楊が僕を連れ出したのは

「起きろ、少し歩くぞ」


 肩を揺り動かされて意識が戻った僕の視界には、見知らぬ風景がぼんやりと広がっているというものだった。

 どこですか、ここ。

 僕は楊の車に乗り込んだ所から記憶が無い。


「お前は俺の車が怖い言うくせに、爆睡ばっかだよな」


「怖いから寝ちゃうんですよ、きっと」


 僕は良純さんのトラックの助手席が慣れているので、車体が低くコンパクトなスポーツカーの助手席は少し怖い。

 楊の愛車は中古のスポーツカーなのだ。

 元走り屋と自称する彼が乗るこの車は、シルビアのS13という白い車だ。現在廃番であれどその道の方には人気車で、なんと日本一保険料が高いという。


 良純和尚は、新車を買え、と楊によく言っている。

 しかし、良純和尚こそ古すぎる中古トラックを絶対に手放さない。

 この二人は結局根っこが一緒なのかもしれない。


「おい、ちょっと、ちび?体も動こうか?」


 呼びかけられてから僕の頭は取りあえずは動いているが、体の方は現在も爆睡中である。僕は取りあえず車から降りなければ身をよじり、まだシートベルトをしている状態であったと身をもって知った。


 体が動かないわけである。

 シートベルトによって僕は再び背もたれに押し付けられたのだ。楊は、ばか、と溜息交じりの声を上げると、僕を置いて車を降りてしまった。


 置いて行かれたことに感謝しながら瞼が再び下がった所で、ばたんと助手席のドアが大きく開いた。えっと思う間もなく、楊は僕を縛るシートベルトの解除をし、そのまま僕をシートから乱暴に引っ張りあげたのである。


「はわ!」


 体がバランスを崩したがために落ちると脳が認識し、危険を察した僕は一瞬で目が覚めた。不安定に宙に浮いた感覚は忘れていた恐怖を思い出させる。たとえば、プールに沈められた感覚とか?僕は溺れた子供のようにして楊にしがみ付きながら、不安定となった足元を必死に動かす。


「ちび、足付け、足。ほら、地面に足つけろ。落ち着け」


 確かに、足が地面についてるって気が付いた途端に落ち着けた。

 脅えた事でこんにゃくみたいになってるけど。

 でも僕が倒れないのは、楊が僕をしっかりと支えているからだ。

 楊のしっかりした腕の存在によって僕から脅えは消え、楊に抱き上げられて起きたパニック状態が水が引く様に消えていった。


「起きたか?」


「起きました。でも、すみません、心臓が変な鼓動を打っています」


 寝起きの老人のトイレが心臓の発作での死亡率が高いのだっけ?

 今の僕そんな感じよ。やることが乱暴だよ。


「早く行くぞ。ただでさえ皆を一時間近く待たせているからね」


 皆って、彼の部下達の事か。

 警部補である楊は、そう言えば三人の刑事を部下に持つ係長さんだった。


「何があったのですか?」


「一般人には教えない」


 朝の七時に叩き起こされ、事件現場に無理やり連れて来られた一般人の僕って何だろう。

 歩くのも早い楊に、心臓の鼓動が変なまま、僕は走るように早足で追いかけた。

 風景はどこにでもある商業地と住宅地が重なってしまった、ちょっと土地の価値が近隣より低く、ごちゃっとして古い小さめの家屋が立ち並ぶ、そんな場所だ。

 細い路地には吐寫物があったり、不法投棄の粗大ゴミがあったりの……。


 どくん。


 胸に感じた痛みに僕は、胸のあたりの服をぎゅっとつかみ立ち止まる。

 見回せば自分が立つ道の反対側に小路地があり、その暗い細い道の中程に大きなドラム式業務用洗濯機が放置されていた。

 コインランドリーに時々見かける、布団専用の巨大なヤツだ。


 動いていないのにそれは回っている、ぐるぐると、真っ黒いままぐるぐると、誰かを引き摺りこもうと手を伸ばして、ぐるぐると。


 僕が立ち止まったまま間抜けのように洗濯機を眺めていたので、楊に不信感を抱かせてしまったようだ。


「何やってんの?あれがどうかした?」


 楊は洗濯機の方へ踵を返し、僕は慌てて彼の背広の裾を掴んで引き留めた。

 ダメ、近づいたら絶対、駄目!

 ほら、ほら、真っ黒な靄がぼわっと吹き出した。

 僕はさらに楊の裾を掴む両手に力を込めた。


「かわちゃん、行こう!さ、先に、かわちゃんの用事を済ませたいです。皆さんを待たせていますよね」


 楊は目を細めて僕を一瞥すると踵を返した。そのまま元々の方向へズカズカと歩いて行き、僕は再び走るように楊を追いかけた。彼の服を掴んだままだから、のろのろ歩くわけにはいかないし。


 その数分後、一、二分もかからなかったが、僕達は大通りに出ていた。

 大通りの歩道の左方向に歩道橋があり、歩道橋の下にいつもの見慣れてしまったブルーシートの目隠しが設置されている。

 そして見慣れた黒い靄。


「あー」


 僕のいつもの声にピンと来たのか、逃げる間も無く楊が被さるように僕を羽交い絞めにした。それでも僕はできる限り手足をバタバタと抵抗して暴れるしかない。

 あの靄は死んだモノがあるか関っている印だ。

 おまけにあの警察設置のブルーシートの目隠しがあれば、そこの中身に人間の死体があること確実だ。


 完全なフラグが立っている状態だ。

 さっきはせっかくせっかく逃げたのに!!


「やめてください。僕、絶対に嫌ですから。僕を放して!レットゥミーゴー!」


「黙れ。社会奉仕の機会を与えて貰えてありがたいと思え。黙ってサクサク歩け」


 十一月に初めて会った時に、なんて優しい刑事さんだと思って慕った自分が呪わしい。

 この人は、良純和尚よりも人でなしな時もあるのだ。

 僕の抵抗むなしく、楊に無情に引き摺られるだけだった。どんどんと忌まわしきブルーシートに近づいていく。ブルーシートなんか、明らかに、ここの現場を目隠し中、なんて目印じゃ無いか。


 ついには僕達は現場の前に立っていた。

 そこが現場の出入り口だとわかったのは、現場を見張る制服警官がいるからだ。

 制服警官は警部補の楊に、楊に捕まえられて引き摺られている最中の僕について物申してくれた。


「あの、それは」


 僕は、それ、でかまわない。

 入らないで済ませらるならと、そこは流した。

 しかし、楊は僕の後頭部を掴んでぐいっと持ち上げて、制服警官に僕の顔を見せ付けるようにしながら抗議などし始めたのだ。


 何て迷惑な男。


「それは、じゃないよ。これは俺のラブだからね。手放せないの」


 物凄く赤い顔になった制服警官は、顔を歪ませて、ハハハと、乾いた笑いをあげた。でもって、僕らを通したのである。


「ここは駄目って言う所でしょ?」


 鬱の僕に突っ込ませてどうするの?

 僕はろくでもない刑事によってろくでもない現場に連れ込まれた。

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