたまで腰を痛めたらこの茶屋はどうするんだい?」

「……申し訳ない。いけると思ったんだが」

 とはいえ、若旦那の気持ちもわからなくはない。

 男児だんじたるもの、あの程度の荷を軽々と運べて当然。という周囲の視線もある。現に女将さんに見つかれば、『あれしきのことで』と言われるだろう。

 しかし、今やこの茶屋を背負っているのは若旦那だ。彼に何かあれば困るのは茶屋の従業員だけでなく、馬借もなのだ。

 馬借は倉庫に運び入れた荷の数量を、納品書に書かれた数量と違いないことを若旦那と確認する。

「……確かに、数量通り。支払いは店の方でやりましょう」

 若旦那は馬借を店の中へ案内する。忙しい朝の時間を終えた店はひと段落したことで、ゆったりとした空気が流れている。

 昼の営業の前に、従業員は一度休憩をする。

 若旦那の生まれる前からいるというミチさんは最近腰を庇うような動きをしている。その様子を見た馬借は、次は湿布薬しっぷやくを仕入れて来ようかと考える。

 店の中へ入り、支払いを済ませる。紙幣は後で肌着に着けたポケットに入れておく。小銭は小分けにして身に着ける。馬と旅をしている限り、られないように癖をつけるのは必要な事だ。

「いつもありがとうございます。馬借さんのおかげで山のモノを仕入れができるから、助かっているよ」

「こちらこそ、今どき馬借を雇ってくれるなんて人は、滅多に居ないさ。俺がこの仕事を続けられるのも、ここの旦那様のおかげだ」

 彼らの生まれるより前の時代に、黒船くろふねと呼ばれる外の国の船がやって来た。

 それは蒸気の力を使って動く代物しろもので、風の影響を受けないその船は、この海に囲まれた国での主な輸送手段として取り入れられるようになった。

 蒸気の力で動くのは何も船だけじゃない。

 大きな鉄の乗り物が決められた道に沿って車輪を動かす、汽車きしゃだってある。


 馬借の仕事は、いつかそれらに取って代わられる。


 今はまだ必要とされていても、いずれは確実に仕事がなくなるだろう。

 そんな時代の中で、ここの茶屋を含め、港町の店々でよくしてもらえるのは、ありがたいことだ。



 若旦那は「昨晩の残りで悪いが」と、肉と野菜の詰まった蒸し饅頭をいくつか出してくれる。一緒に一番茶を出してくれるのだから、大盤振る舞いだ。

「またしばらくは、ここらで荷運びを?」

「あぁ、しばらくはアカも休ませてやらないと、山を越えてくれない。せっかくだから漁港で手伝って、干物なんかも仕入れてから戻るつもりさ」

「相変わらず、忙しいお方だ。宿はうちで取ってくれるのかい?」

「そちらさえよければ」

「えぇ、馬借さんなら、うちの者も喜んで」

 若旦那の言葉に合わせて、ミチさんも、もう一人の若い女中のミドリも笑って頷く。

「若旦那より、頼りになりますからね。馬借さんは」

「若旦那ハ、重タイモノ運ブ下手。私ノ方ガ役ニ立ツ。デモ馬借サンハモット役ニ立ツ」

「ミチさん……ミドリちゃん……」

 若旦那は肩を落とす。その姿を笑って見ているしかない。

「あ、そうだ。しばらくはここに置いて欲しいんだが、今夜はちょっと別のところに泊まりたいんだ」

「それは構いませんが、何か用事でも?」

「あぁ、町に入る手前の山中に、神社があるだろう?」

「神社……? あぁ、雨ノ宮神社あまのみやじんじゃのことか。それがどうかしました?」

「昨晩、雨宿りでお世話になったものだから、お礼がしたくてな。今晩も行っておきたいんだ」

「お礼参りなら、昼間でもいいんじゃないか?」

「そうなんだが……少し、気になるところがあってな。ちなみに、あの神社って、今は誰かが住んでいたり、管理をしていたりしないか?」

 若旦那は自分の記憶を探るように上を見上げて、考える。

「あの神社は、もう何十年も誰も住んでいないはずだと……。使っているとしたら、あの辺りをうろついている物盗りやら、旅人やらじゃないですかね。管理、というか土地の持ち主は地主さんかな? ほら、デカい屋敷の」


 もう何十年も誰も住んでいない神社。

 管理というよりは、所有。


 確かに、昨晩見た社の様子はそれが顕著に現れていた。


「神社で何かありました?」

「いや、ちょっと夜にな……。狐にでも化かされたんじゃねぇかって、ことがあって。こんな時代に何言って……」

「あぁ、よく聞く話ですね」

「え?」

「……え?」

 馬借も若旦那も、お互いの顔を見合って、首を傾げる。

「よく聞くんですかい?」

「え? いや、だってよく聞くでしょう? この手の話は」

「じじばばやら、猟師やらからは聞くには聞くが、戯言ざれごとだと……。まさか、若旦那から聞くとは……」

「じじばばと一緒にしないでください!!」

 若旦那は立ち上がって必死になって否定する。

「仕方ないじゃないですか! 親父に小さい頃からよく言い聞かされていたんですよ! 第一、この町はやたらとそういう噂やらなんやらが多いんです! 薬屋は河童の子だとか、便利屋は天狗の弟子だとか、隣の茶屋の女給は狐だとか!! そりゃよく聞くよ!! 影響もされるさ!!」

「わかった。わかったから落ち着いてくれ」

 馬借は若旦那を元通り座らせて、お茶を飲ませる。

 お約束通りというか、若旦那はお茶にむせて咳き込む。

「ところで、雨ノ宮神社ってのは、どんな神様を祀っているんだい?」

「ゲホゲホッ、その名の、ゲホッ…通り。雨の神様です。ケホッ、千年くらい前に、ここの港を荒らした悪霊が、神様になって祀られるようになったらしいですよ」

「ふぅん……」

「今じゃ、誰もお参りに行きませんけど。昔は、それはそれは、ご利益のある神社だったとか、そうじゃないとか……」

「随分あやふやだな」

「そんなもんでしょう。この手の話なんて」

 馬借はまぁそうかと思いながら、蒸し饅頭を頬張る。

 そのうち、若旦那はミドリに「何時マデサボッテイル。オカミサンニ言イツケルヨ!」と脅かされて、仕事に戻ってしまった。

 馬借もそろそろ他の商店へ荷物を卸にいかなくては、と蒸し饅頭をしっかりいただいて、自分の仕事へ戻った。

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