第10話 ううんー、なーんでーもなーいよー

 一般教室からかけ離れた漫研の部室のアクセスの悪さが、今回は功を奏したかもしれない。ここならサボっても先生には見つかりにくいし、落ち着いて話ができる。

 ふたつしかない椅子は既に平井さんと笑菜が使っていたので、僕は窓際に寄りかかる形で立ち位置を取った。

 一時間目の始業を告げるチャイムが鳴り終わると同時に、僕は重たい空気を切り裂く取って出しの一言を呟く。


「……聞いてなかった、ってことなんだよね? 榎戸君から」

 ひとことめ。反応はなし。

「普通だったら、絶対報告するレベルのことを、聞かされなかった。そういうことだよね?」

 ふたことめ。……虚ろな眼差しで、平井さんは小さく首を縦に振る。


「……そういえばちゃんと聞いてなかったけど。平井さんはさ、どうしたいの?」

 みっつめ。僕の問いに、彼女は一瞬目を見開く。

「榎戸君にプロになって欲しくないの? だとしたらどうして彼のサッカーを応援してるの?」

「……わかんないよ。わからないから、……悩んでるんだよ」

 わからない……か。


 自分の気持ちがわからなくて、先送りにし続けて、気がついたら取り返しがつかなくなっていて、後悔してももう遅くて。

 何においても、猶予時間っていうのはそんなに長くはない。いつだって、決めないといけないタイミングは、一瞬で。


「……高三の春でさ、もう進路だって固めないといけない時期でさ。……そろそろ、自分の気持ちに答えを出してもいいんじゃないかな。平井さんが、どれくらいの期間、わからなくて悩んでるかなんて僕は知らないけど」

 そのタイミングを逃して、何かが狂ったのが、僕なわけで。

 平井さんにも、同じ思いはして欲しくない。


「……決めるなら、今しかないよ」

 こんな思い、しなくていいならしないに越したことは、ないんだから。

「それで……榎戸君にはどうなって欲しいの?」

「……自分の夢、叶えて欲しいって思ってるよ、渉くんには。……でも、遠くに行っちゃうのは、嫌で」


 改めて尋ねると、平井さんはポツリポツリと、朝露が葉から零れ落ちるくらいのスピードで、心の声を漏らし始めた。平井さんの様子を認めた笑菜は、そっと彼女の肩を撫でて励まず。

「……だって、まさか東北行くなんて思わないよ……! それに、大学はきっと行くんだろうなってなんとなく思ってたから、こんな、いきなりプロ入りするなんて、想像してなかった」

 恐らく、榎戸君も平井さんがこう思っているのはなんとなくだけどわかっていたんじゃないだろうか。だから、言い出せなかった。


「……でも、そんな我儘言えないよ。言ったら渉くんを困らせるだけだから……だから、私は何も言わずにいい顔して、渉くんの練習に付き合って」

 零れ始めた朝露は、次第にその量を多くしていき、いつの間にか、

「……心の底では、これ以上上手くならなくていいのに、なんて思うようになって。……酷いよね、自分で言っていてぞわってするもの」

 知らなかった平井さんの本音が流れるように音になっていった。


「これ以上上手くならなくていい、試合も勝たなくていい、スカウトの人も来なくていい、渉くんが遠くに連れていかれちゃうなら、何も、なくていい。ずるいよね。表向きは応援してるふうにしているのに、裏ではこんなこと考えているんだから。……バチが当たったんだ。こんな酷いことを考えたから。……どのみち、こんな中途半端な気持ちでいたら、遅かれ早かれこうなるんだったよ」

 締めは、消え入りそうな声で呟かれる「……全部、自業自得だよ」という、自責の言葉。それで平井さんの話は終わった。


「ひとつ。聞いていい?」

「……何かな」

「平井さんも東北の大学行くとかは? それは選択肢にないの?」

 僕が聞くと、彼女は俯いたまま首を力なく横に振る。


「……無理だよ。家に私がひとり暮らしできる余裕なんてないし、仮にできたとしてもそれプラス私立なんて行けるわけもないし、かといって国公立だなんて……」

「……そっか」

 平井さんが我儘を言えたら、あるいは榎戸君が気を遣わずにはっきりと自分の目指す道を告げられたら、また違う現在があったのかもしれない。しかし、実際はこうなっているわけで。


「昨日。酒々井さんに話を聞いてきたんだ」

 さすがにこれ以上放っておくとふたりの関係が全部終わってしまう。そう危惧した僕は、タイミングは早いかもと感じつつも、酒々井さんから聞いた話の一部を平井さんに伝えることに。


