魏書巻33 後燕よりの帰属者2

宋隠   無若父也

宋隱そういん、字は處默しょもく西河郡さいがぐん介休県かいきゅうけんの人だ。曾祖父は宋奭そうせきしん昌黎太守しょうれいたいしゅ。後に慕容廆ぼようかい長史ちょうしとなった。祖父は宋活そうかつ中書監ちゅうしょかん。父は宋恭そうきょう尚書しょうしょ徐州刺史じょしゅうしし慕容儁ぼようしゅんぎょうに都を移した歳、宋恭ははじめて廣平郡こうへいぐん列人県れつじんけんに居を構えることとなった。


宋隱はきわめて親孝行であり、13 歳にして成人と変わらぬ志操があった。学問に精を出し、例え周辺で争乱が起ころうと、学問一徹の志をゆるがせにしようとは思わなかった。やがて慕容垂ぼようすいに仕え、尚書郎しょうしょろう太子中舍人たいしちゅうしゃじん本州別駕ほんしゅうべつがを歴任。拓跋珪たくばつけい中山ちゅうざんを陥落させると、尚書吏部郎しょうしょりぶろうに任じられた。拓跋珪が平城へいじょうに帰還するにあたって後事は拓跋儀たくばつぎに任されたのだが、このとき宋隠も官位はそのままで拓跋儀の補佐にあたることとなった。やがて行臺右丞ぎょうだいうじょうとなり、領選りょうぜんであることはもとのままだった。


この頃の宋隠はしばしば引退を願い出ていたのだが、拓跋珪からの承認は得られなかった。やがて母親が死亡、宋隠は服喪のため列人に帰還。葬儀が終わると、服喪せず復職せよとの命が下ったが、病を理由に固辞を続けた。やがて州郡からの召喚の圧力が甚だしくなったため、宋隱は妻子を置いて行方をくらませ、後には長樂ちょうらく經縣きょうけんに潜み、その地で数年を過ごし、死亡した。


死の床にあり、子姪らに言っている。

「およそひとたるもの、家庭内では父や兄に従い、外に出てはふるさとのともがらに恭しく接し、郡に仕えては幸いにも功曹の官職を賜り、忠清を以て奉職に励む。これで十分であるのだ。どうしてはるばる遠方の王城に詣でねばならんのだ。わしはただ、お前たちが満足に財貨を得ることもなく、いたずらに宮城の門の飾り程度になってしまうのが恐ろしくてならぬのだ。もしお前たちがわしの言葉を忘れるようであれば、その評価を『父に従わない』とするからな。鬼がそのことを知らせに来たならば、わしももはやお前たちの元に返ってこようとは思わぬ」


息子たちは割とこの遺言を忠実に守ったようである。




宋隱,字處默,西河介休人也。曾祖奭,晉昌黎太守。後為慕容廆長史。祖活,中書監。父恭,尚書、徐州刺史。慕容儁徙鄴,恭始家於廣平列人焉。

隱性至孝,年十三,便有成人之志,專精好學,不以兵難易操。仕慕容垂,歷尚書郎、太子中舍人、本州別駕。太祖平中山,拜隱尚書吏部郎。車駕還北,詔隱以本官輔衞王儀鎮中山。尋轉行臺右丞,領選如故。屢以老病乞骸骨,太祖不許。尋以母喪歸列人。既葬,被徵,固辭以病,而州郡切以期會,隱乃棄妻子,間行避焉。後匿於長樂之經縣,數年而卒。臨終謂其子姪等曰:「苟能入順父兄,出悌鄉黨,仕郡幸而至功曹史,以忠清奉之,則足矣,不勞遠詣臺閣。恐汝不能富貴,而徒延門戶之累耳。若忘吾言,是為無若父也,使鬼而有知,吾不歸食矣。」


(魏書33-1)




宋隠の中には代々慕容氏に仕えていた誇りがあったんでしょうね。けど息子たちにしてみりゃ知らんわ、そんなことより食い扶持だ、みたいな感じだったのかも。それにしても祖父や父の官位に「燕の」って書かれていないのが面白い。この辺も北魏初期には割と燕の後継国家としての自認があったんじゃないかなあって印象があります。もちろんそんなん孝文帝が認めるはずもないでしょうけど。


訳出にあたり、くらすあてね様よりのご指摘を頂戴して修正しました。ありがとうございます!

http://liuyu.seesaa.net/article/499456897.html?1684880514

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