第27話 まるで、夢や恋と勘違いしちゃうような、そんな時間だったんだよ。
幾ばくかの日が過ぎて、僅かに残っていた冬の面影も完璧に消え去り、季節が移り変わる。
窓の外から桜が咲き誇る姿がよく見える、春の日だった。卒業式を終えて、担任の教師から卒業証書を受け取った。
「それじゃ、また後でね、市川さん、都賀くん」
「俺らも後から合流するから」
「あ、正志先輩、卒業と大学合格プレゼント、何がいいですか? 私、私がいいですか?」
「ちょ、ちょ、しっ、酒々井さんっ……?」
「都賀先輩―市川先輩―、私たちも後から行くのでー、では、さよならー」
ホームルームが終わってからも、六人で取り留めのない話を教室でした僕らは、夜にまた会う約束を取りつけてそれぞれ一旦家路へとつくため散り散りになっていた。
僕と、笑菜を除いて。
「……終わっちゃったねー、高校生」
「そうだね」
笑菜は、机に座った足をプラプラと揺らすと、「よいしょっと」と言いながらトテトテと教壇に上がり、チョークを手に取った。
「つがゆうは、この高校生活、楽しかった?」
「……楽しかったよ。色々あったけど」
ほんと、一言二言で言い表せないほど、たくさんのことがあった。
「……そっか。それなら、よかった」
彼女の指先から、コツコツという小気味いい音とともに、何かが描かれ始める。
「……それだけでも、意味はあったよ」
「笑菜……?」
「つがゆうはさ、これからどうするの? 私はさ、まだなーんにも決まってないんだけどさ」
「……これからって言ったって」
僕は、現実に帰ったら死んでいるんだ。これからもへったくれもない。
笑菜の調子のいい声音も、あるいはもう聞くことができなくなるんだし。
「私はね? これからもこうやってのんびり絵とか漫画描いてね? たまにこんな木漏れ日の下で日向ぼっこなんかできたら、それはそれでいいかなあって。これから先のことは、自分では決められないんだし」
「……ん?」
彼女の言葉に、ひとつの違和感を抱く。
「それで? つがゆうはどうするの?」
「ど、どうするって……。この世界でのこれからを言っているんだったら、僕だって何も決まってないし」
「ううん、そうじゃないよつがゆう」
途中で僕を遮った笑菜は、一度チョークを動かす手を止め、ゆっくり振り返って僕の顔をまじまじと見つめながら大事そうに口にする。
「……現実に戻ってからの、これからだよ」
「……何言っているの。だって、僕はもう」
「つがゆう。ずっと勘違いしていたみたいだけど、ここは天国じゃないよ?」
「……は?」
嫌なノイズが、頭のなかを駆けた。柔らかな風景にひとつだけ滲む、灰色か。
「天国じゃなければ、地獄でもないし、ましてや死後の世界なんかでもない。……ただの、市川笑菜が──菅田ゆすくが、描いた漫画の世界」
ポタリ、ポタリと、絵の具を落とすように、そのくすんだ色は広がっていく。
「どういうこと? 僕は、階段から落ちて死んだんじゃ」
「……死んでないよ。つがゆうは、死んでない。現実の世界で、もうすぐ目を覚ますよ」
意味がわからなかった。ここまでの僕の理解をひっくり返されるような、そんな感覚だ。じゃあ、どうして僕はここに連れてこられたんだ。どんな意味があって、笑菜の漫画の手伝いをしたんだ。頭がくらくらしてしまう。
