第22話:今上陛下、ご無事で!?

「……それが、この薬か」

「はい、心臓病用の薬品ではございますが、糖尿病にもある程度は利いてくれるかと存じ上げます」

 明治42年夏、三鷹の研究所にて山本孝三は新薬の発案を提出していた。読者世界で言うところの「エンパグリフロジン」、つまりはグルコースを排出させるための薬であるのだが、彼はその薬が心臓病用であると偽り(一応、彼の死後に心臓病も治せることが判明したので嘘では無いのだが)提出することにした。なぜ、前世特に糖尿病ではない彼がそんな薬を知っていたのかは謎である(彼の親族や知人には医療関係者が多数いたため薬品情報がそれなりに入ってきたからかもしれない)が、何にせよ彼は明治天皇、この時代はまだ今上帝であるが、の病名を知っており、ゆえに早速前世知識を回転させて「エンパグリフロジン」を提出した。

「……まあ、良かろう。しかしまあ、少し驚いたぞ。なぜ陛下が糖尿病であることを知っていた」

 研究所の人間は驚いていた。何せ、昭和末期から平成後期までが前世だから明治天皇の死因を知っているなどとは、さすがの山本も言えず、ゆえに彼自身も、カンニングの模範解答を作り始めていた。とはいえ、彼が今から言う言葉は、それなりに説得力はある(何せ、史実のことを言えば良い)わけだが。

「畏れながら……陛下は、酒量が多いですし、老体でおられます。急に活力が減少するのは、糖尿病の典型的症状でございますが故」

「……なるほどの。その年齢で岡山医専を卒業できたのは伊達や酔狂ではないようじゃの。……よかろう、おぬしの責任の下、陛下にご相談しておこう」

「ありがとうございます!」

 最敬礼でお辞儀をする山本。とはいえ、眼前の子僧の提案は如何にも面妖であった。案の定室長は、失敗したときのことを考え始めていた。いかな神童麒麟児にして、脇坂子爵の推薦状があるとはいえ、新薬ですらない試作品を、しかも陛下を治験対象にするが如き行為は、今までの山本が持つ名声をなげうっても、なおも危険視されるものであった。

「とはいえ……しくじった場合、どうするつもりだ」

「……研究所の退職、もしそれでも利かなければ医師免許を返上致します」

 実はこれ、山本孝三にとっては無いも同然の返上宣言であった。何せ彼が考えた人生設計にとって、この三鷹にある研究所に属するのも、医師免許を獲得したことも、想定外のボーナスだったわけで、ゆえに彼は、初めからあぶく銭を賭け金にするが如き行為を発言した。とはいえ、そんなことは眼前の研究所室長には判るわけも無く。

「よう言うた!なれば、きちんと御前会議には掛けておく。山本、発明次第ではお前、男爵くらいにはなれるかもしれんぞ」

「……成功することを祈らせて頂きまする」

「そうだな。そうしておけ」

「それでは「少し待て」……は、やはりなにかせぬと拙いでしょうか」

 そして、帰りの汽車に乗るために研究所から出ようとする山本を、さきほどの室長が呼び止めた。とはいえ、その原因は彼もまた、察しの付くものであった。

「……ああ。折角研究室まで来たんだ、なにか他に案があれば出して行け。少しは、発明品を抱え込まずになにか提供する気はないか」

 ……そう、即ち、あまりにも画期的な薬品を、全てその権利を抱え込む行為は、さすがに褒められたものでは無かった。何せ、大日本帝国は貧乏な上に、まだ不平等条約も改正できていないのだ、カンフル剤として使えるものはなんでも使いたい。即ち山本がやってきた今までの行為は、鴨が葱を背負って火打ち石までぶら下げて鍋を船にして泳いでいるがごとき行為であるのだから、ある意味それは放置するのは危険極まりない行為でもあった。

「……リンゲル輸液の改良版ならば、提出したはずですが」

 いけしゃあしゃあとリンゲル液の改良版を提出したから良いではないか、と告げる山本。とはいえ、それは先程の例えで言えば、「だし汁は作ったからもういいだろ」と言わんがごときものであった。そして、室長は眼前の鴨肉山本にまだ発案がないかゆさぶってみることにした。とはいえ。 

「……もう少し、薬らしい薬はないのか?」

「そ、そうですなあ……」

「……目が泳いでおるぞ」

「……申し訳ございません、今回の陛下への献上薬が今の精一杯でございます」

 ……実は山本には、まだまだ腹案は存在した。存在したのだが、あまりに多くの薬品を告げた場合、さすがに彼自身もアンチョコができなくなることを考え、告げないでいた薬品も存在したわけだ。とはいえ、平成の合成薬品を、一般名だけだとしても、覚えているだけでもこの当時においては貴重極まりないものであった。

「本当かぁ?」

「……判りました、脇坂子爵に言伝をお願い致します」

 ……そして彼は、技術暴走のブレーキを手放した。いろいろなことを諦めることの引き換えに、彼は明治の偉人達の寿命を延長することになる。

「おう、その程度なら任せておけ。……それとも、幼妻に早く逢いたいのか?」

「……そうだと言えば?」

「嫉妬に気をつけろよ。あるいは、何日か研究所に籠もるか?」

「はは……やむを得ませぬな」

「そういうことだ」

 そして、山本孝三の研究生活が始まった。一応、長期休暇の時期までには解放される約束ではあるのだが、その間に彼が発明した薬品は、非常に多岐に亘るものとなる……。

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