第71話 権利義務関係の複式性へ 2
森川氏が、この度の議論を総括する。
貴君はこのところ経理の手伝いをあちこちで頼まれてやっているようであるが、そこで単に帳簿をつけるだけでなく、その帳簿の背景にある思想というか、そういうところまで真剣に物事を見ておられるようであるな。
そのような思考を君ができるのは、何より、大学で法学を学んだ故である。
確かに、権利義務関係の対立構図は、複式簿記の原理とはいささかずれたところにあるものであるかもしれない。
しかしながら、その対立構図は、実は、帳簿に書かれる法律行為、先ほどの例えでは使用者の私森川が労働者である米河君に給与を支払うという事例であったが、これとて、考えてもごらんなさいよ。
その事例に付加えて、貴君が残業代を私に請求したとしよう。
私は、まあ、拒否するわ。払ってしまえば、終りじゃけどな(苦笑)。
さあ、どうなりますか?
そこからはまさに、権利義務関係の裁判上の紛争となりますな。
その場で使われるツールは、まさに、貴君や大宮さんが時代の差はともあれ、大学のしかも法学部と名のつくところで学んだ「法」の世界。
もはや、対立構図となりますね。
まれに私のほうが債務不存在をかどに訴えることもあるが、普通この手の事件ものは、金よこせの貴君側が訴えるのが相場じゃね。
かくして、貴君が原告、私が被告となる。
さては、その請求の根拠がどうこう、その団に及んで論じられるのは、貴君の役務提供が不十分であったとか何とか、あるいは、貴君の残業と称するものは上司である私の指示によるものではなかったとか、それに対して貴君の側は、今時のことじゃから園長の森川はやれこんなことを述べて無定量な労働を常時強いていた、いつぞやはほれ、こんなことを申しておったぞ、とかな。
今時のこっちゃ、やれパワハラだの何だの、そういう言葉の一つも君あたりなら遠慮も容赦もなく出して来ようぞ。下手しよれば、あっという間にネット上で皆さん使い出すような言葉まで作り出しかねんのう(苦笑)。
ともあれ、そういうやり取りを、お互いするわけではないか。
さて、そこに及んで問われるのは、本来、簿記という手段を使って帳簿に書かれていた給与の支払のその背景の権利義務関係へと及んでいきますな。
7月15日 借方 給与 35万円 / 貸方 預貯金 35万円
単純化すれば、こういう仕分か。
その預貯金のほうに、実は源泉所得税だの健康保険料だの年金だの、はたまた諸般のいわゆる天引性のある案件が預り金として含まれてくるであろうし、ひょっとその中には幾分の「手当」と呼ぶべき報酬が入っているかもしれん。
まあ、そんなものは誤差の範囲かもしれんが。
とはいえ、この仕訳ひとつには、さまざまな物語が実はあるわけじゃ。
その1カ月、貴君がよつ葉園職員としてどんな業務を為したか、上司である私がどのような業務を為していて、そのうちのどこに、君は関与していたか。
ぶっちゃけ、君に払う給与は為した仕事と釣り合っているか。
いろいろなことが、たった一つの振替伝票には詰まっておりはしないかな?
こうなれば、それこそ貴君の仕事である創作の話にもなってこようが・・・。
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「そうですね。確かに、さまざまな権利義務関係を複式簿記のベースで見ていくと、もとをただせば複式簿記で仕分された伝票に描かれた「法律行為」に行きつく。そう考えてみれば、なんだか、自分でも意識していなかったほどの世界に行きついたような気持になりますよ」
米河氏は、感慨深げに述べた。
東の空はさらに明るくなった。
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