「……だからもう、タイムオーバーなんだ。つがゆう。卒業式が終われば、きっと、つがゆうはここからいなくなって、いるべき場所へと戻っちゃう」
それにタイムオーバーって。何だよ、まるで僕が何もしなくても今日この日まで過ごせば現実に戻れたみたいな言い草は。だとしたら、笑菜は僕を騙していたことになる。
百歩譲ってそれはいい。どちらにせよ、現実に戻れるのだから。それはいいとして、
「なんで……そんな寂しそうな顔しているんだよ、笑菜は。笑菜だって、現実に戻るんだろ? それが、本来あるべきことなんだよね? いいことのはずじゃん、それなのにどうして」
一体どうして、こんなに笑菜は辛そうに笑っているんだ。
滅多に出さない怒気を含んだ声で、彼女は呟いた。
「……全然良くない。良くないよつがゆう。……このままじゃ、このままじゃ駄目なんだよ」
「……このままじゃ、駄目って……何が。何か、やり残したことがあるの?」
「このままじゃ、つがゆうは前に進めない!」
僕が、前に進めないことが、やり残したこと……? 本当に何が言いたいんだ、笑菜は。今この瞬間、僕のことなんて関係ないじゃないか。
「僕も、笑菜も、漫画の登場人物じゃない。なら、僕らがどうなろうが、究極的には笑菜のお願いとは関係ないんじゃないの?」
瞬間、笑菜は息を呑んでは、手にしていたチョークに力を込める。おかげで、黒板の下、折れたチョークの破片が舞い落ちる。
困り果てた様子の笑菜は、萎れた声で呟く。
「……つがゆう。つがゆうは、どうしても、私のお願い聞いてくれないの?」
声が、潤んでいた。滅多なことで泣かない笑菜が、声を濡らしていた。
「……聞くも何も、さっきから言ってることがわからないんだよ。なあ、どうしたんだよ笑菜。さっきからおかしいよ。別に、今日が最後ってわけじゃ──」
「──さいごなんだよっ! さいごだからっ! さいごだからっ、私は必死なんだよ……! ねえつがゆう、おかしいと思わなかった? わたしがボツにした漫画って。つがゆうをこの世界に引き込むほど思い入れのある作品なら、人に相談するなりなんなりして、完成させればいいって思わなかった?」
「……は?」
さいご……? さいごって、どういう──
「だってそうでしょ? わざわざこんな回りくどいことしなくても、わたしの周りにだったら、手伝ってくれる人はいくらでもいる。筆を折った、つがゆうじゃなくてもっ」
確かに初めて聞いたときは思った。笑菜の言うように、そこまで大事にしたい作品なのなら、手段はいくらでもあったはず。
「……つがゆう。ごめんね、私、嘘をついてた。この漫画はね? ボツなんかにしてない」
「ボツにしてない? でも、この漫画、読み切りだってネットにだってアップしてないでしょ? どういうこと?」
僕が絡んでいた高校から大学初期も、ひとりで活動するようになった大学後半も、こんな漫画に見覚えはなかった。
「……いいなあ、わたし。わたしの漫画、全部読んでくれていたからこそのリアクションだよね、つがゆう」
何だ、この強烈な違和感は。何か、何かがおかしい。笑菜は何を言いたいんだ。
なんで、そんな他人事のように言うんだ。
同一人物だよな? 笑菜の言う「私」って。
その僕の疑問は、次の言葉で、解決へと導かれた。
「つがゆう、言ったよ? 私。私は心も体もピチピチの十七歳だよって。……明日で、十八歳だけど」
心も、体も……? こ、心も……?
