第23話 誰だって、どんな詩人でも、文豪でも、わたしの気持ちは、言葉なんかでは表しきれないよ。それじゃ、駄目?
次に僕が出かけたのは、笑菜にプレゼントを買った一週間ほど後の日のこと。自由登校期間中ではあるけど、笑菜が学校に行くからつがゆうも付き合ってと言われてのことだった。
学校に着いたのは、十三時過ぎ。もうこの時期になると、私立大の合格発表が始まっていて、だからかもう受験が終わった、という人もチラホラ。
授業も講義もあるわけではないから、今学校に来ているのは、もう進路が決まった生徒しかいないだけあって、教室の雰囲気は比較的和やかなものだった。平井さんは話に聞いていたし、小岩君も受験が終わったみたいで──
「あっ、正志先輩、来てくださったんですねっ」
「しっ、酒々井さんっ?」
「バレンタインチョコ持ってきました。ちゃんと本命なので、安心してくださいね」
まあ、そんな環境とは言え、三年生の教室に乗り込んでバレンタインチョコを渡す酒々井さんはさすがだけど。
……気づいてなかったけど、今日バレンタインデーか。そっか、二月十四日か。
小岩君にチョコを渡した酒々井さんは、そのまま平井さんと笑菜にも友チョコをあげると、すたすたと僕のところにもやってきては、
「都賀先輩もどうぞっ。今年一年お世話になりました」
小袋に包まれたそれを、僕に手渡す。
「あ、ありがとう」
……笑菜以外の異性からチョコ貰うの初めてな気がする。なんだったら笑菜のくれるチョコ毎年びっくり要素があるからチョコって感じしないし。
そんな感慨にふけていると、
「都賀くん、私からも。……色々と、助けてもらったし」
平井さんも酒々井さんに続く形で僕にチョコレートをくれた。
「つがゆうー、モテモテだねー」
「……いや、どちらも彼氏持ちの子からの義理だし」
「嬉しくないのー?」
「嬉しいけどさ」
「ふーん、そっかそっか」
両手にチョコを抱えた僕を、ニンマリした顔でからかう笑菜。お互い、少しの間何も口にしない瞬間が漂うと、
「どしたの? つがゆう」
「え? いや、何もだけど」
「あれ、私からのチョコは欲しくないの……?」
きょとんと首を横に傾げ、ちょっとだけ寂しそうに言葉尻を震わせる。
「……だって、笑菜のチョコ、毎回変なもの入っているから」
「もー、そんなの入ってないって、酷いなーつがゆう」
「……どうだか。そう言って唐辛子入りのチョコ食べさせられたことあったし」
「むう、そこまでの言われようだとなんだか癪だなあ。果たし状だよ、つがゆう、一時間後、漫研の部室に来てっ」
一体何を果たそうって言うんだ。それだけ言うと、笑菜はとてとてと教室を後にしていく。
僕らの様子を見ていた平井さんと小岩君は、何かもの言いたげな空気を醸し出していたけど、気づかないふりをしてやり過ごすことにした。
それから、ピッタリ一時間後。僕は別棟最上階にある漫画研究会の部室に足を踏み入れた。
時間割的に五時間目ということもあり、別棟に生徒は僕ら以外にはいない。このタイミングだとグラウンドで体育の授業もないみたいで、完全な静寂が流れている。
「やっ、来てくれて良かった良かった」
僕の到着を認めると、窓際に立っていた笑菜はひょいひょいと手招きをして僕を呼び寄せる。
「……それで、何を僕に果たすつもりなの?」
「え? 何を果たすんだろーね」
「……ノープランかい」
しかし、のほほんとした言葉とは裏腹にゴソゴソとトートバックから綺麗に包まれたビニール袋を取り出す。
「はい、これっ、チョコねっ」
「……別に教室で渡してくれてもよかったんじゃ」
「えー? さすがに本命チョコを教室で渡すのは恥ずかしいよー」
そして、変わらず何でもないことのように、笑菜はそう言い放った。
