第42話 置いてかれた
橙色の瓦がのった白壁の屋敷の縁側に、
赤髪の小さな子供が座っている。
板張りの床の上に、紙が何枚も落ちていた。
紙には、墨で絵が描かれている。
庭の池で泳ぐ亀、木の実をついばむ鳥…。
さらさらと筆が走る音。
夢中に紙へと筆をすすめる赤髪の子供。
それを、少し離れたところで赤い狼は見ていた。
しっぽをぺしりと畳に打ち付ける。
火の粉がふわり、宙に舞う。
異形を滅する滅魔の五大家、
彼らは、火の神、
その一族には、髪や目、その肌に、火色を持つ者が生まれる。
その者は火の神に愛され、大いなる異能の力を授かった。
赤髪の子供、
紅羽の父、
比嵩一族の中で、五本の指に入る火性の滅魔師の1人だ。
いつでもどこでも全力で、笑い声は屋敷を抜けて、隣家の犬が共に吠えだし、怒れば大鬼が現れ、なぜか雷が落ち、大の男が幾人かかっても止められぬ。
止められるのは、彼の愛する妻だけだ。
茶色の髪、橙色の目、ふっくらとした頬の色白の女が、蒙火の愛妻であり、紅羽の母、
おっとりとした物腰で微笑む顔に、騙されてはいけない。
彼女も夫と並び立つほどの猛者の滅魔師である。
霊力は夫に及ばないが、剣の腕前は一族で一番であった。
そんな男と女から生まれた子供である紅羽は、
ちっとも親に似ていなかった。
父親のように、豪快な性格でもなく、
母親のような、癒しの花のそれでもない。
ただただ、無口で、誰とも言葉を交わさない。
両親と話す時も同じ様、出たとしても小鳥の囀ずりのよう。
近所の子供たちと遊ぶ、なんてとんでもない。
1人で本を読み、絵を描いてばかり。
たまに、どこかを上の空で眺めている。
ありがたい神様の愛し子なのに、おかしな子供と、周りの人々に思われていた。
けれど、彼の父と母は、まったく気にしなかった。
ただ、紅羽を愛した。
紅羽の家からは、幸せそうに笑う声が聞こえていた。
紅羽の父と母が、異形との戦で命を落としたのは、
紅羽が6歳の時だった。
父と母は、一族の者たちを異形の大群から逃がすために、
命を救われた者たちは、嘆き、悲しみ、感謝した。
紅羽は剣を学んだ。
術を覚えた。
彼は熱心に修行をした。
ただ静かに…、黙々と。
そうして紅羽は、一族の中で三本の指に入るほどの使い手となった。
人は言った、
さすが火の神の愛子、
さすがあの蒙火の子、大楽の子と。
目の前にいる仮面の男の存在は、大海のごときものだと、紅羽は理解した。
あの、おかしな鬼、
砂粒のような人間に、何ができるか…
「邪魔だね、オマエは邪魔だよ…!」
仮面の男は肩をぶるりと震わせた。
仮面の青い幾何学模様が、ぬらりと暗く陰る。
灼熱にゆだる熱い空間。
果実の皮の破れ目のようにソレは現れた。
青く、黒く、紫が蠢く。
何もないそこから、長く青黒い、奇怪な長い腕が現れた。
底冷えのする青闇の色をした、腹の膨れた餓鬼のような巨人だった。
長く伸びる首と腕には、刻まれた横溝、
頭には、方々に流れる髪、
眼球のない虚ろな眼窩、
背には、長い獣の尾のようなものが揺れる。
青い異形は、まっすぐにその腕を紅羽に伸ばした。
掴もうとした大きな両手に白光が走る。
紅羽の刀から、すうと、走るそれは、異形の手の後ろ、腕に、肩に、頭へ伸び、ぼうっと白い炎が吹き出した。
崩れる異形の身体。
だが、その中からぬるりとまた、異形が這い生まれた。
空間の裂け目から、さらに幾つもの長い腕が現れ始める。
