俺と雨と雨神様と
レニィ
第1話 雨宿り
蒸気機関が発明され、発達し、蒸気機関車や蒸気自動車が世の中を走り始め、街にはガス灯が灯り出した頃。
日の本の国では、娘らが鮮やかな袴にリボンという紐で洋風に髪を結い。男らは着物の下にシャツを着て、外套を羽織って走り回っていた。
そんな日の本の国でも、まだ蒸気機関車どころか、鉄道も通っていない、山の麓にある、小さな港町。
そこには昔から、
遠い昔、雨神は神ではなく、港を荒らす悪霊だった。
それを鎮め、封じるためにできたのが、町から遠く外れた、港町へ通じる唯一の陸路がある山中の神社だった。
昔はそれこそ、
荒れ果てた神社に立ち寄るようになったのは、物盗りに物乞い、家を追い出された酔っ払いに、山道に疲れた旅人ぐらいなもので、みな誰も、そこに祀られる神のことなど露知らず。ただただ、休息の場としてしか使っていなかった。
そこに神が、彼女が居るとも知らずに。
〇
その日、雨は突然夕刻に振り出した。
町の店々は早めの店じまいにてんてこ舞い。
茶屋を商う若旦那も、表の
「どうやら、雨神様がご機嫌斜めのようだ」
そう苦笑いを浮かべながら、山の方を見る。
「……
この港町は、海を通じて届く荷物も多いが、港以外は山に囲まれており、山間部で採れるような山菜の他、野菜や、獣肉、毛皮などが届きにくい。
そのため、いまだに内陸から山道を通ってやって来る馬を使った運送屋、
この茶屋には懇意にしている馬借が一人いる。
いつもなら、このくらいの時期に現れる赤毛の馬と、それに乗った気のいい男が現れる頃なのだが、この雨でまだ訪れていない。
雨が降ると道が荒れて、危険度が増す。
暖簾を仕舞った若旦那は、山へ向かって深々とお辞儀をして頼む。
「どうか、馬借さんが無事この雨を過ごせますように」
〇
その日、その馬借の青年も港町を目指して山道を超え、ようやく町の入り口に辿り着くという矢先に雨に降られ始めてしまった。
愛馬に乗せた荷物に雨除けの布を掛けているとはいえ、次第に雨が染みてしまう。今回は乾物の他にも、手紙や東京の方で流行っているという雑誌なんかも乗っている。愛馬も濡れるのを嫌う。
彼はどうにか、雨宿りができる場所を探すことにした。
そうして見つけたのが、
「神……社……?」
朱色が剥げた鳥居は形を保つのがぎりぎりなほど古びており、神社の名前が刻まれていたであろう板はもう読めなくなっている。
それでも、今は屋根のある場所が必要だ。
「どういう神社かはわからんが、雨宿りできれば……。馬連れで申し訳ないが、失礼します」
彼は丁寧に一礼してから鳥居をくぐった。
鳥居をくぐり少し奥へ進むと、そこには民家程度の大きさの小さな社が、剪定されていない木々と伸びっぱなしの雑草に囲まれて立っていた。
社のすぐそばの
彼は馬をそこに繋ぐと、荷車の荷物を社の中へ運び入れることにした。
社に入る前に、きちんと二礼二拍手一礼をして、それから社へ荷物を運び入れた。
「神様の目の前しか乾いていないのか……」
唯一大きな水溜りもなく、乾いている床があるのは、
仕方がない。
そう思った彼はせめてもの思いで、御神体の前の小さな
「こんなもので申し訳ありませんが、一晩だけ、雨水を避ける場所をお貸しください」
〇
全ての荷物を運び終えた時には、もう日は完全に落ちていて、辺りは暗闇に包まれていた。
彼は本殿に
「……油がちゃんと入っている?」
至る所がボロボロなこの神社で、行灯の
「誰か居るのか?」
そう思い周囲を見渡すが、人の気配は全くない。
おそらく旅人か、誰かが最近ここを利用したのだろう。
彼はそう思うことにした。
〇
簡単な食事を済ませて、早々に寝てしまおうと思ったが、本殿で寝るのはさすがに