砂時計が巻き戻るように、今までの意味深だった笑菜のひとりごとが、収束していく。
「この漫画は、私が描いたものじゃない。私は、つがゆうが知っている市川笑菜じゃない。……この漫画はね、つがゆう。つがゆうの人生をめちゃくちゃに狂わせた市川笑菜が、人生最後に描いた漫画」
人生、最後に描いた……漫画。
待て。待って。
それじゃあ、完結してないってことは。ボツにしてないってことは。それって、つまりは。
「……死んだのは、わたしだったんだよ。つがゆう」
きっと恐らく、一番聞きたくなかった事実を、僕は告げられた。目の前が、色づいていた景色が、モノトーンに変わる。
「……だからね? つがゆう。現実世界に戻っても、もうわたしは生きてない。……もともと、最後のクリスマスのつもりだったんだ。長くないって、知らされていたから。だから、無理言って外出許可取って、久しぶりの外の世界にはしゃいで。……階段から落ちたとか関係なく、きっとわたしは、力尽きる運命だったんだ」
「ちょっと待ってよ、笑菜。急に話されてもっ」
「……つがゆうが意識を失っている間にね? ああ、最初っから最後まで、つがゆうに迷惑かけたんだなあ、私って、思ったんだよ?」
「め、迷惑って」
「……だってさ。わたしが声掛けなかったら、つがゆう、漫研入らなかったよね? わたしが誘わなかったらさ、原作って形で私と一緒に活動なんてしなかったよね? ……大学生のとき、つがゆうわたしに言ったよ。『こうなるんだったら、笑菜と出会わなければよかった』って。それ言われて、初めて、もしかして、つがゆうの人生おかしくさせたかもしれないって思って」
止まることなく伝えられる、笑菜の思いの丈。
「……わたしの我儘のせいで、つがゆうは大学を一年休学して五年生までやることになったし、やりたいことも見つからないって状況にさせた。全部。全部全部わたしがいなければ、こんなことにならなかった……!」
「僕は……そんなこと思ったこと」
「……つがゆうはそう言ってくれるかもしれないけど。……でも、自分で自分が許せないんだよ……。巻き込むだけ巻き込んで、自分だけいい思いして、……それでいて、先に死ぬんだよ? 勝手すぎると思わない? きっとつがゆうに一生足枷をはめさせることになる。だって実際そうでしょ? 今の今まで、つがゆうは私に罪悪感を抱いて生きていたよね?」
自分で自分を許せない。……まさか笑菜もそんな感情を抱いていたなんて、僕はつゆも知らなかった。
ああ、そうか。笑菜は僕を許したかったし、笑菜は僕に許して欲しかったんだ。
僕も、笑菜も。自分が許せなくて仕方なかったんだ。そして、僕にとっての笑菜の許しの証も、笑菜にとっての僕の許しの証も、同じもので。
それは、僕がもう一度筆を執ることに他ならなくて。
「……だから、わたしはこの漫画を描いた。……つがゆうが一番やりたかったことは、やっぱり創作だと思ったから」
「……この漫画そのものが、僕に向けたものだった、と」
「……うん。絶対に完結はさせられないって思ってたけど、まさかこういう展開になるなんて、わたしもビックリしただろうね」
黒板に描き進められる絵は着々と形になっていく。あっという間にチョークを一本使い切った笑菜は、次のチョークに手を伸ばす。
「こんなチャンス、二度とないって思った。もう一度、つがゆうに楽しい高校生活を送ってもらって、やりたいことを取り返してもらって、現実に帰ってくれたら、私の役目は終わりだった。……でも、つがゆうはなかなか首を縦に振ってくれない。このままじゃ……終われないんだよ。終われないんだよ、つがゆう」
少しずつ、頑なに守ってきた決意が、絆されていく。
「……確かに大学生のあの日、つがゆうもわたしに酷いこと言ったかもしれない。でもっ、わたしだって私だってそれ以上につがゆうのこと振り回した。それに、もうつがゆうは十分過ぎるくらいわたしにあの日のことを償った。いいんだよ、責任感じなくて。傷つけあってなんぼじゃん、人間なんて! 初芽ちゃんと榎戸君、小春ちゃんと小岩君も、そうだったでしょ? つがゆうがそうさせたんでしょ?」
