第2章

第12話 じゃあ私は定刻に来るから、つがゆう三十分前から待ってて

 〇


 始まりは、笑っちゃうくらい単純だった。今思い返しても、顔が熱くなるのがわかるくらい、あのときの私はどうかしていた。

 中学三年生の冬、今私が通う、都立桜坂高校の入試の当日。

 その日の私は、時間に余裕を持って、朝早い時間に家を出た。もちろん、受験票や筆箱、その他諸々必要なものはしっかり確認して。


 制服のブレザーの上に、派手過ぎない黒の上着を着込んで、赤色のマフラーを首元に巻いての完全装備。それでも外を歩くと寒いなと感じてしまうくらい、入試の日は気温が下がった。

 朝の通勤ラッシュに巻き込まれ、電車のなかでギュウギュウ詰めにされながらもなんとか高校最寄りの駅にたどり着いた私は、少しため息をつきながら、駅の出口の側、鈍色に染まっていた空を見上げた。


「はぁ……もう疲れちゃったよ……」

 見上げる私の口元から、ほのかに白い息が漏れ出る。

 満員電車で少し乱れてしまった前髪を手で簡単に直し、スマホで時間を確認しようとすると、ロック画面には別の高校を受験しに行っている友達グループから、ラインが何通か届いていた。


「めっちゃ緊張するー」「それ、私も」「朝ご飯口から出てきそうだよ」

「……みんな、同じだよね、そうだよね」

 芽生え始めていた緊張が解けこそしないものの、ちょっとだけ頬が緩んだ私は、お気に入りのスタンプをひとつだけ送信して歩き出そうとした。ただ、


「ひゃっ」「す、すみませんっ」

 前をよく見ずに歩き始めたから、早足で駅に向かっているサラリーマンの男性の肩と肩がぶつかってしまい、体勢を崩してしまった。

「……いけないいけない、落ち着かないと……落ち着かないと……」

 スマホを制服のポケットにしまった私は、気を取り直して駅から高校までの道のりを歩きだした。


 前日のうちに、下見は済ませていたので、道に迷うことはなかった。すれ違う人たちも、一様に寒そうに体を縮こませ、頬を赤く染め上げながら歩いていた。それは、きっと私も同じだったと思う。


 完全に葉々が落ち切って、裸になったイチョウ並木を通過すると、これから私が受験する高校の校舎が目に入った。近くには、聞いたことがある塾の名前が書かれたボードを持ったスーツ姿の人たちの集団が、通り過ぎていく受験生に最後の激励をしている。多分、そのなかには、私が通っている塾の先生もいたのだろうけど、緊張のあまり、誰がいたのかさえ覚えていない。


 今思えば、なんの変哲もないただの校舎のはずだけど、当日の私にとっては思わず足がすくんでしまうほど大きく映っていた。寒さのせいだけではなく震えはじめる両手を、ぎゅっときつく握りしめ、私は校門を通り抜ける。

 余裕を持った時間に家を出たはずだけど、心臓が早鐘を打つあまりに、歩くのが遅くなっていたからだろうか、試験の開始時間まではあと十五分程度と、なかなかにギリギリな時間になってしまっていた。


 生徒玄関に入り、持ってきていた上履きに履き替えて、ひとまずスマホでお母さんに無事到着したことを連絡してから、そのまま私はスマホカバーのなかにしまっていた受験票を取り出そう、とした。けど。

「……あれ……?」

 手帳式のスマホカバーの隙間にあるはずの、受験票はそこには入っていなかった。


「……なんで、朝出るときにはちゃんとあったのに……」

 途端にせり上げあがってきた得体の知れない恐怖に襲われながら、はやる気持ちで私はカバンのなかを調べ始めた。

 ……お願い、あって、あって、あって……!