仕方なく、彼は本殿の荷物の側で眠ることにした。
「寒いな……」
馬借仲間から譲られた
外に繋いだ愛馬は大丈夫だろうか。そう考えながら身体を丸くしている内に、彼は眠りに落ちていた。
〇
ぺたぺたという音が聞こえる。
それは彼自身の近くで聞こえたかと思えば、また遠くへ行ってしまった。
気のせいかと思っていると、再びぺたぺたという音が聞こえてくる。ぺたぺたという音が
音が止んだ、と思ったときに彼は何となくそこで目が開いてしまった。
開いた目に入ってきたのは、人のようだった。
誰かは彼に何かを掛けると、灯りを消すために行灯の方へ近づいた。
行灯の灯りは誰かの姿をはっきりと、彼に見せた。
誰かは、女の子だった。
まだ大人に面倒を見てもらわなければならないような
女の子は
それだけでも不思議だったが、さらに不思議なのは彼女の眉毛で、丸く毛玉の様な形で整えられている。
まるでその子だけが、違う世界に生きているような姿だった。
彼はその女の子が気になってしまい、横になっていた身体を起こした。
「……誰?」
女の子が声に振り向く。青いガラス玉みたいな色の目と、彼の寝起きで半開きの黒目が合う。女の子の目は零れ落ちそうなぐらい開いて、彼を見つめる。
「君は、誰?」
もう一度、彼は問う。
すると女の子は「ひゃっ」と悲鳴のような声をあげて、行灯の灯りもそのままに走り去ってしまった。
「待っ……!」
彼が「待って」と言い切る前に、女の子は本殿の奥へ行ってしまった。
すると奥からどさどさと何かが崩れ倒れる音と、さっきの悲鳴に似た声が大きく響いた。
彼は急いで灯りを持って、女の子の消えた本殿の奥へと向かった。
〇
本殿の奥。
「おい! 大丈夫か⁉」
誰も見当たらない。
扉の向こうは物置のようだ。
装飾品や、盃、
しかし、人の気配はしない。
彼は奥へ進んでみた。
「おーい、居るんだろう?」
さらに奥に進むとたくさんの巻物や本が保存されていた。そのうちの一ヶ所が崩れて床に散らばっていた。おそらく、これがさっきの音の原因なのだろう。
彼はさらに奥へ進んでみた。
「おーい、大丈夫かー? 居るんだろう?」
呼びかけながら奥へ進むが、さっきの女の子が出てくる気配もなく、返事も返って来ない。それどころか、女の子の気配もない。彼はなんとなく怖くなってきた。
「……ここで行き止まりか」
とうとう物置の一番奥までやって来たが、女の子は見つからない。
彼は寝ていた場所へ戻ることにした。
〇
物置から出て、本殿へ戻ってきた。
行灯の火を入れる場所は開いている。誰かが火を消そうとしたからだ。
自分が寝ていた場所にはくるまっていたマントの他に、おそらく衣擦れの音の正体である掛け布団が置いてある。
確かに、誰かが居たはずの証拠が残っているのに、消えたはずの物置であの子は見つからない。
「狐にでも化かされているのか?」
山間部の猟師たちはいまだによく、狐に、狸に、化かされたという。だが、この文明化された時代に、誰がそんなことを信じるだろう。
さっきまでは彼もそう思っていた。
けれど、開けっ放しの行灯や、マントのそばに置かれたカビ臭い掛け布団がその考えを打ち消す。
彼は掛け布団を手に取る。おそらく物置に入っていたのか、物置と同じカビ臭さがして、湿気っている。それでも、マントだけよりは暖かそうだ。
「これが偽物じゃないとしたら、人のいい狐に出会ったものだ」
彼は行灯の火を消して、マントと布団にくるまった。
明日、町へ下りたらおいなりさんでも持って戻ってこよう。
そんなことを考えながら、彼は再び眠りについた。
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