崔逞3  兄の墓誌

崔逞さいていには七人の子がいた。二子は早くに死に、以後崔義さいぎ崔諲さいいん崔禕さいい崔嚴さいげん崔賾さいさくと続く。崔逞は平城へいじょうに移ったとき、もしかしたら助からないのではないかと懸念した。そこで妻の張氏ちょうしと四人の子については冀州きしゅうに留め置き、なにかあったら慕容德ぼようとくの元へ亡命するよう伝えていた。このため妻は子を引き連れ、廣固こうこに亡命。崔逞は末子の崔賾とともに平城へいじょうにあった。崔逞の死は、またこうした態度に対する譴責でもあった。


その崔賾は、字を泰沖と言う。はじめ太子洗馬たいしせんばとなり、後に散騎常侍さんきじょうじとなり、清河侯せいがこうに封じられた。後日、拓跋燾たくばつとうのもとに劉宋りゅうそう劉義隆りゅうぎりゅうが崔賾の兄である崔諲を冀州刺史きしゅうししに任じた、と言う報せが届く。そこで拓跋燾が崔賾に言う。

「劉義隆はそなたの兄を用いる、と言うことを知っておったようだ。しかし我が元にも冀州はあるのだ」

そうして崔賾を平東將軍へいとうしょうぐん冀州刺史きしゅうししとした。440 年ころに死亡した。



崔逞の兄、崔適さいてき。字は寧祖ねいそ。彼もまた名声を博していた。慕容垂ぼようすいのもとで尚書左丞しょうしょさじょう范陽はんよう昌黎しょうれい二郡太守にぐんたいしゅとなった。




逞七子,二子早亡,第三子義,義弟諲,諲弟禕,禕弟嚴,嚴弟賾。逞之內徙也,終慮不免,乃使其妻張氏與四子留冀州,令歸慕容德,遂奔廣固。逞獨與小子賾在平城。及逞之死,亦以此為譴。

崔賾

賾,字泰沖。初為太子洗馬,後稍遷散騎常侍,賜爵清河侯,後世祖聞劉義隆以諲為冀州刺史,乃曰:「義隆知用其兄,我豈無冀州也。」乃以賾為平東將軍、冀州刺史。又為大鴻臚,持節策拜楊難當為南秦王。奉使數返,光揚朝命,世祖善之。及驃騎大將軍、樂平王丕等督諸軍取上邽,使賾齎詔於丕前喻難當奉詔。後與方士韋文秀詣王屋山造金丹,不就。真君初卒。

崔適

逞兄適,字寧祖,亦有名於時。慕容垂尚書左丞,范陽、昌黎二郡太守。


(魏書32-4)




??? 十六国春秋では崔適、崔逞兄弟が「死を得ることができなかった」と書かれているんですよね。これは北魏のもとで人生を全うできなかった、と言う意味でとらえておくといいのかな。まあ、それ以上を掘ろうとしたらどうしても墓誌頼りになってしまいそうですね。北魏墓誌ってどんな人が見つかってるのかしら。探ってみよう。


http://csid.zju.edu.cn/tomb/stone/detail?id=40288b955ab29f4b015b9fa0c6a400a5&rubbingId=40288b955ab29f4b015b9fa0c6af00a6


【其一】燕建興十年昌黎太守清河武城崔遹。

【其二】燕建興十年昌黎太守清河東武城崔遹。


で、魏書校勘には「北史卷二四「適」作「遹」。張森楷云:「據其字『寧祖』,似以作『遹』為是。」按「遹」有紹述、繼承之義,張說是。」とありました。張森楷ちょうりんかい曰く、「北史で崔適はで崔遹さいいつと書かれている。あざなの寧祖は遹と意味が近似している。「遹」とは繼承などを意味している訳で、魏書よりも北史の記述が正しいと判断すべきである」とのことです。なるほどー! にしてもジャストミートでこの伝に載る崔適さん、北史で言う崔遹さんの墓誌新城当たってしまったわけです。そんな偶然ある?????

それによれば崔適さんは建興十年、すなわち 395 年、参合陂が起こる年に亡くなっています。参合陂の前に死ねていれば、その後の後燕の衰運を見ずに済んでいる感じですね。

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