 私の祈りは無情にも切り捨てられ、カバンのなかにはどれだけ探しても受験票の姿は見つからなかった。


 そうこうしているうちに時間は過ぎていって、続々と別の中学校の制服を着た受験生たちが私の背中を追い越していく。試験開始の時間は、間違いなくすぐそこに迫っていた。

「……もしかして、駅でぶつかったときに、その拍子に……」

 今更受験票を落とした可能性に頭が巡ったけど、今から駅に戻って落とした受験票を拾いに行く時間は残っていない。そもそも、本当に駅に落ちている保証はどこにもないし。


「……ど、どうしよう……」

「……あ、あの、さっきからそこで立ち止まっているけど、どうかしました……?」

 途方に暮れていた私に、手を差し出してくれたのは、右腕に「案内係」の腕章をつけた、桜坂高校の制服を着た男子生徒だった。


 今思えば、お世辞にも正義のヒーロー、王子様などとは言い難い第一印象だった。髪に寝癖が残っているし、年下の私に対しても、どこか自信なさげだったし。

 けどそのときの私にしてみれば、それは谷底から引き上げてくれる蜘蛛の糸みたいなもので。


「え、えっと、そのっ……」

 たどたどしい口調で、事情を話した私に、その先輩は少し泡を食った様子になりながらも、

「そういうことだったら、ちょっと僕、駅まで走って探してきます。もし間に合わないようだったら、試験監督の先生に言ってくれたらどうにかなるかもしれないので」

 彼はそう言って、駆足で生徒玄関を後にしようとした。


「えっ、で、でも今からじゃ」

「僕、今日自転車で来ているのでっ」

「えっ、あっ……」

 私が呼び止めるよりも先に、案内係の先輩は駐輪場に止めていた自転車を走らせて、駅の方角へとその姿を消した。

 それから数分後。試験開始の三分前。生徒玄関前で車輪が回ったままの自転車から飛び降りて、盛大に転んでいた先輩は、その右手に私が探し求めていた一片の紙を握りしめていて。


「駅前の交番のおまわりさんが拾っていたみたい……! まだギリギリ間に合うから、教室に急いでっ」

「はっ、はいっ」

 私は、その先輩の名前を聞くこともできずに、試験会場の教室へと急いで向かいだした。


 これがことの始まり。笑っちゃうくらい単純で、ありきたりかもしれない恋のスタート地点。


 無事、桜坂高校に合格した私は、まず入試の日に助けてくれた先輩のことを探し出そうとした。当時三年生だったら入れ違いだけど、三年生だったら、私たちと同じで受験でそれどころじゃないだろうから、まだ高校生ではあるはず、そう信じて、私は上級生の教室をひとつずつ順番に探し回った。

 目当ての先輩は、あっけなく見つけることができた。


 小岩正志。都立桜坂高校三年生で、写真部部長。部長と言っても、部員はひとりしかいないみたいだけど。

 誰がどう見てもわかる、俗に言う陰キャラの類に入る人だった。

 朝の始業前、特に用事もないのに先輩の教室の前を通ったときも、大抵ひとりで机に向かって参考書を開いていたし。

 休み時間も、周りが友達と雑談をしているなか、ひとり机に突っ伏して寝ていたり。


 昼休みも同じ具合で、およそいわゆるトップカーストに属するようなタイプの高校生には見えなかった。

 ただ、ぼっちなのかと聞かれると、一概にそうとも言いきれなくて。

 たまに、サッカー部の榎戸渉先輩と、何やら紙のブックカバーに包まれた雑誌くらいの大きさの本をやり取りしているのを目にする。結構定期的にそんな光景があるから、それなりに仲は良いんだろう。


 ……正志先輩との近づきかたがわからなかった私は、まず近くの友達、今回で言えば榎戸先輩を起点に攻めることにして、サッカー部のマネージャーになることにした。

 のはいいのだけど、未だに本命の正志先輩とは接点を掴めずにいるし、逆に言いかたは悪いけど利用しようとした榎戸先輩には逆に頼られてしまい、先輩の幼馴染の平井先輩に誤解されちゃうし。……ほんと、何やっているんだか。自分のことで、いっぱいいっぱいなのに。


