第37話:政府顧問・大蔵大臣秘書官山本孝三(14・新)
すぅー、はぁー。すぅー、はぁー。すぅー、はぁー。
……深呼吸をしても、やはり緊張するなあ。
明治43年、西暦に直して1910年。1月4日の仕事始めに、彼はまだ関東新邸内部に位置していた。一応、高橋是清との約定では送迎車が来るという話であり、実際来たのだが、彼は……。
「……大丈夫でございますか、坊ちゃん」
「……酔った」
……彼は、緊張感によるものか、あるいは別の要因があるのか、車酔いをしていた。
「大蔵省まではもう少し掛かるから、我慢して欲しいんですがねぇ」
下町訛りの運転手が、それなりに慎重な運転で山本孝三を送迎していたのだが、それでも彼にとってはかなり過酷なものであった。辛うじて吐いていないのは、矜持によるものか、あるいは事前に噛んでいたハッカの根っこの効能によるものか。
そして、どうにかこうにか大蔵省庁舎前まで着いた山本孝三は、あまり宜しくない顔色のまま、高橋是清を待っていた。
そしから、数分もしないうちに待ち人はやってきた。
「おお、来てくれたか少年!」
「は、はいっ!」
精一杯の返事をする山本。一方で人なつっこそうな笑みを浮かべた高橋は、山本を発見するや体格に見合わぬ速さで駆け寄った。
「浅学非才の身ながら、ご推挙して頂いたこと、感謝しております」
丁寧なお辞儀と共に謝辞を述べる山本、だが彼の心中はこんなものであった。
……たまたま百年少々ほど大きい巨人の肩の上に乗ってるだけでガチの素人なんだよなあ……。あんまり期待されても、困る。
それは、謙遜ではなく完全に本心であった。無理からぬことで、彼はあくまでも社会人になる前に泉下を迷った書生に過ぎなかった。過去、本を出したことはあるらしいが、碌に売れなかったのだろう。とはいえ、それが怨霊の源泉ではないようだったが。
「ああ、期待しているよ。ひとまずは大蔵省に椅子を用意してある、勅任官でなくて申し訳ないが、ひとまず高等官五等相当として扱わせて貰う。大蔵大臣の新任秘書官って形になるかな」
「…………」
こーとーかんごとー? ……幹部クラスなのは間違いないだろうけど、どれくらい偉いんだ、それ。
高等官五等相当とは、奏任官に相当し、いわゆる将校は皆高等官であるのだが、その中でも五等は最初の叙任としてはかなりの抜擢であり、山本孝三の名声を知らぬ者からすれば増上慢極まりないものであっただろう。とはいえ、あの高橋是清が推挙したわけであり、かの霊薬、抗生物質を発明し、脚気をも治しうる治療法を確立しつつある神童麒麟児である、周囲も不承不承自身を納得させていた。
「不服かね?」
高橋も、抜擢するならばもう少し上にも置けたのだが、流石に周囲との兼ね合いを考えたら高等官五等相当が限度であったのだ。そして、山本も慌ててそれを否定した。
「い、いえ、とんでもない! ……ただ、どれくらいの官位なのか見当が付かないので、当惑していた次第で……」
彼は、本当にその「高等官五等相当」がどれほどの高位かを理解していなかった。一応、「高等文官試験」に合格したら奏任官になれるのだが、そもそも高等文官試験(以下、高文)とは、一応名目上は誰でも受験できるとは言え難関試験の代表格であり、ほとんどが旧制東大こと東京帝国大学出身者が占めているほどの一校学閥常態であった。その東大閥を破壊できれば、という念も込められていたらしいのだが、それを彼が理解することは、生涯なかった(とはいえ、理由を聞かされて即座に納得する辺りが、彼らしいと言えば彼らしいが)。そして、高文試験合格者も、普通は九等(別の式で言えば「奏任官六等」、つまりは新任少尉と同等)から始まることを考えれば、高等官を五等から始めるのは大抜擢といえた。
なお、高等官五等相当は別の式で言えば奏任官三等に位置するためおおまかに言えば中央郵便局長や府県理事官、あるいは若手の大学教授と同等である。そう考えれば、彼は初手から公的身分としては恩師や主治医を抜いたのだが、それを彼が知った際には恐れ多さに驚愕ないしは愕然としたという。
「ん? ……それも、そうだね。何で喩えれば一番理解しやすいかな?」
そして、是清は彼がどの方面での知嚢を所持しているかの試験代わりにそれを聞いてみた。そして、返ってきた答えは、男子少国民らしい無邪気な回答であった。
「……同格の将校ではどれくらいになるのでしょうか」
さすがに、幹部クラスであることを考えて「軍人」ではなく「将校」と問うてみる山本。それに対して、事もなげに是清は返答した。そしてそれは、山本にとって仰天すべき内容であった。
「ん、いいよ。ええと……多分少佐くらいだろうね」
少佐。少佐とは本来、士官学校や兵学校を出てもそれなりに時間の掛かる昇進であり、また軍隊では「現場での集団への指揮能力」を問われる階級である。通常、それを持ち得ない人物はいくら軍務経験があっても大尉でお払い箱となることを考えた場合、彼は初手でその能力があると言われたに等しいものであった。なお、少佐以上と大尉以下は、軍隊の場合かなり明確に線引きされており、文官にそれが当てはまるとは限らなかったが、少佐が正六位相当と当初定められていた際に彼が却って安堵したのは、「生まれながらの貴族(従五位下以上)」という身分ではないという要素が、ある種の「自分は努力できたんだ」という安心感に繋がったと推測されている(その件に関しては本人からの証言がないため、推測でしかないが……)。
「い、いきなり少佐、ですか」
そして、彼は「少佐」という階級の重みが良く理解できていた。少なくとも、その辺の庶民にしては十全に、否、十二分に過ぎる程の理解であった。その知識の根源は定かではないが、彼は「少佐」という階級がいかに重要なものであるかを、よく知っていた。ゆえに、その重圧がのしかかったことに、非常に当惑していた。
「まあ、兵科以外の所ではいきなり少尉から始まる科もあるし、あんまり気にしないで良いよ。あくまで、君にとってわかりやすい喩えで言っただけだし。……と、いうよりは……」
是清は、試験のつもりで問うた。つまりは、眼前の少年はどんな方向で活躍できるかということへの問いだ。そして、彼は軍人と回答した。無論、彼自身軍人になりたいというわけではなく、あくまで階級というものを一番理解、直感しやすいのが軍人であっただけであり、その理由を次のように語る。
「軍隊の階級は古今東西殆ど同一ですから」
「……」
是清は、それに対して若干の危惧を抱いた。その理由は、本人にも理解できていなかったが。
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