「ふふは」
仮面の男は嗤う。
「神の火を、人間のオマエがよく使えるねぇ…。寿命が取られてしまうだろうに。…ああ、やはり、もう半分もない。かわいそうだねェ。」
紅羽は異形たちを白炎の刃で切り消すが、彼らは、何度も再生した。
神の白火は、浄化の火。
青い異形は、神から借り受けた滅魔の火を凌駕するほどの魔性たち。
「なあ、わかっているか?」
紅羽の身体を青い異形たちが掴み、異形たちの這い出た先、空間の裂け目に引きずり込もうとする。
「神は、全てを救わないよ。」
青く黒く、紫にざわめく裂け目の底に、蠢く気配。
たくさんの、青い異形たちの蠢く気配。
紅羽は、裂け目にどぷんと飲み込まれた。
赤い狼が、火の涙をこぼす。
多くの人間を救った父と母の葬式は、立派なものだった。
皆、泣き、感謝していた。
そうして、
家へと帰っていく。
家族と共に帰っていく。
家族の元へと帰っていく。
静かな屋敷に、
紅羽は
赤い狼が、悲しい声で鳴いている。
紅羽は、
皆を救った父と母を誇りに思っている。
紅羽は、
父と母を愛している。
それは、いつまでも変わらない。
けれど…
地底からあふれた魔物に破壊された、
異国の街並み
魔物と人の戦いのなか、焦げ茶色の髪と目の少年が、男に馬乗りになり、殴りつけている。
その男や少年からは、狐仙人の青火の気配がした。
青火に焼かれて魔物から人間に戻った者だろうと紅羽は思った。
どこり、ばきり、小柄な少年の奮う拳は重い音を立てて男を打つ。
異国の言葉で泣き叫ぶ少年の腕には、女の髪ほどに黒く長い毛が生えている。
黒い靴を履いているように見えたその両足は、黒く太い獣の足となっていた。
少年は、なぜか再び、魔物になろうとしていた。
少年は男を放り出す。
ある一点を見つめると、そこに向かって走り出した。
少年の身体は、次第に黒い獣毛に被われていく。
牛頭の黒い魔物になっていく。
彼の口から出る叫び声は、獣の雄叫びのようにしか、人間には聞こえない。
紅羽は、魔物となった少年の後を追った。
向かう先に、悪い予感がした。
黒い獣は誰かを探しているようだった。
出会う魔物や人間から攻撃を受け、傷を負いながら叫んでいた。
大切な者を、呼んでいた。
紅羽には、それがわかった。
いかないで、
そばにいて、
逝かないで、
どうして、
どうして、オレを置いていくの?
オレは、
「ああ…」
紅羽は、吐息をつく。
彼のいる、どこもかしこもが、
青く、
黒く、
紫に、
妖しく蠢く者たち
虚ろに、
悲し気に、
憎しみ、
怒りを上げ、
妬みを沸かせ、
幾千万の悪意が、紅羽を潰さんとする。
紅羽の肌を、白火が巡る。
肌が裂け、流れる赤い血が蒸発し、
その傷は、
燃える炎の花のよう。
紅羽の赤い髪が、白火の色に、
茶色の目が、赤火の色に、
染まっていく。
赤い狼は、修行をする紅羽に語っていた。
〈オマエは、神の火を使えるかもしれない。〉
〈だが、それは命を削る。〉
〈一吹きの風で消える蝋燭の火のように、あっという間に死んでしまうかもしれない。〉
〈オレは、オマエに死んでほしくはない。〉
赤い狼は、悲し気にそう言った。
「死ぬ気はない。」
紅羽は、獣のような牙を剥き出し唸った。
父と母の顔が浮かぶ。
紅羽を呼ぶ、笑う顔が浮かぶ。
紅羽は、父と母を愛している。
仲間を命を懸けて救った父と母を誇りに思っている。
けれど、
いつも側にいた赤い狼、
