第25話 ……ごめんね。ここまで、付き合わせちゃって

 そうやって、僕と笑菜は共同で漫画を描くようになった。原作は僕、作画は笑菜、この割り振りで。そうと決まると、これまでの一か月が嘘みたいに、さらに濃密な時間を笑菜と過ごすようになった。


 週四の部活動では企画立てからプロット作り、キャラデザ周りだったり舞台設定だったり、ああでもないこうでもないと話し合って、それでも時間が足りないってなれば平日の放課後部活終わり、果ては土日に互いの家に上がり込んで夜通し企画会議をしたこともあった。


 別に、同人誌を作って即売会に出す、とかネットの漫画投稿サイトでランキング入りを目指す、とか具体的な目標を共有したわけではない。ただ、近いところにある締め切りの新人賞に出してみよう、SNSに上げてみよう、それくらい。だから、特段急ぐ理由なんて僕にも笑菜にもなかったはずなんだけど、それでも笑菜は時間の許す限りを僕との漫画に費やした。


 企画の段階でこれなんだから、いざ執筆、というところに入ると熱の入れようは比べようがないくらいになって、授業が終わった放課後、部室で笑菜の顔を見ると口元によだれの跡が残っていることもしばしばだった。これで僕と成績がほとんど同じくらいだと言うのだから、釈然としないところはあったけど。


 新人賞の締め切りも近づく頃合いになると、どうしたって作業が残るのは作画の笑菜になるから、その作業を僕も手伝うことも起きた。しかし、こと美術になると絶望的なまでに使いものにならない僕ができたことと言えば、


「わああ、つがゆう、トーン貼る位置おかしくなってるよっ、あと、こっちはこっちでキャラに恨みでもあるのってくらいベタがはみ出てるしっ」

 消しゴムかけと、なんとか許容範囲になるまで上手くできるように頑張ったベタ塗りくらい。それでも、笑菜が複雑そうな顔で出来上がった原稿用紙を受け取る割合がほとんどだったけど。


 そんな修羅場を潜り抜けて、なんとか完成させた漫画をポストに投函した日の朝なんか、言いようのない疲労感と、充実感に満ちていた。

 そんなことを繰り返していれば、いつしか友達と呼ぶには不足があるくらいの関係にまでなっていた。その証拠というにはいささか自意識が過剰かもしれないけど、彼女が週一で通院していることも聞かされたし、いつも服用している薬のことも僕には隠さなくなった。


 笑菜を一度でも異性として見なかったかと聞かれれば、そんなことはない。寝落ちした笑菜の柔肌が服の隙間から覗いたこともあったし、笑菜の距離感近い行動のひとつひとつにドギマギさせられることもあった。

 けど、この感情を果たして恋と呼べるのかどうかは、僕にはわからなかった。これが単なる友達の延長線上なのか、修羅場を共に乗り越えた戦友としてのものなのか。

 その答えも、そのうちわかるのだろう。僕は、呑気に解答を後回しにしていた。そのツケは、笑菜と同じ大学に進学した春に払うことになった。


 転機は、大学一年の春のことだった。高校でも同じように、大学生になってからも創作活動を続けるつもりでいた僕たちだったけど、ある日のお昼、学食でご飯を食べているときだった。


「つがゆうつがゆうつがゆうっ! たたた大変だよっ!」

 ひとりすする胡椒まみれのラーメンのしょっぱさに顔をしかめていると、興奮冷めやらぬ、といった様子の笑菜が、スマホ片手に僕の隣の席に飛び込んできた。

「……ど、どうかしたの? そんな慌てて」

 二限を一緒に受けていた笑菜は、「お花を摘んでくるから先行っててー」って言っていたのだけど、その間に何かあったのか。


「へっ、編集さんから、一度編集部に来ませんかって!」

「……へ? 編集さんって、あの編集さん?」

「そっ、そうみたいっ。この間ちょろっとネットに流した原稿あったでしょ? それ読んでちょっと興味持ってくれたみたいでっ」


 途端、食べているラーメンの、味を感じなくなってしまったんだ。

 ……あれ? なんで。嬉しいことのはずなのに、どうして。

「す、凄いじゃん笑菜、もしかしたらワンチャンあるんじゃないの?」

 どうして、心の底から喜べないんだ?

