第58話:白衣の鬼神(前)
「ええと、山本氏の研究室は……ああ、あったあった」
山本は国策で作られた理学研究所において、すでに私室を持つほどの待遇を受けていた。とはいえ、その私室はあまり使用感の無いものであり、彼自身もそこに来ることはめったに無かった。
と、いうのも、そもそも彼は以前記述したとおりすでにプライベートで研究所を所持しており、国家に献上することがさまざまな事情で難しい研究は主にそこでやっていたからだ。
すでに、山本が指揮する研究所で量産準備中の碧素ことペニシリンの貿易はすごい量の外貨を稼いでいる(一説には、日露戦争の借款を
後に大財閥ならぬ大血閥を率いる片鱗がこの当時すでに見えていたわけだが、一説には華族の座を財で射貫いたのではないかとささやかれるほどのその金満ぶりは、しかし表に出ることはほとんどなかった。理由までは定かでは無いが、一説には世界経済を支配できる額の金品をそろえることも可能だったその金満ぶりを秘匿したのは、後の(大日本帝国を除く国家の)大恐慌対策だったのではないかと言われている。
とはいえ無論、彼は国家機関の研究員である。そうである以上は、国益に沿う範囲で国家献上のための研究企画もきちんと立てており、決しておろそかにしているわけでは無かった。というのも、抗生物質の耐性菌問題とかのコントロールとかもあったのかもしれないが、山本によるとただ単に、彼の私権で持っている研究所の方が、国家権力を使って作った研究所より、研究能力が高いだけだという話であった。
……さすがに、眉唾だと信じたいが。
そして、山本は「珍しく」、その国策の理学研究所の私室で策を練っていた。そこに、侍従長達はお邪魔したようだ。
ノックが三回鳴る。特に来客の予定は無かったはずだが。
「入ってくださいな」
まあ、律儀にノックしているわけだし、敵では無かろう。
「失礼、山本孝三さんかな」
すると、見慣れないマスク&スーツ姿の何者かさんがぞろぞろと入ってきた。一応ここに来るまでに消毒は済ませているだろうが、研究所に入るんだったら途中で用意した白衣くらい着ておいてほしいものだ。
「ああ、はい、どちら様でしょうか」
一応、反感を収めようと努力しつつ、立ち上がる。さすがに実験中でもあるまいし、来客が来ている以上座ったままなのは拙かろう。
「私こういう者でね、薬の治験を申し込みに来た」
ふむ? 名刺なんて文化、この当時にすでにあっただろうか。あったとしても、このような名刺サイズの名刺なんて、果たしてあったのか? ……まあ、一応ある以上はあるんだろう、きっと。
「ああ、はい、山本と申します。何の薬の治験でしょうか」
名刺を受け取って、ひとまず自分の名刺……はまだないので、名札を強調して見せておく。写真付きではないが、この当時の写真の価値を考えたら別に無くても仕方ないだろう。
「ああ、例の脚気予防のやつなんだが……」
「ああ、必須酸一号でございますか。少々お待ちください」
……なんだ、またビタミン剤の治験か。このところ多いな。そんなに脚気がはやっているのだろうか。なんか山梨県の方では風土病もはやっているという話らしいし、オオカミこそいなくなったものの野犬の狂犬病対策はまだできていないらしいし、さーてどうしたもんか……。
研究室の薬品棚へ例の少年が去ったことを見届け、侍従長に感想を述べる付き添いの侍従、彼はまだ若いのか、あるいは潜入になれてないのか、うかつにも侍従長と発言してしまった。それに対して、慌てることなく、しかし強くとがめる侍従長。彼らは一応、薬問屋という名目で研究所に出入りしていた。
「……侍従長、思ったより普通の少年でしたね」
「しっ、ここでは侍従長じゃなくて、私は一介の医療関係者だ」
薬問屋が医療関係者かどうかは、若干読者世界の現代人には疑問符がつくかもしれないが、この当時はまだ抗生物質や麻毒加算のつくような薬品は発展途上ないしは未発見状態であり、薬を扱う問屋も、ある種立派な薬剤師系職業として成り立っていた。薬剤師ほどではないものの、簡易な試験も存在するし、何よりなり手が多かったためこの当時は薬剤師よりもよほどなじみのある「薬屋さん」であった。
「は、はあ……。しかし、前職が薬問屋だっていうのは本当だったんですね」
そして、この侍従長も意外なことに前職は薬問屋だったらしい。なぜ薬問屋だったのかは、一説には父か祖父の代まで皇室御用達の医師だったとも、あるいは小石川診療所のドンだったともささやかれているが、本人が何も言っていないため、噂の範囲でとどまっている。なお、明治天皇が糖尿病であると見抜いたのも彼ではあるのだが、山本少年が提案した対心臓病用の薬(機序は彼自身もそこまで憶え切れていなかったが、糖を意図的に尿から出す、という作用は知っていたらしい)を服用し始めてから劇的に症状がよくなっていることから、事前に好印象は持っていたのだが、あくまで今は仕事の時間であり、私見は慎むべきであった。
「なかなか、様になっているだろう?」
「はい」
そうこうするうちに、棚の箱からある程度まとまった数のビタミン剤、もとい、オリザニン作用のある薬品を取り出した山本少年は、若干こけそうになりながらも、体勢を立て直して箱を手元に置き直した後に、扉を開けて侍従長達の手元に置いた。
その箱は、若干の埃が見えた。衛生面がそこまで整っていないのか、あるいは山本少年が整理整頓などのインフラ整備が苦手なのか、それとも埃を見せざるを得ない事情があったのか、それは定かでは無い。
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