第31話:高橋名人の挑戦状(後)

   よろよろと出てくる坊ちゃん。はて、高橋様と一体何があったのだろうか?

 「爺」が心配そうに見つめる中、「坊ちゃん」こと山本孝三が応接室から出てきた。その顔は明らかに疲労困憊といった体であり、同時に憔悴しきっているのが傍目から見て明らかなほど、異常なものであった。たまらず、駆けつけてくる使用人。

「坊ちゃん、いかがなさいましたか!?」

「……とりあえず、休ませて……」

 部屋からつかまり立ちのように這い出て、そのまま応接室の前にあるソファに倒れ込む孝三。彼がここまであからさまに憔悴した姿は、使用人が今まで見たことの無い状態であった。

「は、はい。おい、そこの!」

 急ぎ、使用人を指揮し始める「爺」。下男や下女、そして執事や女中の類いが慌ただしく動き始めた。

「は、はいっ! 急ぎ寝具担当の女中を呼んで参ります!」

 動き始めた使用人を満足そうに見た「爺」は、かなり真剣な表情をして高橋是清に向き直った。その眼光は鋭く、高橋是清は内心、「坊ちゃん」以外にも有能な人物がいるな、と驚嘆していた。

「うむ。……高橋様、何があったかは解りかねますが、本日のところはお引き取り下さいませ。ここまで憔悴しきった坊ちゃんは、今まで見たことが御座いませぬが故」

「ん? ……ああ、そのつもりだよ。それじゃ、答えを期待しているよ、「坊ちゃん」」

 莞爾の表情で意気揚々と退出する高橋。その脳裏は眼前の小僧が予想外の、在野の逸材であったことを確認できたことでいっぱいであった。



「……して、坊ちゃん、何がありましたか」

 「爺」が「坊ちゃん」に気付けの何かを飲ませ(なお、その「気付けの何か」も「坊ちゃん」の発明品であったのだが、まあ些細な事だろう)、落ち着かせはじめた。一方の「坊ちゃん」は、ほうぼうのていでかろうじて口先だけは動かせたのか、驚くべき事実を口にした。

「内閣に顧問として招かれたぁ~……」

『なッ……!!』

 使用人達は、驚愕した。前々から傑物と言いうる眼前の「坊ちゃん」であったが、どうやら本物の傑物であったらしい。そして、「坊ちゃん」はその重みに耐えきれなかったのか、或いは高橋氏との問答が堪えたのか、完全に泣き顔になって「爺」にこう懇願した。 

「いろいろ聞きたいことはあるだろうけど、まずは休ませてぇ~……」

 「坊ちゃん」が使用人に甘えることはかなり珍しいことであった。初めてと言っても良い。ゆえに彼等も、はしたないと叱るのではなく、唯々諾々と従った。

「か、畏まりました。寝具担当の女中を呼んでおりますので、今しばらくお待ち下され」

「うん~……」



 そして、よがあけた!



「さて、坊ちゃん。昨夜の話でございますが……」

 一夜明け、「坊ちゃん」の表情が相変わらず暗いままであったことを見て取った「爺」は、一応話を振るべきか、と思い、昨晩の「顧問登用」の件を問い質すことにした。一方で。

「……やっぱ、断るべきだよねえ……」

 「坊ちゃん」は完全に気後れしていた。無理からぬことだ、何せ彼は10代である。少なくとも、外見年齢は。そして中身がいかに30代前後といえど、あくまで庶民に過ぎない。帝王学など欠片も学んだことのない小市民であった。その「小市民」が国政を動かしうる立場に推挙された。気後れするのは、ある意味当たり前であった。だが。

「……なぜでございますか?」

 「爺」は真剣な顔で聞き直した。「坊ちゃん」の今までの行動は、それなりに整ったものであり、同時に国政を動かしうることを前提としたものも多かったことから、「坊ちゃん」はこの事態を「読んでいる」はずであると思っていたからだ。

 とはいえ、「坊ちゃん」の心配事は、実際の所もう少しずれたものであった。

「だってさ、俺まだ10代だぜ?いくら超法規的措置とはいえ、拙いと思う」

 ……「坊ちゃん」の懸念、それは国家の黎明期に変な前例を作るのは拙い、というものであった。とはいえ、これは流石にいくら何でも「前例」として作るには異例過ぎる事態であり、同時に実は空前絶後であったのだが、それを知る者は、まだ誰も居ない。

「……しかし……」

 そして、一方の「爺」もまた、「坊ちゃん」の弱音発言がそこまで本心ではないことも、なんとなく察していた。否、一応、「坊ちゃん」の本心は「不安」なのであるが、それでも眼前の「坊ちゃん」が実際の所それを勤め上げるだけの才があることも、彼は知っていた。

「いや、勤め上げるだけの知嚢はあるさ。それは自分でもわかってる。でもさぁ、覚悟も無けりゃ度胸も無い、ただの子供が出入りしていい場所かい?」

 ……実際の所、「坊ちゃん」の懸念というものは、政治闘争に巻き込まれた際の身の安全、というものもあったのだが、それに関しては、「爺」は「坊ちゃん」を安心させるように微笑み、こう告げたという。

「……それならば、爺にお任せ下さいませ」

「……え?」

「高橋様ともあろうお方に招かれたのなら、政治工作は恐らく済んでいると思っても大丈夫でしょう。そうではなく、坊ちゃん自身に度胸が無いと仰せで御座いますれば、既に爺に策が御座います」

「……本当かぁ?」

 半信半疑の「坊ちゃん」だが、「爺」の発言が外れたことがないことを以て、彼も腹をくくることにしたようだ。

「ははっ、お任せ下さいますな?」

 ……そして、いよいよ歴史は音を立てて動き始める。

「……良いだろう、宜しく差配せよ」

「ははっ」

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