社会性の破壊力と限界 前半
第36話 社会性の破壊力1・その原点
まずこの点について一言、述べておかねばならぬことがございます。
社会性というものは、破壊なくして存在しえないものであります。
なぜか?
飛び抜けた力で自らの生きる道を切り開くのであれ、少しずつそこにいる子らを伸ばしていこうとするのであれ、今ここにあるその状況を破壊することなくして、それは実現という方向にはビタの一歩向かえないということであります。
山上さんがZ氏や私のような人物の言動に対し恐ろしさと言いますか、毛嫌い感を持たれるのは、その点において無理もないことでしょう。
そうですね、東先生は必ずしもそういう方ではないと思われますけれども、大槻さんのような方から見られますれば、そりゃあ、教師上がりというか教師くずれというか、そんなのが事なかれでぼちぼちやりやがってと、そういう感じにさえ見えて仕方なかったことでしょう。
大槻さんは東先生の後を受けてよつ葉園の園長に就任されましたよね。私はすでにいませんでしたが、Z氏の話によれば、山上先生は大槻さんのことを子どもたちに、「一緒に元気に遊んでくれる園長先生」という表現をされたとのことです。
そこで一つ、森川先生にお尋ねします。
これはどうなのでしょう、私の視点から見るに、山上さんからしてみれば、大槻さんに対して、変わりゆく後輩にしてやり手の上司となる人物に対して、何か、一縷の望みを込めたメッセージをその言葉に託されていたように思えてならないのです。
大槻さんにしてみれば、どうでしょうか?
山上さんがそのような願い、彼女からの思いをもはや体現できない立場に来たことは火を見るよりも明らか。しかしながら、大先輩でもある彼女の弁を無下(むげ)にも出来ず正直困惑されていたのかなと、そんな気もします。
実はここにこそ社会性という言葉の、とりわけ大槻さんがよつ葉園という地で目指された「社会性の向上」という論点における原点と申しましょうか、転機のような位置づけになるエポックではなかったかと、私は思料いたしました。
その原点と私が設定した1982年4月の時点から後の大槻園長の言動について私が聞き及んでいる範囲の事実をもとに分析しますに、ここにこそ、大槻和男という福祉人が目指さざるを得なくなった状況が、そして、その後の進展の原点があるのではないかと思われます。
いささかまとまりが悪いようで申し訳ありませんが、森川さんの御意見を賜りたく存じます。改めて、よろしくお願い申し上げます。
・・・ ・・・ ・・・・・・・
日は少しずつ明けてきている。
森川氏は、今や50歳を超えている若者に対し、静かに私見を述べ始める。
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