「……え? あの、サッカー部のマネージャーの子に?」

「そう。それで、一昨日の件についても確認した。……決して、お互いにそういうつもりはなかった、って」

「そ、そういうつもりはない……って?」

「別にお互い好きだなんだって気持ちはないってことらしいよ。だから、その点に関しては安心していいんじゃないかな」

「……そ、そう、なの?」

 効果は多少なりともあったみたいで、ちょっとだけ、平井さんの様子が落ち着いた。


「……いずれにしろ、一度ちゃんと話すべきだよ。榎戸君が帰ってきてからでも」

「……でも、どうやって」

「機会が作れないなら、僕がなんとかするから。……なんとかするから、自分で諦めるのだけは、しちゃ駄目だ」

 そこまで話すと、一時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。


「……もう、時間かな。とにかく、悲観することはないから。まだ、できることは、ある」

 伝えるべきことは伝えきった。おもむろに平井さんは席を立ったと思えば、ペコリと僕らに頭を下げ、ゆっくりとした、だけど確かな足取りで教室に戻っていく。

 ……朝よりはマシになったか。


「ふぅ……それにしたって、息が詰まるよこんな話……」

 平井さんがいなくなったことで、ひとまず強張っていた体をリラックスさせ、へなへなと地べたに座り込む僕。

「……初芽ちゃんの本音を、あそこまで引き出すなんて思わなかったよ、つがゆう」

「よく他人事みたいに言うよ、ずーっと平井さんの肩さすっていたくせに。……おかげで場が落ち着いたよ」

「えー? 見てるねーつがゆうー。さっすがー」


 すると、わざわざ椅子に座っていた笑菜はとてとてと向かい僕の真横にすとんと座っては、小首を傾げてあることを尋ねる。

「にしても、平井さんへのお話が妙に説得力あったっていうか、ねえ? もしかして、経験談だったりする?」

「……はい?」

 鼻と鼻が触れそうな距離感。かれこれ何年も見続けた見慣れたぬいぐるみみたいに柔らかな笑みが、至近距離に映る。


「私気になるなー、つがゆうがどういう恋をして、そういう話を説得力持ってできるようになったのか、気になるなー私」

「……何、言って」

「わたしと知り合う前? 中学生のとき? それとももしかして小学生? きゃー、つがゆう甘酸っぱい、甘酸っぱいって」


「……そんなんじゃ、ないし。別に、経験談とか、そういうわけでもないし。……ただの、一般論だ」

「なーんだ、面白くないなー。私もつがゆうの恋バナ聞きたかったなー」

「……しつこいって」


 ずーっと笑菜が目と鼻の先でニコニコしているものだから、とうとう耐え切れなくなって僕は視線を逸らしてしまう。なんだか負けた気分になる。それと同時に、授業間の十分休みの終わりを知らせるチャイムが鳴る。まずい、と反射的に腰が数ミリ浮いたけども、


「……やべ、二時間目……」

「いいよー? 私は別に。つがゆうとこんなふうにのんびりするのも嫌いじゃないし──青春っぽくて、良くない?」

 笑菜のこの一言で、結局僕らは一時間目に続き、二時間目もサボることになってしまった。


「……どうするの? この後は」

 窓際に体育座りで並ぶと、コト、と笑菜は体の半分を僕の肩に預けてくる。

「……ふたりの根本的なすれ違いを解決させるよ」

「……根本的なすれ違い?」

 三十六度近くの温もりを制服越しに感じながら、僕は努めて冷静に自分の考えを言葉にしていく。


「平井さんは、きっと榎戸君に必要とされているかどうかを、不安がっている。だから、あんなに離れ離れになるのを嫌がっているんだ。自分が彼にとって必要ない存在であるってことの証左になってしまうから」

 平井さんはとにかく自己評価が低い。それは彼女自身の言動を見れば一目瞭然だし、僕らが駅前でナンパを撃退したときだってそう。とにかく自分を低く見てしまう子だ。


「榎戸君の練習に付き合い続けたのも、練習試合も欠かさず見に行ったのも、その際お弁当もきっちり作ったのも、全部全部彼に必要とされたいから。幼いときから自分を支えてくれた彼に対する、彼女なりの感謝の示しかたってやつだよ」

 榎戸君からすれば、お釣りが来るくらいの恩返しかもしれないけど。

「平井さんは『ああいう』性格だ。時間さえかければ榎戸君のプロ入りは理解をするはずだ。自分の我儘を通すとは思えないし。じゃあ、何をそんなに恐れているかと考えれば」

「……自分のやってきたことが、実は榎戸君の迷惑になっていたのではないか、ってこと?」


「本心はわからないよ? わからないけど、根っこはそこじゃないかなって。どんな状況になっても、平井さんは榎戸君のことを悪くは言わなかった。魅力がない自分が悪いとか、そっちのベクトルに理由を求めていたし」

 それに、平井さんは「夢を叶えては欲しい」と言ったんだ。全面的にプロ入りに反対しているわけではないんだ。


「……だから、解決は意外と単純でさ。ねえ笑菜。いっこ聞くけど、榎戸君は、平井さんの献身的な姿に、一回でもいい、『ありがとう』って言った?」

「……ううん、少なからず、わたしはそういうシーンを描いてない」

「じゃあ、僕が榎戸君に話すべきことは、つまりはそういうこと、だよね」

 恐らく、榎戸君のたったその一言でいい。平井さんの悩みは一瞬で氷解するはず。

「……つがゆうらしいね」


 僕の話を最後まで聞くと、ぼそっと笑菜はホッとしたように呟いた。

「いいんじゃないかな。きっと、上手くいくと思う」

 笑菜もそうリアクションを取ってくれるなら、方向性は問題ないはず。……あとは、榎戸君が学校に戻ってからの勝負。


「……ほんと、誰かのして欲しいことを考えるのは得意なのになあ、つがゆうは」

「え? な、何か言った?」

「ううんー、なーんでーもなーいよー」

 結局、二時間目が終わるまで僕と笑菜は、漫研の部室でひとしきり真面目な話をしてからは、取り留めのない話でサボりの時間を存分に使っていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る