 笑菜が努力していうのも、それに伴って出会った頃よりも格段に漫画が上手に、それに面白くなってきているのは僕が一番わかっているだろ?


 それなのに、どうして。

「そうかなあ、ワンチャンあるかなあ」

 こんな、醜い気持ちを、僕は抱き始めてしまっているんだ。

 間違いなく、この出来事が、ひとつの転換点になった。


 それ以降、笑菜は定期的に出版社の編集部に行っては、自分が描いた漫画へのアドバイスを受けていた。

 客観的に見て、喜ばしいことだった。僕だって、表向きにはポジティブな反応を示していた。

 けど、どんなに頑張って自分を誤魔化そうとしたって、嫉妬に渦巻いた灰色の感情は次第にその影を大きくさせる。


 笑菜の漫画原作をやっている間だって、小説を書かなかったわけじゃない。年に何本か新しい小説を書いて、それを公募に出していたりもした。けど、笑菜と違って僕に結果は出なかった。笑えないくらい、惨敗だった。

 いや、薄々気づいてはいたんだ。

 僕と笑菜は、違う世界の住人なんじゃないかって。

 それは、初めて会ったとき、拾い上げた漫画の一ページからも歴然で。そのときから、笑菜はたった一枚の自分の絵で誰かを魅了することができる才能が見えていたんだ。


 才能。誰かと比べるときにこの単語を用いた時点で、僕は僕に負けたことが決まったんだ。

 そうなってしまえば後はシンプルだった。膨れ上がった風船が萎んでいくように僕の創作意欲は衰えていき、ほぼ毎日顔を合わせていた笑菜とも会わなくなる日が少しずつ増えていった。


 あらかじめ言っておく。笑菜は何ひとつ悪いことなんてしていない。僕が創作畑にいるべき人間じゃなかった、それだけの話。

 そんな状況になってしまえば、とても笑菜を恋愛対象として見られるはずもなく。それどころか、笑菜の笑顔や、彼女の描く絵すら、まともに見られなくなっていってしまった。


 自分で自分が怖かった。嫉妬で狂ってしまいそうになる、いや、もう狂っていたのかもしれない僕が。

 笑菜と顔を合わせないためだけに、授業もサボりがちになり、単位も満足に取れなくなって、あわや留年ってところまで転げ落ちた二年の夏。事件は起きた。


 それは、僕だけが履修している六限の一般教養の授業を受け終わった後のことだった。出席カードを書いて教授に提出し教室を出て、いつものように足早に駅へ向かおうとすると、

「つがゆう」

 息を切らせた笑菜が、僕のことを呼び止めた。


「……なんで大学いるの? 今日は編集さんと打ち合わせだったんじゃ。読み切り、そろそろなんでしょ?」

「終わってすぐ大学戻ってきたんだよ。つがゆう聞いたよ、単位やばいって。私と履修被っている授業も全然来ないし、何かあったの? 最近一緒にする企画にも乗り気じゃなさそうだし」

 らしくなく、真面目な口調で僕に問い詰める。いや、きっとこれも本性なんだ。

 だって、笑菜は友達想いなんだから。


「……たまたま寝坊したり、体調悪かっただけだよ。大丈夫、秋学期には単位取り返すからさ。留年はしないよ」

「……前期の半分以上、たまたまで授業休むの?」

「運がなかったみたいだね。休む日がずれていたら四単位くらい取れていたかもしれないのに」

「誤魔化さないでよっ。……大学入ってからのつがゆう、何か、おかしいよっ」

 友達想いの彼女は、唇を噛みしめながら、辛そうに声を振り絞ってさらに僕に詰め寄る。


「……僕は普通だよ。至って普通。気にしすぎだよ、笑菜」

 こう話している間も、濁った感情が僕に立ち込めてくる。

「っ、そ、そんなわけないっ。五年も一緒にいればわかるよっ」

 笑菜は僕の肩口に頭をコツンとぶつけ、さらには胸をポンポンと右手で軽く叩き始めた。


「……何か、何かあったなら言ってよ。私、普段は適当だけどさ、困っているなら話くらいはちゃんと聞くよ……。何も言わずに、おかしくなるなんて酷いよ……。私は、つがゆうの描く優しい話が好きだったのにっ……」

