セイラムの夜明け

リン・ハオジェ

One

 澄み渡った初夏の空の雲間からまばゆい日差しが降り注ぐ。両脇に商業施設が立ち並ぶ午前九時前のタングステン・アベニューを、ダークアメジストカラーのホバリングビークルがルーフトップのサーフボードに太陽光を反射しながら南へ駆け抜けていく。このテトラ・コンセプトAは四年前に販売が開始されたテトラ・オートモーティブが誇るフラグシップ車種だ。

 クーペタイプのクールな流線形ボディ。車内に人を検知すると車体下部に取り付けられた超伝導磁石が大地の鉱物に反応して浮力を発生させ、ボイスコントロールによりオートパイロット走行を開始する。パワートレインにはノイズレス設計の空冷液冷併用式オリハルコンモーターを採用。NTフリーエネルギー伝送網を通じて走行中は自動的にアルゴリズミックバッテリーへ給電されるため、テトラ社のビークルは充電したりガスステーションに立ち寄ったりタイヤ交換したりする手間は必要はない。

 テトラ・オートモーティブは宇宙開発大手プラネット・オーガナイゼーションの傘下企業として彗星のごとく現れるなり、瞬く間に業界の常識を覆した。七年前に弱冠二十七歳にしてテトラ社を共同創業し、現在もCEOを務めて同社を率いるアーロン・プラネットは、五年前のウェブ媒体のインタビューでこう話している。

「僕はクルマというものは単なる移動手段として使われるだけではその価値の数パーセントしか活かせていないと思っています。クルマの本質はそこではありません。人々の足であると同時に心臓であり血液であり、あるいは脳であり意思であるわけです。その事実に直面したとき、我々はこう考えました。それならば運転をする必要もタイヤがある必要も燃料を入れる必要もないのでは? そこで生み出されたのが地球そのものの磁場を利用した完全オートパイロットの磁気浮上式ホバリングビークルという提案でした」

 アーロンは同年、テンペスト誌の〈時代を変える三十歳以下の起業家ランキング〉で堂々一位を飾ったが、それをきっかけに加熱し始めたマスコミからの強行な取材依頼を嫌い、いっさいを断るようになった。そのため現在はテトラ社から話を聞きたければ広報担当者からのリリースを待つほかない。年に数回しか投稿されないフォロワー四千万人を超えるアーロンのSNSにはその時期こう発言されている。

〈語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。──ウィトゲンシュタイン〉

 こういった謎めいた一面が余計に彼のカリスマ性を高めているのかもしれない。テトラ・オートモーティブの登場以来、次々に若手起業家が地磁気ビークル業界に参入し始めた。彼らは各ビジネス誌のインタビューで「なぜいまクルマなのか?」という記者からの紋切り型の質問に口を揃えてこう答える。

「なぜなら、アーロン・プラネット氏のビジョンに感銘を受けたからです」

 とはいえ地磁気ホバリングビークルという発想はアーロンが考え出したアイディアではなかった。アーロンは長年クルマ業界に革命を起こしたいと思ってはいたが、その突破口をなかなか見出せないでいた。そんな折に救世主的に現れたのがアール・フレンテだった。アールはアーロンよりも三歳若いが、十代の頃から軍事ソフトウェア企業OMCASのCTOを務めているアッパークラスエンジニアだ。のちに技術相談役として共同創業することになるアールとの奇跡的な出会いがなければ、アーロンはそのままずるずると決まりきった日々を消化してしまっていたことだろう。

 八年前のその日、アーロンは父アーサーの経営するプラネット・オーガナイゼーション主催のビジネスミーティングにプラネット社の幹部として参加した。将来的にプラネット社の代表を父から譲り受ける道は暗黙裡に約束されているようなものだったが、アーロンは自分の会社は自らの手で起こしたいという野望を抱いていた。そのミーティングにテクニカルアドバイザーとして呼ばれていたのがアール・フレンテだった。

 アーロンはアールの口から紡ぎ出される言葉の数々に衝撃を受けた。こんな天才が世の中には存在するのか。アーロンはすぐにアール・フレンテの魅力に夢中になり、ミーティングが終わるなり帰ろうとしていたアールを引き止めて自分が思い描く将来の展望について彼に怒涛の勢いで打ち明けた。その圧にアールは若干仰け反ったものの、興味深い話ではあったので彼に協力することを快諾した。それから一年に渡る綿密な計画を経て、アーロンとアールはテトラ・オートモーティブを共同創業するに至ったわけだ。

 天気がいい日は朝五時からブロックフォートビーチで波に乗ってから出勤するのがアーロンの日課だった。助手席に座っている同じくサーフィンを趣味とする妹のステラがアール・フレンテとエレメンタリースクール時代の学友だったと知ったのはテトラ・オートモーティブを創業してからしばらく経ってからだが、アールは十歳のときに飛び級でロングフィールド工科大学にスカウトされ、十四歳にして同大学院で情報工学の博士号を取得したギフテッドであり、彼女とアールが席を共にした期間はそれほど長かったわけではないので無理もない。