「……はい? 今、なんて」
「ん? 教室で渡すのは恥ずかしいよー」
「そこじゃなくて」
「えー? さすがにー」
「絶対わかって外してるよね」
聞き間違いであって欲しかった。幻聴であって欲しかった。けど、彼女の口から零れたのは、優しくて、でも優しくない単語で。
「……本命、チョコ?」
刹那、受け取ろうとした僕の右手が動きを止めた。
「つがゆう? どうかした?」
「……それは、どういう意味で」
「どういう意味って、もー、言わなきゃわからない? つがゆう」
「茶化してるんじゃないんだ」
おおよそ今日この場に相応しい語気じゃないのはわかっている。でも、自然とそうならざるを得なかった。僕のリアクションで、笑菜も理解したのか、真面目な表情、口調で、告げる。
「……つがゆうが思っていることと、きっと同じだよ」
「それじゃわかんないって」
「あーあ。こうやって君の隣にいられることを、奇跡だなんてどうして気づかなかったんだろうね、わたし」
「……だからっ」
「言葉なんかじゃ、足りないよ」
時が、止まった。
「誰だって、どんな詩人でも、文豪でも、わたしの気持ちは、言葉なんかでは表しきれないよ。それじゃ、駄目?」
「……駄目……なんかじゃ」
いや、駄目だ。もう十分だ。このチョコは受け取れない。
受け取れない理由が、十分すぎるくらい溢れている。
「……つがゆう?」
そう思うと、自然と差し出した右手がゆっくり下げられる。笑菜の瞳が、不安そうに揺れる。
「……受け取れない、僕に、このチョコは」
「……なんで?」
「それこそ、言わなきゃ駄目かなあ。……僕が、僕だからだよ」
「私はっ、つがゆうだからっ」
なおも食い下がる笑菜。……見たことがある、光景だった。忘れられるわけが、なかった。
「……無理だ。これは、僕には……甘すぎる。優しすぎるんだ……」
「……そ、っかあ……。そっか、そっかあ……」
俯く僕、薄汚れた上履きが、僕の視界を占領する。耳に触る笑菜の声が、心なしか、潤んでるように思えた。それを、確しかめる勇気なんて、あるはずがなかった。そんな勇気、あるんだったら。……こんなことに、なってないんだ。
気がつけば、トテトテという足音と、慌ただしくドアが開け閉めされる音が聞え、僕はひとり窓際に立ち尽くしていた。
一体何分、何時間そこでボーっとしていただろうか。遠くから、階段を駆け上る音が響いてくる。足音は間違いなく、こちらに向かっている。
笑菜のときよりも、乱雑に、叩きつけるように部室の戸がスライドされると、顔を真っ赤に、息を切らせた平井さんが、今までに見たこともないような目で僕を睨みつけ、
早足で僕の正面に立って、
「──最低だよっ!」
パチン、と風船が割れるくらい大きな音が立つくらい力強く、僕の頬をビンタした。
「なんでっ! なんでそんなことできるの! 酷いよ! 市川さんがどんな気持ちで、チョコ作って、渡そうとしたとしたかっ」
さらに肩を掴んで、僕の身体を前後に揺さぶり、必死に抗議の声をあげる。
「それがっ! 都賀くんの、都賀くんの気づかない振りなの? 誰のためなの? 何のために、こんな酷いことっ」
「……僕に、笑菜の気持ちを受け入れる資格は、ないんだよ」
「……何ですか、それ」
ヒリヒリと痛む頬、震える声。今の僕も、普通ではなかった。
「資格とか、そんなの……都賀くんの言い訳じゃないですかっ。だからって、市川さんを傷つけていい理由にっ」
「もうとっくのとうに傷つけたんだよ! 僕は! 笑菜を! だからっ、笑菜の気持ちに気づいちゃいけないんだよ!」
そう、何もこれが、初めてではなかった。僕が、笑菜を傷つけたのは。
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