 この想いを、素直に受け取ることができたなら、また違う現在があったのかもしれない。僕が筆を折ることもなかったのかもしれない。

 けど、やっぱりこのときの僕は狂っていた。いかにして笑菜と距離を取るべきなのか、どうやったら彼女に嫌われるのか、そんなことばかりが思考回路を駆け巡っていた。


「……勝手に期待されても困るんだよ」

「ふぇ……?」

「僕はあくまで笑菜に頼まれて原作を当てていただけだった。僕から描きたいなんて言った覚えはない」

「……つ、つがゆう?」

「……それに、僕はもう用済みなんだろ?」

「え? な、何言っているのつがゆう。用済みってどういう」

「僕を利用するだけ利用して、プロになれそうになったら自分だけ行くつもりだったんだろ」

 リミッターが外れてしまえば、次々と彼女を傷つける最低な言葉が僕の口を衝いた。


「そっ、そんなつもりじゃ、私はつがゆうと一緒に漫画を作れるなら作りたいって」

「でも僕の原作じゃ面白くないんだろ⁉」

 逆ギレだった。こんなのクレーマーと何ひとつ変わらない。

「……使い終わった駒は見捨てていけよ。何善人ぶって助けようとしているんだよ」

「違っ、そんな、つがゆうを駒だなんて思ったこと一度も」

「こっちが惨めになるんだよ! 笑菜の顔や絵を見る度に、僕がいかに無価値かって思い知らされる! そんな想いたくさんなんだよもう!」

「つっ、つがゆうは無価値なんかじゃ」


 どこまでも笑菜はブレなかった。最後までこの救いようのないクズを信じてくれていた。怒声をあげる僕を怖がりながらだけど、なんとか闇に落ちた僕を救い上げようとしてくれていた。

