第24話 都賀だと短いし優作だとなんか長いなー、あっ、つがゆうとかどう?
***
僕と市川笑菜との出会いは、言ってしまえば偶然の重なりだった。
第一志望だった都立の高校に受かった春。入学式から数週間が過ぎたある日の放課後のこと。その日僕は、たまたま担任の教師の頼みで、職員室からノートを美術準備室に運び出すのを手伝わされていた。
「……帰宅部だからどうせ暇だろって、人使い荒いよ……先生」
せっせと階段を上って、人通りの少ない四階の廊下に出る。そこから校舎隅にある美術準備室の扉の前に。
陽が傾いて、床に伸びる影も大きくなっていた頃合い。
僕は、担任から預かっていた準備室の鍵でドアを開けると、ひとつしかない机のうえに突っ伏しているひとりの女の子が目に入った。それと、床に落ちている、一枚の原稿用紙も。
「……こ、これ、漫画……?」
ひとりの少女が描かれた、漫画の一ページだった。
第一印象は、優しい笑顔の絵だなってこと。少女の温かい表情しかり、背景に咲き誇る桜の花弁しかり。
「……寝てる、のか?」
時刻は午後五時。そろそろ一般生徒は下校しないといけない。
「……部活、とかでもないよね? この子しかいないし……」
天板によだれが垂れていて、熟睡という形容がこれ以上似合う光景はなかった。
「っていうか、先生鍵貸したってことは、この子準備室に閉じ込められてた……?」
この準備室、外側からしか鍵がかけられない仕様になっているらしく、状況としてはそうだったんだろう。
「だとしたら、随分と平和な閉じ込めみたいだけど」
ノートを先生の机の上に置き、僕は熟睡中の女の子にそっと声をかける。
「あ、あのー、そろそろ下校時間ですけど……」
「すーすー」
が、全く起きる気配はない。さすがに放っておくのは悪いので、今度は彼女の指先をちょんちょんと突いてみる。
「指、細い……」
そんな女子への免疫ゼロの感想が口を衝いた瞬間、むくりと突っ伏していた彼女の体が起き上がったと思えば、
「んんー、よく寝たー。あっ、ドア開いているっ。やったあ、助かったあ」
体をくいっと伸ばし、すぐに近くにいた僕に視線が飛ぶ。
「もしかして、君が助けてくれたの?」
「……助けるっていうか、僕はただノートを運びに来ただけで」
「いやー、いっつも放課後になると美術準備室借りて絵を描いてたんだけど、今日に限って先生私の存在忘れちゃってたみたいでねー? 閉じ込められちゃってたんだー、あはは」
「……この漫画、やっぱり?」
ただ、それ以上に、僕の記憶にこびりついたのは、
「うん。それ、私が描いたんだー」
綺麗に見開かれた瞳がゆるりと細められ、余計なものが何も混ざらないほど純粋な白色の肌にほのかに差した桃色と、緩められた口元。
これを満面の笑みと言わずに何と表現すればいいのだろうか。
このときの笑顔を、僕は今でも忘れることはできていない。
「あっ、私、一年八組の市川笑菜って言います。笑うに小松菜の菜で、笑菜。君も一年生だよね? 何組?」
そして、この名前だ。
「え、えっと……五組の都賀優作、です」
「ふむふむ、つがゆうさく、ね。都賀だと短いし優作だとなんか長いなー、あっ、つがゆうとかどう? なんか響き良くない?」
出会ってすぐにあだ名を考えるあたり、かなり癖のある子なのは今にして思えば想像できたのかもしれない。でも、当時の僕にそんなことを考える余裕なんてなかった。
「……そ、そうかもね」
彼女の浮かべる笑顔と、描き出す漫画に、このときから魅了させられてしまったのだから。
それから、僕は職員室に向かう。しかし、それに何故か笑菜もついてくる。
「あ、あの……、どうして僕の後をついてくるの?」
「え? 私も職員室に用事があるからだよー」
何事もないようにニコニコしつつ横を歩く笑菜。そんな彼女に多少困惑しながらも、僕は職員室に入って担任の机のもとに向かった、のだけど。
「佐倉先生―、言われた通り入部届持ってきましたー」