 〇


「つーがーゆーうー。あそぼーよー、夏休みなのにどこも遊びに行かないのは暇だーよー」

 平井さんたちの一件からはや二か月弱。季節は春から夏へと移っており、ちょうど夏休み真っ盛りの時期だった。

 インターバルなく、次の問題に移るのかと思いきや、意外とそういうことはなく一学期から夏休みまでは普通に高校生活を過ごしていた。


 八月も半ばを過ぎ、残る休みも二週間くらい。これまでほとんど休みらしいことはしてこなかった。……今回の件で仲良くなった平井さんは受験生で忙しいし、榎戸君だって部活を引退してからもサッカーがある。なかなか一緒に遊ぶなんてことはできるはずもない。せいぜい、終業式の日に榎戸君と一緒にラーメンを食べに行ったくらい。


 じゃあ、僕が笑菜とふたりでどこか行くかと聞かれると……。

「いや、だって笑菜と遊ぶってなったら疲れるし……それなら家でゴロゴロしながらサブスクで映画やアニメ見たり本読みたいっていうか……」

 そう言い右手でリモコンを操作するのが答え。


 さて、今日は何見ようっかなー。去年公開されたけどお金なくて映画館行けずに見れなかった大ヒットアニメでも見ようかなあ。今見ないと多分見ないまま人生終わりそうだし。

 が、笑菜はと言うと、


「えー、そんなの学校ある日でもできるよー。せっかくならもっとパーッとやろうよパーッと。高校生なんだしー」

 床の上をゴロゴロと転がりまわりながら駄々をこねている。……とても精神年齢が二三歳とは思えない光景だ。いや、仮に十八歳だとしてもだけど。

 というか、部屋着でTシャツ一枚に半ズボンというラフな格好でそれをされると、色々肌色とか肌色とかが見えて目に毒というか。暑いのはわかるんだけどさ。


「むう、じゃあ交換条件。つがゆうの一日どっかでちょうだい? それ以外の日は好きにしててもらっていいから」

 大の字に寝転がったまま、首だけ僕にひょこりと向けて提案する笑菜。おかげでめくれたシャツの隙間から、何も混ざっていない真っ白なお腹とその中心の凹みが目に入ってしまう。


「っっ」

 咄嗟に視線を切ると、笑菜も服がはだけていたことに気づいたようだけど、

「別におへそくらいなら気にしなくてもいいのにー。むしろそういう反応されるほうが恥ずかしいよー」

 当の本人はあまり気にしていない。


「……にしたってちょっとは警戒とかさ」

「んー、夏らしいこと、何だったら『そっち』でもいいけど?」

 待て待て、その広げている両手はどういう意味ですか笑菜さん。お父さんそんなのは許しませんよ。

「……はいはい、わかりました、一日あげるから、それで満足ですか」

 埒が明かないのは目に見えているので、もう笑菜の案に乗っかることに。


「なーんかしぶしぶって感じがするけど、まあいいや。それだったら再来週の木曜日。貰っていい?」

「……思いきり夏休み終了間際なんだね。おっけ。じゃあその日は暇にしておくよ」

 まあ、この世界でもぼっちだから、埋まる予定なんて皆無なんだけどね。


「わーい。あ、じゃあその日は気分を作るために駅で待ち合わせにしよっか」

「……気分て」

「デートと言えば駅での待ち合わせが鉄板でしょ? 待っている途中にナンパにあっちゃったり、『ごめん待った?』『待ってないよ』『でも手冷たいよ』のやりとりとか」


「……そもそもデートと認識していないし、今夏だし。あと、同じ家を出発するのに遅刻なんて逆にホラーだけど」

「じゃあ私は定刻に来るから、つがゆう三十分前から待ってて」

「それすらも台本かい。気分台無しじゃん」

 結局、笑菜に振り回されるだけ振り回されて、約束の木曜日は駅で待ち合わせをして行くことになった。あれ、そういえば、どこに行くかは聞いてなかったけど……。


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