崔逞3 兄の墓誌
その崔賾は、字を泰沖と言う。はじめ
「劉義隆はそなたの兄を用いる、と言うことを知っておったようだ。しかし我が元にも冀州はあるのだ」
そうして崔賾を
崔逞の兄、
逞七子,二子早亡,第三子義,義弟諲,諲弟禕,禕弟嚴,嚴弟賾。逞之內徙也,終慮不免,乃使其妻張氏與四子留冀州,令歸慕容德,遂奔廣固。逞獨與小子賾在平城。及逞之死,亦以此為譴。
崔賾
賾,字泰沖。初為太子洗馬,後稍遷散騎常侍,賜爵清河侯,後世祖聞劉義隆以諲為冀州刺史,乃曰:「義隆知用其兄,我豈無冀州也。」乃以賾為平東將軍、冀州刺史。又為大鴻臚,持節策拜楊難當為南秦王。奉使數返,光揚朝命,世祖善之。及驃騎大將軍、樂平王丕等督諸軍取上邽,使賾齎詔於丕前喻難當奉詔。後與方士韋文秀詣王屋山造金丹,不就。真君初卒。
崔適
逞兄適,字寧祖,亦有名於時。慕容垂尚書左丞,范陽、昌黎二郡太守。
(魏書32-4)
??? 十六国春秋では崔適、崔逞兄弟が「死を得ることができなかった」と書かれているんですよね。これは北魏のもとで人生を全うできなかった、と言う意味でとらえておくといいのかな。まあ、それ以上を掘ろうとしたらどうしても墓誌頼りになってしまいそうですね。北魏墓誌ってどんな人が見つかってるのかしら。探ってみよう。
http://csid.zju.edu.cn/tomb/stone/detail?id=40288b955ab29f4b015b9fa0c6a400a5&rubbingId=40288b955ab29f4b015b9fa0c6af00a6
【其一】燕建興十年昌黎太守清河武城崔遹。
【其二】燕建興十年昌黎太守清河東武城崔遹。
で、魏書校勘には「北史卷二四「適」作「遹」。張森楷云:「據其字『寧祖』,似以作『遹』為是。」按「遹」有紹述、繼承之義,張說是。」とありました。
それによれば崔適さんは建興十年、すなわち 395 年、参合陂が起こる年に亡くなっています。参合陂の前に死ねていれば、その後の後燕の衰運を見ずに済んでいる感じですね。
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