「あれ、市川、おまっ、今日病院の日じゃ──あっ。んん。……もしやとは思うが、先生、準備室に閉じ込めた?」
「はい。でも、開けてもらえたのでセーフですっ」
「そっ、そうか……つ、都賀もノート、サンキューな」
どういうわけか笑菜は僕の担任に入部届を提出しているし。
担任は笑菜が提出した書類に判子を押すと、
「そうそう、都賀、まだ部活決まってなかったろ。お前、小説とか読むの好きだよな、いっつも本読んでるし。それなら、市川と一緒に漫画研究会入らないか? 休部状態だったから部員も市川しかいないし、ひとりよりふたりのほうが何かとできることも多いだろ」
軽い提案のつもりだったのかもしれないけど、そんなことを僕に言ってきた。それに食いついたのは、
「えっ、つがゆう、小説好きなのっ?」
他でもない、笑菜だった。
「もしかして、小説書いたりするっ?」
「……い、いや、まあ……ちょっとくらい、だけど」
嘘だった。ちょっとなんてものではない。僕は中学生のときから小説を書くことを拗らせていた。ただ、今日初めて会った女の子に小説を書いているなんて恥ずかしくて堂々と言えなかったし、担任だって目の前にいたから。
「ほんとに?」
けど、僕が程度を誤魔化したくらいで、彼女が止まるわけがないのも、今にしてみれば当然の帰結で、すっかり瞳を輝かせた笑菜は僕の両の手を握って、
「一緒に漫画研究会やろうよっ、きっと楽しいからさっ」
僕を創作の沼に引きずり込む台詞を言い放ったんだ。
これが、僕と笑菜のスタートライン。もし、この日放課後すぐに帰宅していたのなら、先生の頼みを断っていたのなら、既に部活に入っていたなら。
もしかしたら、これから八年近くにも及ぶ笑菜との腐れ縁も、存在していなかったのかもしれない。
そうして、笑菜と一緒に漫画研究会に入部した僕は、その高校生活のほとんどを彼女に捧げることになった。
週四で部室に集まった僕らは、初めのうちはお互いが読んだ漫画だったり、小説だったり、はたまたライトノベルだったり、もしくはアニメや映画、ドラマの感想を言ってはああでもないこうでもないと話し合う程度だった。
しかし、そんな当たり障りのない活動も一か月もしないうちに笑菜は飽きてしまったのか、それとも単純に忘れていただけかはわからない。けど、ゴールデンウイークも終わった頃に、
「ねえ、私、つがゆうが書く小説読んでみたいなー」
ふと、笑菜は僕にそうお願いをした。
「えっ、嫌だよ、恥ずかしいし」
僕は即答で拒否する。小説なんて書いているくせに、目の前で他人にそれを読まれるのは恥ずかしいから、僕はネットで自分の書いたものをアップするだけに留めていた。
「えー? つがゆうは私の漫画見たのにー?」
「見たって言ったって一ページだけじゃん」
「私だって自分の漫画見られるのほんとは恥ずかしいんだからー。それこそ、パンツやおっぱい見られるくらいに」
「ぶっ!」
「あーあ、つがゆうは私のおっぱい見たのに何も返してくれないんだー」
「何その極論。っていうかその論理だと返したら返したでなんか怪しい空気がするけど」
「私もつがゆうのおち──」
「ちょ待て! それ以上はいけない!」
「じゃあ、読ませてくれる?」
笑菜の独特な話術も、それに押し負ける僕も高校のときから変わらずで。ありもしない冤罪が原因で、僕は自分の小説を笑菜に読ませることにした。
「……このペンネーム。この名前でネットに小説上げているから、好きに読んでいいよ」
不承不承ながらも、僕はスマホの画面を笑菜に差し出す。
「わーい、ありがとうつがゆう。私も(笑)って名前で漫画載っけているから、見ていいよー」
「……なんだその癖しかないペンネーム」
「だって、ネットの海は膨大だよ? 少しでも目立つ名前にしといたほうが、色々とお得だし」
「……正論なんだけどそれの表現として(笑)はどうなの?」
「えー? 私はいいって思ったんだけどなー」
その日の夜、家に帰るとすぐにパソコンで僕は笑菜の漫画を読み始めた。
