第21話 ──だから、私のことも、救ってよ。

 後夜祭の喧騒が遠くに聞こえる、三年生の教室。

 ここは、私が先輩の下駄箱に忍び込ませておいたクッキーの同封しておいた手紙で、指定しておいた場所。

 ……先輩は部室からグラウンドに出るとき、まず間違いなく下駄箱を開いて靴を履き替えるはず。クッキーにだって、気づいているはず。あとは、来てくれるかどうか、それだけ。


 オレンジ色の陽が差し込んで来る教室。適当に空いている座席に座って、先輩がやって来るのを待つ。

 ただ、ひたすら何もせずに、待つだけだった。何分くらい経ったころだろうか。

 リノリウムの床と上靴が擦れる音が遠くから響いてきた。席から立ち上がって、誰か確認したい気持ちをグッと抑え込んで、座ったままでいた。

 教室のドアが開けられた。顔を上げると、そこには、


「……来て、くれたんですね」

 制服姿の、正志先輩がいた。

「……う、うん。だ、だって、あんなこと言われたら、行かないわけにはいかないし……」

 先輩はそう言っては頬を掻きながら、私の隣の席に座った。


「えっと……そ、そのっ……す、すみませんでしたっ」

 それを見た私は、席を立ち先輩の前に移動して、今日何度下げたかわからない頭を下げた。

「……許して欲しいだなんて思ってないです。そういうことをしたんですから。でも、さっき言った私の気持ちは、確かに本心です」

 顔を上げ、先輩の顔を直視する。


「……だから、先輩さえよければ、もう一度、もう一度だけでいいんで、チャンスを下さい」

 先輩はどこか困ったように眉をハの字にしていて、視線も下に向いたまま。

 ……駄目、だったかな。でも、それならそれで、振ってもらえるだけまだいいほう──


「ごめんね、酒々井さんのこと、覚えてなくて」

「え?」

 内心諦めかけたとき、先輩がゆっくりと口を開いた。

「……別に、あの日のことを忘れたとかじゃないんだ。ただ、あのときは必死でね、とてもじゃないけど、見つけた受験票の名前や、番号を覚える余裕なんてなかった」


「べっ、別に、先輩は悪いことしてないですし」

「……だから、あのとき助けた子が受かったかどうかすら、僕はわからないまま、今日の今日まで過ごしていた」

 でも、と先輩は続け、

「良かったよ、受かっていて。それだけで、僕は報われた気になる」

 表情を綻ばせた。それはまるで、路地裏にひっそりと咲く、花みたいに綺麗だった。


「……別に見返りなんていらなかったんだ。物欲のない奴と言われたらそれまでだけど、僕自身、ハイスペックじゃないことはわかっているつもりだから、彼女ができるなんてつゆも思ってなかった」

 グラウンドのほうから、パァンという発砲音が軽く聞こえてくる。恐らく、フィナーレを迎えたんだと思う。時間的にも、ちょうどいいし。


「……ごめんね。酒々井さんが一番、辛かったよね」

 すると、先輩はそう言って、私に謝罪する。

「いやっ、それはちがっ。だ、だって、一番傷ついたのは先輩のほうでっ」

「僕は別になんだっていいんだ。都賀君に怒られなかったら、このまま何もかもなかったことにして忘れるつもりでいたから。いい夢を見たってことに、するつもりだったから。でも、酒々井さんは違うでしょ?」

 ……やっぱり、先輩はブレなさすぎる。どこまで、自分のことを後回しにするんだろうか。


「仮に、本当に僕なんかを好きだとしたら、あんなことを上級生にやらされてしんどくないわけがないし、そうじゃないとしても」

「……仮になんかじゃないです」

 大事なことだったので、私は先輩の話を遮ってでも、私が本気であることを伝える。


「え?」

「仮なんかじゃない、私は、先輩のそういう生きかたをするのに惹かれたんですっ! あなたが自分の身を顧みずに、それでも誰かを助け続けるなら、それなら私が先輩の分まで先輩のことを想いますからっ! だから、せめてっ、先輩の隣に居続けさせてくださいっ……」