世話焼きの風使いの男、
気性荒く、情の深い家来たち、
絡んだ縁の人々が、紅羽の脳裏に浮かんで消える。
「絶対に、死なない。」
紅羽は、父と母に、
怒りを抱いている。
ずっと、
その怒りは、地獄の炎のように彼の胸を焦がし消えない。
紅羽を残して死んでしまった、
戻ってこなかった、父と母。
紅羽は2人を許さない。
紅羽の手の平に、溶かした金のようなものが、5つ現れた。
金色の雫のようなその先が、つっと伸びて絡まり落ちると、赤や、青、黄色に、白と、無数に変わる炎を灯した鋼の
音も無く、杖が地を打つ。
空間が無に染まった。
「オマエ、」
突如空間を割り現れた、白火の髪、赤火の目をした紅羽に、白い仮面の男は憎悪に満ちた声を上げた。
紅羽は、仮面の男が抱えた灰色髪の少年を奪い、男に向かって杖を向ける。
「…グゥ……!」
紅羽は、口から血を吐き、よろめいた。
白火の髪は赤髪に戻り、身体から異様なほどの蒸気が吹き出した。
彼の肌は、至るところが裂け、血肉が焼けていた。
紅羽は、灰色の髪の少年を、倒れている黒い牛頭の魔物の隣に座らせた。
「……
紅羽の唱えた言葉と同時に、少年と魔物の姿が消えて、鋼の鳥籠が転がる。
紅林は鳥籠を拾い上げ、鳥籠の中にいる少年と魔物を確認すると、ふらつく身体で走り出した。
黒い森は炎に焼かれ、高熱と煙が充満する。
溶岩の海の上に、仮面の男は立っていた。
万華の火に焼かれ悶える頭が、走る紅羽へと向けられる。
『くるぞ』
灰色の小鳥が、燃える木の上から囀サエずる。
闇をたらり、
『死んでしまうぞ、人間。』
堕ちた神は、囀ずる。
紅羽は、ゴボリと血を吐いた。
「…………。」
紅羽はちらりと灰色の小鳥を見る。
「…ラユシュ、は…、」
火の海が、まだ手を伸ばしていない場所を目指して走る。
「オレのこと、が…、大好き、だ。」
『死ぬか…。』
紅羽の血塗れの頭に、禍々しいモノが乗った。
「オレ、に、抱っこをされると、すごく、嬉しそうに笑う…」
紅羽の髪が、一房、ぶしりと逝った。
「よく…、オレの腹の上で、昼寝、を、する」
紅羽の髪が、また、ぶしッと逝った。
「ラユシュ、が、必ず、笑うツボを、知りたく、ないか?」
小鳥の嘴が止まった。
小鳥の愛し子である、銀髪と空色の目をした赤ん坊は、小鳥を嫌っている。
小鳥が触れたら、泣きわめく。
『絶対に笑うのか?』
「笑う。」
『絶対か?』
「ああ」
『そりゃあ、絶対に聞かなきゃなあ~!』
火の森に、
場違いに響く、
青空のような声。
あざやかな黄緑色に、赤や黄色、群青色が星のように散らばる両目。
白い髪の青年が、鳥籠を持つ紅羽の腕を掴み上げた。
『子供は、笑っているのが一番だ。』
鋼の鳥籠に青年の白い手が入り込む。
指から白金の雲がわき出て、灰色の髪の少年と黒い魔物を包み込む。
少年の頬に赤味が差し、黒い魔物の身体の傷が消え、茶色の髪の少年へと姿が変わる。
天虎、アルシャンは、それを見てにっこり笑うと、
灰色の小鳥に手を伸ばす。
『オレ、あんたのこと、もうわかるよ。』
闇をこぼす目に、星が映る。
『ゾフタルキタ』
アルシャンの身体の輪郭が消え、
七色の光の粒となって、灰色の小鳥のなかへと消えていった。
『止めてくれ』
闇夜と青空混じりあい、雫がぽたりと滴り落ちた。
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