「……こんなことになるんだったら、笑菜と出会わなければよかった」

 その救いの手を、僕は払いのけた。彼女の身体を突き放し、背を向けその場を後にした。


 笑菜の身体は、恐ろしいほど軽かった。恐らく、この辺りから彼女は無理を推して漫画を描いていたんだ。

 愚かな僕は、彼女の身体の異変に気づくはずもなかった。

 この出来事から、たった二週間後のことだった。

 笑菜が大学で倒れて、救急車で病院に緊急搬送されたのは。


 原因は、睡眠不足と栄養失調による貧血。それでも、週一で通院していた──つまり、持病を抱えている──笑菜にしてみれば、ただの貧血では済まされなかったみたいで。

『一週間、入院することになった』

 笑菜からは、そんなラインが僕に送られてきた。


 彼女が倒れる現場にも、救急車にも乗り合わせた僕は、すっかり頭が冷え切っていて、冷静になることができていた。だから、お見舞いに笑菜の病室を訪れたのだけど、

「……今更、どんな顔して会えって言うんだよ」

 直前にあんなにキレ散らかしたんだ。謝罪のひとつやふたつ、言わなきゃ収まらないだろう。


「……や、やっぱり帰ろう」

 病室の前で意気地がつかずに、回れ右をして帰ろうとした僕に、

「あら、都賀君じゃない、来てくれていたのね。入ってくれていいのに」

 もう何度顔を合わせたかわからない、笑菜の母親が病室から出てきては、そう話しかけた。


「えっ、あっ……は、はい……」

 まさかここまで来て違いますだなんて言えるはずもなく、僕は薬品の匂いが染み込んだ病室に足を踏み入れた。そこには、

「あっ、つがゆうやっと来てくれたー。もー、待ちくたびれちゃったよ」

 パジャマ姿の笑菜が、横になったままヒラヒラと手を振って僕を出迎えた。笑菜の母親は病室を後にして、今はふたりだけ。


 僕は、ベッドの横に置かれている丸椅子に浅く座り、謝罪の言葉を口にしようとする。でも、なんて言えばわからなかったし、そもそもここにいていいのかもわからない。

「……あのっ、ぼ、僕」

「ごめんねー、心配かけちゃって。ちょっと、色々根詰めすぎちゃってさ」

 だと言うのに、先に謝ったのは笑菜のほうだった。ニコニコとした相好を崩すことなく、彼女は自分が入院したことを詫びたんだ。


「え、あ」

「読み切りが好評だったら、本格的に連載も視野に入れて企画立てようってことになっていてね。今のうちから練っておこうって思ったら、止まらなくって」

 先に謝られてしまったことで、会話の主導権は完全に笑菜の手に収まった。

「そしたら、たった二週間で体がもたなくなっちゃったよ。あははー、高校生のときはもうちょいいけてたのになあ、やっぱり年って怖いねー」

 まるで他人事のように話していく笑菜。


「つがゆうは知っていると思うけどさ、私、週一で病院通っているでしょ? 小さいときから心臓がちょっと駄目でね、だから激しい運動もご法度だったし、中学生のときはそれが酷くて一年くらい入院もしてた。高校に上がってからは落ち着いていたし、これなら大丈夫かなーとか思ってたけど、やっぱ、甘かったかなあ」

 詰ってくれたら、どんなに楽だっただろう。理不尽でもいい、つがゆうのせいで入院することになった、でもいい。責めてくれたら、どんなに良かったか。なのに、


「……ごめんね。ここまで、付き合わせちゃって」

「へ?」

「私が知らないうちに、つがゆうのこと、追い詰めていたんだね」

「なっ、なにを」

「つがゆうの言う通りだよ。言い出したのは私、頼んだのも私。つがゆうがそれに付き合う義理なんてないのに、ここまで一緒に漫画作ってくれて、それに甘えてた」

 笑菜は、僕を責めることなんて一切せずに、ひたすら自分が悪いというように話をしていた。


「……つがゆうが、しんどいだけなら、もう、やめにしようか」

 真っすぐと、僕の顔を見つめたまま、

「一緒に漫画作るの、やめよう?」

 一生のお願いをしてまで始めて五年間組んだチームに、ピリオドを落とした。僕は、それを拒むこともしなければ、ただ小さく首を縦に振って、肯定の意思を示した。それを見た笑菜は満足そうに、されど少しだけ寂しそうに目を細めては、

「……なら、これからは普通の友達ね」

 恨めしいほど、澄み切った青空が広がる、一日だった。


 共同制作をやめてからというもの、それぞれがそれぞれのために活動をすることになった。退院した笑菜は目前まで来ている雑誌の連載の準備、僕は公募へ送る原稿の執筆と、以前よりふたりが関わり合う時間は激減した。せいぜい、授業とお昼を一緒に食べるくらい。

 かねての思い通り、笑菜から離れることに成功した僕だったけど、それでも一度衰えた創作意欲が戻ることはなかった。


 パソコンを目の前にしても、点滅するカーソルは一切動かないし、何もしなくてもあの日笑菜に浴びせた罵詈雑言が画面に映り出しては、僕の両手を縛りつけた。

 執筆ペースはみるみる遅くなって、やがて短編ひとつ書くことすらできなくなってしまった。

 僕が足踏みしている間に、笑菜は順調にステップアップを続けていた。一回掲載した読み切りがとても好評だったみたいで、晴れて笑菜は月刊誌に漫画を連載する作家としてのキャリアをスタートさせていた。

 もはや、嫉妬する気力すらなくなっていた。僕の性格が良くなったからじゃない。諦めたんだ。僕が、僕のことを。


 そうしてしまえば、今まさに第一線で戦っている笑菜のことを直視できる。

 心の奥底に濁りきった創作に関する感情を、南京錠で閉じ込めてしまえば、僕は笑菜の側にいられる。それが、僕が編み出した次の自己防衛の方法だった。

 筆を折ったことを笑菜に告げたのは、連載が軌道に乗り始めた四年の春頃のことだった。


「……そっか、そう、なんだね」

 笑菜は引き留めることはせず、ただただそう零して僕の判断を受け入れた。

 創作をやめた僕は、それからは勉学に励んだか、と言われるとそういうわけでもなく、ただただ取りこぼした分の単位を必死に回収することだけをしていた。


 でも、創作以外にやりたいことなんて基本なかった僕が、就活を真面目にやるはずもなくて、しかも単位を集めることに必死にならないとそもそも卒業も怪しいしで、そんな状態で卒論なんかまともに書けるわけもなく、あえなく半期休学して大学五年生をすることになった。

 笑菜は、そんなクズの僕とは違って、ちゃんと四年で卒業もしたし、連載だって順風満帆に進めていた。のに。

 彼女の身体は、ともすれば過酷な連載生活に、耐えきることができなかったんだ──


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