 言葉だけで伝わらないのだったら、行動でだって示さないといけない。私は、正志先輩が座る椅子の真横に立膝をすると、


「……は、初めてですからっ、こ、こんなこと、罰ゲームでだってしませんからっ」

 うっすらと目を閉じて、先輩に自分の唇を差し出した。

「えっ、あ、し、酒々井さんっ?」

 声だけで、先輩が狼狽えていることがわかる。

 それでも、私は何も言わず、動かず、先輩の答えを待つ。これで、断られるのだったら、もう悔いはない。


 一体、どれくらいの時間が空いただろうか。三十秒か、それとも一分か、五分か、わからない。けど、待ち続けた私の顔の近くに、先輩の息遣いを感じた。

 来る……! 一瞬、覚悟を固めたのも束の間、唇に入るはずだった感触は、なぜか先に髪に来て、前髪をたくし上げられたかと思えば、空いたおでこに、


「……あ」

 少しだけ湿ったものが、触れられた。私が目を開けると、顔を真っ赤にした先輩が、

「さっ、さすがに最初っからそこはハードルが高過ぎるっていうか……そ、その……」

 聞いてもいないのに、言い訳を私に並べ、


「……それでも、僕の隣で良かったら、いつでもいてください」

 最後に、肯定の答えを私に告げてくれた。

「……はっ、はいっ! ありがとうございますっ!」

 私はそうすると、無防備だった先輩の唇に自分の唇を当てる。数秒、先輩の温もりを貰ってから、くしゃくしゃになりそうな笑みを浮かべて、

「お言葉に甘えて、ずーっと隣にいますっ」

 突然のことに呆けている先輩に、宣言した。


 〇


「……小岩君、戻ってこないな」

 陽も沈んだ夜。写真部の部室に残っていた僕は、小岩君の荷物を見ながら呟いた。

「まあ、っていうことは、上手く行ったってことなんだろうな」

 今頃、酒々井さんと仲良く過ごしてくれているといいんだけど。

 しかし、いくらなんでもそろそろ帰らないと先生にも怒られてしまう。仕方ない、小岩君の下駄箱を見て、まだいるようだったらラインして、いないようだったら一旦家に持って帰ってあげるか。


 幸い、部室の鍵はわかるところに置いておいてくれたので、そこの心配はしなくてよかった。僕は自分の荷物をまとめて、帰る支度を整えていると、何の前触れもなくいきなり部室の扉が開かれた。

「あ、ようやく帰ってきた、小岩……くん。え、……笑菜? な、なんでここに?」

 小岩君だと思った来訪者は、見事に外れ、代わりに僕の腐れ縁である市川笑菜が立っていた。


「やっほーつがゆう。迎えに来たよ」

「みんなと一緒に帰ってよかったのに」

 後夜祭を平井さんたちといたから、てっきりそのまま一緒に帰宅するものだと思っていた。

「あはは、嫌だなーつがゆう。私にとってはつがゆうが最優先事項だよ。写真部の部室に残っているって榎戸君に聞いたから、来ちゃった」


「……そ、そっか」

「……ありがとう。つがゆう」

「ん? どうかした? 笑菜」

「……小春ちゃんと小岩君。上手くいったよ。教室で、仲良さそうに話してた」

「そっか」

 良かった。成功したんだね、酒々井さん。ちゃんと、向き合ってあげたんだね、小岩君。なら、良かった。


「楽しそうだった。幸せそうだったよ、ふたり」

「なら、これで二組目もミッションコンプリートってことで、いいのかな?」

「……うん。文句なしだよ。やっぱり、つがゆうは凄いよ」

「凄いのは実際にやってのけたふたりのほうだよ。僕はただ、筋書きを作っただけ。行動したのは彼らだ」

「……それでも。だよ」

 なんだろう、笑菜はうまくいったはずなのに、少し悲しそうな顔をしている。


「……わたしには、こうはできなかった」

「別に、この結末だけが、ふたりのグッドエンドってわけじゃないよ、他にも、もしかしたらもっといい結末が」

「だとしても……わたしひとりじゃできなかった。……できなかったんだよ。……できなかったから、わたしはみんなを、殺したんだ」

 だから、いきなりそんな物騒な単語が聞こえたとき、僕は背筋が凍る感覚がした。


「……こ、殺すって、そんな」

「だって、そうでしょ? 自分で勝手に生み出した癖に、宙ぶらりんのまま放っておいたんだ、わたしは。そんなの、殺しているのと変わりないと思わない?」

「か、変わりないかもしれないけど、そんなこと言ったら、一体どれだけの登場人物を殺すことになるんだよ、僕らは。ボツにした案なんて、両手じゃ数えきれないくらいあるよね?」


「……数えきれないよ。数えきれないから、耐えられなかったんだよ。自分のエゴで作って、生かすことができずに放置することが。つがゆう抜きで、小春ちゃんも初芽ちゃんも、榎戸君も小岩君も救えない、無力な存在だったんだよ」

「でも、それでも笑菜は──」

「──だから、私のことも、救ってよ。つがゆう」

 凍って、凍って、そして、我に返った。


 目の前に立っている女の子が、瞳を揺らしながら、僕に訴えかけたから。

「……みんなみたいに、私のことも、幸せにしてよ」

「っ……」

「君が描く物語で、私を、幸せにさせてよ。つがゆう」


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