何重にもかけた僕の凍った心の南京錠を、溶かすように笑菜は外していく。
「……もう、許してあげてよ、自分のこと。人にちゃんと向き合うのも、誰かを諦めないことも、全部つがゆうが教えてくれたことでしょ?」
むき出しになった心を、優しく触れていく笑菜。
ああ、なんかこう、胸の奥が温かく震える、心地よい感覚が走る。
「……つがゆうの、おかげなんだよ? つがゆうのおかげで、わたしに、わたしの描く絵に、命が吹きこまれていった。他の誰かじゃだめ。つがゆうじゃないと、いけなかった。つがゆうの描く、人もお話も好きだから」
溶けたのは鍵だけじゃなくて、凍った心そのものみたいで。ポロポロと、何かが零れていく実感がした。
「初芽ちゃんや榎戸君、小春ちゃんに小岩君。この漫画だけじゃない。今まで一緒に作った漫画だってそう。私だけじゃ、ただの絵だった。その絵を、生かしてくれた、命にしてくれたのは、つがゆうだったんだよ」
カラ、と乾いた音を立てて、笑菜はチョークをチョーク受けに置くと、ゆっくりと僕の正面に歩み寄る。
「……つがゆうと初めて出会って、初めてつがゆうの小説読んだとき、こんな暖かいお話作れる人がいるんだって、思ったんだ。わたしに、足りないもの全部が、詰まっていたんだ。つがゆうのお話のおかげで、まだ生きたい、生きてこのお話に絵を当てたいって思えたんだ」
そして、左手の指で僕の瞳に触れては、零れた涙をそっと掬う。
「……ほら、泣いちゃうくらい、創りたかったんだよね? いいんだよ、やりたいことやって。つがゆう」
「ちっ、ちがっ。別にそれで泣いているわけじゃっ」
最後まで強がる僕に、笑菜はそっと口元を緩め、穏やかな笑みを見せ、一歩横によける。
瞬間。一枚だけ開いていた窓から強い風が吹き込んで来たと思えば、敷地内に咲き誇っていた桜が吹雪みたいに教室に舞い込んだ。
「っ……!」
視界に入ったのは、黒板に描かれていた笑菜の一枚の絵。それは、僕と笑菜が初めて出会ったきっかけの、漫画の一コマ。両脇に咲き誇る桜の花弁に、風に揺らめく少女の髪とスカート。振り向きざまに浮かんでいるのは、風に散りゆく桜が溶けた頬で笑う、
市川笑菜の、あの、包み込むような笑顔そのもので。
僕には、その一部分だけ、色が戻ったように輝いた。
「……ねえ、つがゆう。言ったよね? わたしのこと、一生幸せにしてくださいっ。って」
「それは、笑菜が勝手にっ……」
「つがゆうと過ごせた八年は、まるで、夢や恋と勘違いしちゃうような、そんな時間だったんだよ。……陽の沈む、今際の際に、わたしはそんな時間をつがゆうから貰った」
「やめっ……」
陽の沈む今際の際なんて言われたら、否応にも理解しないといけなくなるじゃないか。
君が、もう死んでしまっていることを。
「でもね。わたしとつがゆうの八年は、夢や恋だなんて単純な言葉じゃ言い表せない。『好き』なんて言葉じゃ、つがゆうへの感情は足りないんだよ」
溶けた心が、舞い散る桜と混ざり合う。混ざって、かき回されて、完全に傾きを、ひっくり返した。
「敢えて、その感情を言葉にするなら、ね? ……私の幸せは、つがゆうの幸せだから。だから──つがゆうも、自分に命を吹き込んであげて」
「っああ……、あああ」
声にならない声をあげる僕。僕のこの反応を見て、ようやくスッキリした顔になった笑菜は、にたび僕の正面に立った。
「……ありがとう。わたしと出会ってくれて。ありがとう。私の願いを、聞いてくれて。あとは、ね?」
そこまで言うと、笑菜は踵を浮かせ、僕の耳元に口を近づけ囁く。
「つがゆうが、やりたいように、やっていいから」
かと思えば、笑顔のまま唇を僕の頬に近寄せては、温かい感触を、走らせた。次のとき、驚いたのかわからないけど、思い切りよろめいた僕は、背中から床に倒れ込んでしまう。
「……タイム、アップだよ。つがゆう」
「っ、まっ──」
クリスマスのときとは逆の落ちかたで、笑菜に伸ばした手は空を切り、そのまま僕の意識は八年ともに過ごした笑顔に見守られながら沈んでいった。
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