 ステラは七年前にハイスクール時代のクラスメイトだったモーリィ・シャインと結婚し、六年前の二十五歳のときに第一子のオーウェンが誕生、さらに二年前に長女のエロイーズを出産した。ベビーシッターを雇っているので現在はプラネット・オーガナイゼーションの経理担当として復職して父の仕事を手伝っており、夫モーリィも同社の幹部として名を連ねている。

「今日の波は最高だったわね」

 ナチュラルブロンドにビビッドなピンクのインナーカラーが覗くショートヘア。化粧を終えて首筋にポワティエの香水をふったステラがレンズの大きなイル・ヴィオラのサングラスをかけながら言った。妊娠中から出産後しばらくはサーフィンを控えていたので、半年ほど前から再開したステラはこの生活を満喫している。

 モーリィはいくら誘ってもサーフィンをしようとしないので、行くときはもっぱら兄と一緒だった。ステラの当時のボーイフレンドのジャスティンとアーロンはサーフィン仲間であり、彼らに教わりながら十代後半から始めた。波乗りのキャリアは産休期間を除いてもかれこれ十年ほどになるが、ベテランと自負するにはサーフィンというものはまだまだ奥が深かった。

「悪くないカットバックだった。勘が戻ってきたか?」

「ええ、身体が思い出してきたみたい」

 プラネット社の前でステラを降ろし、アーロンは八マイル離れた場所にあるテトラ・オートモーティブ本社に向かった。ビークルをテトラ社の地下駐車場に停め車内から降りると、同じ時間に出社してきた広報部署のリサキ・タバタが話しかけてくる。

「あらアーロン、犬でも飼い始めたの?」

 そう言ってアーロンのジャケットの肩から茶色い毛くずを取るリサキ。アジア訛りのエキゾチックなアクセント。左側頭部を刈り上げ、丁寧にメンテナンスの行き届いた艶のいい黒髪をアシンメトリーに右側だけ腰まで長く伸ばしている。縁のないシャープなメガネをかけ、それでいて小柄な身長というギャップが男たちを放っておかないが、左耳にだけ少なくとも七箇所はつけているピアスから察するに、彼女はありきたりな男など眼中にはないようだ。学生時代は髪をコーンロウに編んでロックダンスやヒップホップダンスに明け暮れていたというが、いまはそんなにアクティブなタイプには見えない。

「ありがとう。そうなんだ、先週末から柴犬を飼い始めてね」

「シバイヌ? 確か日本の犬種だったかしら?」

「うん、ふわふわで表情が愛くるしいんだ。君もよく知ってるだろ?」

「日系ではあるけど私は外交官の父の仕事の都合で台湾で生まれ育ったから残念ながら日本のカルチャーはあまり知らないわ。要するに犬なんて飼い始めたってことはあなたまだしばらく結婚なんてしないわね」

「まあね。とにかくちょっと俺のテツローを見てやってくれよ、かーわいいんだよこれが」

 アーロンは指を弾いてリサキの目の前にプロジェクションスクリーンを表示する。スクリーンのなかで脚の短い元気な子犬が舌を出して尻尾を振りながら、転がっていくちくわのクッションを追いかけている。ちくわに追いつくたびに自分でまたちくわを蹴ってしまい、またちくわを追いかけていく。

「ふーん、確かに可愛いけど」

「ちくわの色が自分に似てるからお友達だと思ってるみたいだろ?」

「犬もさすがにそこまでバカじゃないでしょ」

「テツロー・ワツジは知ってる? 日本の偉大な倫理学者の。彼の名前から拝借して命名したんだ」

「日本思想はキタロー・ニシダの『善の研究』ぐらいしか読んでいないわ」

「それが読めてりゃ充分だよ」

 二人が虹彩認証をクリアしてフロアに入ると、ハウスキーパー・ドロイドがお辞儀をしながら挨拶をする。

「グッドモーニング、サー。ハブアナイスデイ、ミスタープラネット」

「ありがとう。きみもね」

 アーロンの言葉に、ドロイドは太い円筒状の胴体の上に乗った半球状の頭部を半回転させながらピコピコ音を鳴らして光らせる。これは〈嬉しい〉というリアクション。

「彼って私には挨拶してくれないのよね、あなたと出社するといつも」

 不満そうなリサキ。このドロイドはプラネット・オーガナイゼーションが小惑星の地殻探査用に製造した試作品を譲り受けたもので、言語でのコミュニケーションもある程度は可能。いまやテトラ社の社員たちのマスコット的存在だ。フロアを吸引清掃して胴体内部にゴミが溜まるときちんと所定の場所に捨てに行き、上階へも自ら昇降ステップに乗って移動することができるので、すべてのフロアをひとりで周って社内を清潔に保ってくれている。そして何より、移動しながら自己給電しているので充電が切れて途中で停止するといった心配がない。

「まあ、好きな子には冷たくする小学生男子だと思えば可愛いもんだろ? シャイボーイな彼はきっときみのことが好きなのさ」

「あなたのそのポジティブな発想、見習いたいものだわ」

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