第58話 アウフヘーベンの位置 2

 それでは、森川さんの御指摘を受けまして、私見を述べさせていただきます。


 まず、社会性と人間性を相互に正反合の過程を取りつつ、個々の人物の全体のレベルアップを図るという手法につきましては、ワタクシも、個々の事例のある地点における状況下においての当否は別といたしまして、全体の構図としては正しい方向性にあると思料いたします。

 確かに人間性というものは、その場限りの方便として使い得る、すなわちデタラメを糊塗して自己の物言いを相手に押し付ける方便に使われる要素もある者でありますが、それをもって無能のホザくデタラメ手法の言葉ということで切り捨てるわけには参りません。

 人間の成長に視点を当てる限り、明らかに、人間性の育成、情緒を育むことが肝要であることは申すまでもなく、ここはもう、卵と鶏のどっちが先の議論を待つまでもなく、社会性より人間性の育成のほうが本来先に来るべきでありましょう。


 しかしながら、それだけで何でもかんでも通ると思えば大きな間違いというものであります。世の中は、自分の周りだけで成り立っているのではない。第三者である他者との絶え間なき交流の下に成立っております。

 引合いに出すのも難でしょうが、この「最終戦争」とまあ、世にも大仰な看板を掲げたこの論争にいたしましても、同じことです。

 今生の接点は、1969年9月から1978年1月までの約8年半、よつ葉園という場所における接点は1975年から約2年少々、キャンディーズの半分くらいの期間の接点が、森川先生と私の間において発生しました。

 とはいえ、対等な「市民」同士としての接点があったわけではありません。

 それがどういうことか、こういう生者と死者の相違はあるにせよ、もっと言えば世代差は曾祖父と曽孫くらいの年齢差が客観的にあるわけですが、それを承知の上でのこのような接点ができたということは、私としては感無量です。

 本対談はあくまでも、そのような相違点を乗り越え、まさに、近代市民社会における独立した市民同士の対談となっております。

 私は森川一郎さんの指揮下で何かをせねばならぬ立場でもないですからね。その逆もまたしかり。まったくの対等な市民同士の論争であります。

 個々の論点における論の相違を超え、あくまでも対等な立場からこの社会、とはいえその主眼はどうしても接点となった養護施設とはなりましょうけれど、そこから現代社会、否、人間の本質に迫ることが、私ども論客双方に課せられた、こう申しますと大げさかもしれませんが、人類から負託を受けての論争となっておるという意識の下、さらなる論議を行う必要がありましょう。


 その議論においての手法といたしまして、確かに、この弁証法は有意義かつ効果的ななツールとして機能することと思われますし、また、その論議の結果さらに高次の結論、すなわちアウフヘーベンの位置を少しでも高いところに、いや、その位置の高低よりむしろ妥当性をもって世に問える位置取りに持込むことです。

 いささか紳士協定的な話になりつつありますが、アウフヘーベンの位置について補足を加えますならば、それは単に高いか低いかの問題ではなく、世に問え、かつ、そこで有用な羅針盤となるべき位置取りにその「合」たるアウフヘーベンの座標を定めることに意識を向けることを心がけていくことが肝要かと存じます。


 しかし、自分で申しあげていて、いささか、国際法と言いますか、戦時国際法の戦闘についての協定を議論しているような錯覚に陥りましたよ(苦笑)。


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 森川氏は、若き論客の弁を黙って聞いていた。

 いささか自らの弁に酔っているような要素も見受けられるが、その要旨を分析すれば、確かに、合理的妥当性を主眼に据えた思考であり、有用性のあるものを創出しようとする熱情にあふれている。

 世はまだ、明ける時間ではない。

 森川氏は、少し間をおいて持論をさらに展開することに。


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