第57話:今宵の空も、中空の月

 明治43年3月15日の夜のことである。坊ちゃんこと山本少年は、珍しく夜に外を出歩いていた。と、いっても、屋敷の敷地内であり、夜桜見物程度の心持ちであった。当然ながら、いくら敷地内とはいえ、護衛はついており(「坊ちゃん」が特にお忍び行動を取らないので、ある種平常通りではあった)、使用人の「隊長さん」も一緒であった。

「坊ちゃん、良い月夜ですな」

「ああ、絵に描いたような月夜だ」

「……の、割には、不機嫌ですな」

「当然だろ? ……先方には不可抗力とはいえ無礼なことをしてしまった、正直、気が重い」

「ああ、それなら別に向こうは気に病んではおりませんでしたよ。むしろ、今まで待たせていたことの方を反省して下され」

「……ああ」

 三日月にしてはやや膨らんでいるその月夜は、しかし山本の屋敷内からはそこまで見えるものではなかった。と、いうのも、角度もであるが、そもそも夜だというのに明かりをつけるだけの余裕がある家だからか、窓から漏れる明かりが若干、無粋なほどに星空を見えなくしていた。

「さて、夜桜の写真も撮れましたし、戻りますか」

「ああ、わかった」

 さて、山本少年が何をしていたかというと、絵はがきの原稿を作る行為であった。無論、彼はただそれだけのために夜に外にいたわけでは無い、これには、ある策がからんでいた。

「さて、明日は先勝だ。占いなど信じちゃいないが、先勝であるということは戦勝にもつながる。ただの語呂合わせとはいえ、うってつけの日かもしれん」

「と、仰いますと……」

「少し、昼過ぎまでには仕掛けてみるぞ。詳細は以前説明したとおりでな、任せた」

「……ははっ」

 ……すべてが明らかになるのは、概ね20年が経過してからであった……。


 翌朝、山本少年がいつも通り、研究所に出勤する際に、珍しく留守居を守るはずの「隊長さん」まで外に出ることになった。使用人もそれは心得ており、昼食までには戻るという旨を理解していた。そして、研究所へ山本少年が入った頃のことである……。

「侍従長、本気でやるんですか……?」

「ああ、評判だけでは諮れんし、陛下の面前では猫をかぶることもあろう。普段の様子を調べてこいとのお達しだ」

「まあ、そうでしょうな。とはいえ、ばれませんか?」

「大丈夫だ、かの少年の「厄除面頬ヤクヨケメンポ」とかいう布をまとっていれば、表情もある程度ならごまかせるはずだ」

「はあ……」

 ……侍従長と呼ばれた男と、侍従や側仕が団体で「ある筋からの研修」という名目の下研究所に出入りしようとしていた。

 だが、この当時厄除面頬ことマスクはまだそこまで知っている人間は少ない。案の定……。

「ちょっと、そこの人」

「ん?」

「……こういう者なんだけど、事情を聞かせてもらって良いかな」

「……ああ、そういうことなら、此方もこういう者でね」

「! ……し、失礼致しました、お仕事中でございますか」

「おう」

 ……侍従長が官憲に呼び止められたが、侍従長も心得たもので何らかのバッジらしきものを見せたら、一瞬で官憲は自身の立場が下であることを理解し、立ち去った。だが、それによって彼らは目立ちすぎた。万全を期すならば、撤退すべきであった。だが……。

「……侍従長、強行する気ですか?」

「私ら、結構目立ってますよ……?」

「構わん、あの少年の評判が本当であるならば、それを証明するいい機会だ」

「はあ……」

 ……そして、侍従長達は研究所の入り口をくぐり、山本少年が出入りする研究所に見学に入った。

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