たった一ページ見ただけで、心を奪われかけたんだ。そんな僕が、彼女の漫画の全ページなんて読もうものなら、
「……えっ、もう朝?」
時間なんてあっという間に過ぎていて、カーテンの隙間から朝陽が上ってきてしまっていた。
一体何本の漫画を読んだだろうか。彼女がアップしているものは全部読んだのだろうか。
少しでも眠らないと、と思ってパソコンの電源を落として、ベッドに倒れ込んだのはいいものの、胸の内に広がっていく優しい読後感がなかなか離れてくれず、眠たいはずなのに僕を寝かせてはくれなかった。
翌朝、もとい徹夜明けの朝。あくびを噛み殺しながら生徒玄関を通ると、
「あっ、つがゆう来たー。ちょっといいー?」
同じくこちらもなんだか眠そうな笑菜が僕を見つけるなり、部室へと引っ張っていく。
「タンマタンマ、僕まだ上靴履いてないからっ」
「いいからはやくはやくー」
僕の悲鳴なんてお構いなしだった。部室に到着すると、予め借りていたのだろう、鍵を開けて中に入る。
「つがゆうの小説、全部読んだっ」
入るなり、第一声、笑菜はそう僕に告げる。
「……は? 全部?」
「うん、全部っ」
いや、何言ってんだ、短編長編合わせても十本以上上げていたはず。それを一晩で全部読むなんて……。
「このためだけにアカウントつくって『応援する』ボタン押し続けたのになあ」
「ちょ、マジで言ってる?」
慌ててスマホを開いて、投稿サイトに飛ぶ。右上に踊るベルマークには、通知の存在を知らせる赤い点が。恐る恐るそこをタップすると「(笑)さんが応援しました」がズラリと。
「……ば、馬鹿じゃないの? ひ、一晩で全部読むとか……」
「そうかもねー。でも、それは、つがゆうだって同じでしょ?」
「っ、っぐ……」
「お互い一晩で全部読んだってことは、感想は聞いても同じかもね」
それつまり、ハマってしまったってことで。その前提を共有した上で、
「それで、ひとつ、私から提案がありますっ」
「……何?」
ふにゃり、目尻を緩め表情を綻ばせた笑菜は、名案を思いついたと言わんばかりに堂々と、
「私の漫画に、ストーリーを当てて欲しいんだ」
僕を、市川笑菜という存在にどっぷり絡める一言を、言い放った。
「私、つがゆうが描くようなストーリー、大好きなんだ。ほら、誰だってさ、一番描きたいものってあるでしょ? それが、私にとってはつがゆうの小説だったんだよっ」
言いたいことはわかった。創作者なら、誰だって考えるだろう、描きたいもの、描けるもののふたつ。それに売れるものとか、人気が出るものとかも絡んでくるけど、ここでは置いておくとして。
「……そ、そう言ってくれるのは嬉しいけど、僕、漫画原作なんてやったことないし」
「大丈夫っ! 私も他の人に原作やってもらったことないからっ!」
「何が大丈夫なんだ」
「ねっ、いいでしょ? お願い、もしやってくれたらつがゆうが好きなキャラのイラスト、何枚でも描いてあげるからっ」
「んぐっ」
なかなかオタクの心をくすぐる提案をしてくる。推しの絵をいくらでも描いてあげると言われて、心が揺るがない奴がいるだろうか。
「ほんと、つがゆうと漫画描いたら楽しい予感しかしないんだっ、一生のお願いだからっ、ねっ? ねっ? お互いおっぱいとおち──」
「だからそのくだりまだ使うんかい」
っていうかそれ言うともはや一線超えた後のカップルにしか聞こえないって。だとしても嫌だけど、おっぱいとおち、んを見せあったって言うのは。
「わかった、わかったから。描く、描くよ描くから変なこと言わないで」
僕は気づくべきだったんだ。
色々と軽い言動が目立つ笑菜だったけど、これまでも、これからも僕に頼みごとをする笑菜だったけど、本当に、この一回だけだったんだ。
市川笑菜が、「一生のお願い」っていう言葉を使ったのは。
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