第2話:山本少年の未来図について

 明治38年9月11日、いつものように彼は新聞を読んでいた。まだ10にも満たぬ年齢であったものの、彼は早くも各社の報道体制の違いを見抜いていた。

 何せ、後に成人後国会議員となった彼が「東朝めさまし新聞系列と一ツ橋財閥は我に取材を行うことを禁ずる、もし記者が屋形に侵入した場合、さすがに殺害は拙いとしてもそれ以外の方法ならば多少荒々しい方法でも構わないので物理的な排除を行っても良い」と言い放つ程度には彼は(理由は全く不明ながら)東朝新聞社や東日新聞社及びその両者の大阪本社、そして一ツ橋グループなどを非常に嫌っていた。

 彼は基本的に合理的な人間であり、首相に着任した際にも第一に表現の自由を掲げるなど徹底した自由主義者であったが、その分彼自身も「好悪自由」と称して好き嫌いが明確であり、特に一ツ橋グループと東朝系列の新聞社においては「表現の自由がある以上、解散命令を出すつもりは無いが、正直廃刊に追い込みたい」としばしば愚痴をこぼしていたことが公的記録にすら残っている。後に、政治的圧力を掛けることなく、売り上げの面で圧倒して解散に追い込むのだが、それは以下の通りだ。

 何せ、一説によると自身で立ち上げた雑誌、「古城門」は対一ツ橋グループ用の、そして後に「自由に動くため」と称して政界を退くことを明言(後に「国民の支持により撤回」という一報と共に退かなかったものの)した際に、「財はあるが独占する気は無い。美田を少し残す程度には子々孫々に渡すが、根本的に私は研究者であろうし、文豪で居たい」として立ち上げた新聞社である「旭光文芸新聞社」は東朝新聞社を潰すつもりで立ち上げたのが誰の目にも明らかであるほど露骨であった。

 なぜ、彼はそこまで好悪を明らかにすることが多かったのか?ここで書いたのは旧名とはいえ東朝新聞社の悪行は今更読者の皆に語らずとも恐らく少し調べればたくさん出てくるだろうが、一ツ橋グループに対しては「奴儕が何か新事業を立ち上げたらこちらも即座に「報復として」同じ事業を立ち上げ、完封せよ」と事実上の封殺命令を出しているのだ。後の回顧録には「あの漫画が嫌いだからだ」と書かれているが、その直後に「題名すら言いたくは無いがな」と書かれてもいるので、恐らく一ツ橋グループが創刊した雑誌のある漫画を敵視した結果であろうとされているが、それがなんであるかは、彼が墓まで持って行ったこともあって今だ明らかでは無い。

 ……話を戻そう。再来年には、或いは来年度からは中学生となる予定であるの少年であったが、彼はなぜか学校というものが大嫌いであった。とはいえ、回顧録には「いつ虐待を受けるかわからないと戦々恐々としていた」と書いてあるものの、地方とはいえ、否、地方だからこそ名士の息子を虐待などしようものならば木っ端役人である教諭などよくて教壇より追放され社会的に叩き潰されるか、或いは最悪の場合物理的な命すらも奪われるであろうに、なぜそこまで怯え、教職員というものや級友というものを憎悪ないしは脅威に思っていたのかは謎であった。

 後に、「学徒解放令」という発令をする際に、教室の全てに監視カメラを設置した上にそれを街頭上のテレビに中継させたり(一説には、テレビの開発を急いだのは軍事目的ではなく学校という閉鎖空間を誰の目にも見える形にしたかったとも言われており、事実その旨が公言されている)、教職員の権限を可能な限り削り続けたのは、恐らく教諭というものや教育者という職種が嫌いであったのだろうが、なぜ特に危害を加えていないはずの教諭等を目の敵にしたのかは、これも墓まで持って行ったこともあって未だに明らかになっていない。

 具体的に例示するだけでも山本が代議士になった際に発言し、真っ先に文部大臣として実行に移したものは例えば、

「教育関係者は、教育殖産が国力増強のために存在する以上、たとえ私立学校と言えども労働組合を初めとした意思表示団体を設立することを禁ずる」や

「徴兵を逃れるためなど、教育者として最低限必要であるべき意すらも持たぬまま教育関係者になろうとする場合、最低限でも無給(10割減給)などの罰則を設ける」、そして

「如何なる理由においても体罰と称して暴力を振るった教諭はその場で免許を抹消し暴行罪ないしは傷害罪として刑務所に叩き込む。物理的虐待以外における心理的圧迫などの虐待の場合もまた、同じく刑務所に叩き込む」、挙げ句の果てには

「虐待があったにもかかわらず事実を否認し続けたり虐待を半月以上の長期に亘るまで放置していた教諭は懲戒として「処罰を行う」など。

 そして一番強烈であったのは「もし教育関係の職業を経験した者がわれすなわち山本孝三への報復行為を試みるならば、例えばすなわちわれの遺伝子が少しでも入った子々孫々などへ指一本でも触れたならば、喩えわれが死した後であっても必ず処罰する。生まれたことを、報復に挑んだことを後悔させてやる。そのための法だって作る予定だ」

という、いわば「教職追放令」と称される諸法のかなり強引な形の法目制定などが挙げられ、その全てがある程度合理的であったがために特に反対意見は出なかった(何せ、割を食うのは教職員だけであり、彼等には抗議権というものが前述の通り存在しなかった)が、臣民は皆なぜ文部大臣がここまで狂ったかの如く怒り心頭に発していたのかについては疑問ないしは無関心を決め込んだという。

 あるいは、閣僚抜擢で推任を受ける際に真っ先に文部大臣を志願したのも教育関係者を統率ないしは監視するためだったとも言われているが、さすがにそこまでは邪推に過ぎようか。

 ……それはそうと、彼は9月11日の新聞を、いつもは読書係に要約させていることも多かろうに、なぜか隅から隅まで読み、学校に遅刻しそうになるほどであったのだが、彼は後に「嫌な予感がした、その該当する記事は存在しなかったものの」と回顧録に書かれており、一体何の記事を危惧していたのかは、例によって例のごとく墓まで持って行った事もあって定かでは無い。

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