第三話

 ランドセルを背負せおって通学しようという矢先やさきだった。作業服さぎょうふくを着て通勤つうきんする例の男に出会った。となりの部屋に住むいややつ。たびたび怒声どせいを飛ばす。自分達が住む一〇四号室のアパートのドアを閉めかぎをかけた瞬間しゅんかん出来事できごとだった。


 「九鬼くきさん」


 そう、この男は小学生の僕に向かってわざわざ「さん」を付けて来る。


 「あ、佐川さがわさん。おはようございます」


 (佐川康夫だ。またか)


 「君の家から奇声きせいが聞こえなくなったね。君の親はうるさいんだよね。ここアパートだからさ、静かにしてほしいんだよね」


 よくかべドンしながら「うるせえ!」という左の部屋の隣人だった。


 そう、自分の親……九鬼洋介きくようすけはブラック企業で体も心も壊れたのだ。母親は離婚りこんしてもういない。だから自分はヤングケアラーになったのだ。


(ん? 奇声きせいが聞こえなくなった? どういうことだ? 親の奇声きせいは普通に昨日きのうも出てたではないか。あれはえられない。病気だと分かっていても)



 家に帰るといつも通り……令一れいいちがいた。


 「おかえり」


 「ただいま」


 「そうそう。朝の一部始終いしぶしじゅうをこっそり見たよ。実はこの家に呪文じゅもんをかけてね。ある程度の音なら吸収きゅうしゅうするよ。だから音迷惑おとめいわくけんなら気にするな」


 (すごい!)


 「どうせ……隣近所となりきんじょ文句もんくを言われてたりしてたんだろ? 俺も人間の姿になった時にやつから嫌味いやみを言われたぜ。もちろんやつの心の中の声もいたけどな。小物こものだ。気にするな。それにやつもブラック企業につとめる被害者側ひがいしゃがわだしな」


 「ありがとう……」


 「まだまだだよ。ところでランドセルの中身見せて?」


 「えっ? それは……」


 「一応、俺は君の保護者ほごしゃだしな」


 ランドセルから出てきたのは無惨むざんな点数の定期テストだった。


 「このままだと、君は中学時代に落ちこぼれるよ……。君、人生の破滅はめつフラグがもう立ってるよ」


 「……」


 「家事で忙しくて勉強に出来なかったんだろ?」


 「そう……」


 「そういう奴が点数を上げるのにはどうすればいいと思う?」


 「分からないよ」


 「面倒めんどうを見てあげる。そして勉強で一番大事なのは知的好奇心ちてきこうきしんだ。嫌々いやいややったって頭に入ってこれないもんな。国語、理科、社会、算数。この中で最も知的好奇心ちてきこうきしんの広がりを見せるのは『社会』。それも地理分野だ」


 「え?」


 (みんな算数と国語が大事と言ってるからびっくりだ!)


 「まず地理分野を勉強してみな? 例えば「京浜工業地帯けいひんこうぎょうちたいのコンビナートで作られているものとは?」とか。なんでこの辺の地帯ちたいは火山が多いのか? 地質ちしつも調べられる。だから社会科をきわめると理科にも興味を持てる。社会科の歴史分野に興味持ったら国語の古文こぶんにも興味持てるし近代文学きんだいぶんがくにも興味きょうみを持てる。全部社会科でながるんだ。間違っても算数じゃないよ。君みたいな落ちこぼれの重要科目は」


 (すごい。先生よりも的確な指示を出すじゃないか、この天邪鬼は!)


 「人と真逆の事を教えるのが天邪鬼の極意ごくいだし……な! それで僕は人間に化けても怪しまれないんだしね。しかも政治経済分野せいじけいざいぶんやも社会科だしな。だから天邪鬼族あまのじゃくぞくはこの世界であやしまれないように特に社会科を鬼界きかいの学校で叩き込まれてから送り込まれるんだ」


 (そうだ! 法律ほうりつ経済活動けいざいかつどうも全部教科の範囲は社会科じゃないか!)


 「算数は?」


 「この教科ばかりは鬼界きかいで教えてもらうしかねえな。小数点の計算とかはともかく直方体の面積の計算とか……。英語は大丈夫。まだこのレベルなら余裕よゆうだ」


 まだ小学四年が習う英語は"Do you like sushi?"レベルだったのでどうにかなりそうだ。


が……。


 「僕……計算は……その……全部……電卓でんたくかPCのソフトに計算してもらってる。困った。どうしよう?」


 おにも必死に解いてみる。が、同じ十歳児じゅっさいじ。何でもできるわけではないのだ。

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