于栗磾2 VS劉裕軍

劉裕りゅうゆう姚泓ようおう討伐に出たと聞くと、于栗磾うりつていはその周辺の治安が乱れるであろうことを憂慮し、河上かじょうに砦を築き、自ら守備の任に当たった。その防衛体制は徹底したものであり、劉裕軍の偵察をすべて退けた。劉裕は于栗磾を大いにはばかり、北魏領内へ進軍すること叶わなかった。


劉裕は于栗磾に手紙をもたらし、孫權そんけん關羽かんう討伐のため魏に道を借りた故事を引き合いとし、道を借り西方へ遡上したい旨を訴えた。その題書には黑矟公こくぼこう麾下きか」とあった。于栗磾はこの手紙を拓跋嗣たくばつしのもとに送り届け、判断を仰いだところ、認可が下された。さらにまた黑矟將軍の号が与えられた。


于栗磾は好んで黑い矟を持ち、自らの居場所として掲げていた。これを劉裕は遠目から見て、やつはヤバい、と認識していた。劉裕よりの異名には、こうしたいきさつがあった。


劉裕死後、奚斤けいきん虎牢ころうを攻めるにあたり、于栗磾は別動軍を率い洛陽最大の城塞、金墉城きんようじょうを攻撃。守将の王涓之おうけんしは城を放棄し逃亡した。

于栗磾は豫州刺史よしゅうししとなり、將軍合はとどめ置かれ、新安侯しんあんこうに進められた。


洛陽は歷代の国が都としてきていたが、五胡十六国時代に入って以降はほぼ捨て置かれていた。城壁は草に覆われ、周辺で炊事の煙が立ち上ることもなかった。于栗磾はこうした荒れ果てた状態を切り開き、集まってきた民衆を慰撫した。恩徳及び刑罰が定められ、周辺住民を大いに慕わせた。拓跋嗣が都の平城へいじょうより南下、洛陽の北にある黄河こうがの渡し場、盟津めいしんにまでやってくると、于栗磾に問う。

「黄河に橋を掛けられるかね?」

于栗磾は答える。

杜預とよが橋を掛けておりますれば、叶えられぬこともございますまい」

そうして大船の船団を編み、並べて、冶坂やはんに橋を渡してみせた。拓跋嗣の軍がみな黄河を渡りきると、拓跋嗣は深く嘆じ、于栗磾を讃えた。




劉裕之伐姚泓也,栗磾慮其北擾,遂築壘於河上,親自守焉。禁防嚴密,斥候不通。裕甚憚之,不敢前進。裕遺栗磾書,遠引孫權求討關羽之事,假道西上,題書曰「黑矟公麾下」。栗磾以狀表聞,太宗許之,因授黑矟將軍。栗磾好持黑矟以自標,裕望而異之,故有是語。奚斤之征虎牢也,栗磾別率所部攻德宗河南太守王涓之於金墉,涓之棄城遁走。遷豫州刺史,將軍如故,進爵新安侯。洛陽雖歷代所都,久為邊裔,城闕蕭條,野無煙火。栗磾刊闢榛荒,勞來安集。德刑既設,甚得百姓之心。太宗南幸盟津,謂栗磾曰:「河可橋乎?」栗磾曰:「杜預造橋,遺事可想。」乃編次大船,構橋於冶坂。六軍既濟,太宗深歎美之。


(魏書31-14)




うーん、このあたりで功績が爆発してますし、それならのちのち貴顕となるのも納得なんですが、なら伝のはじめの方にあった「冠軍将軍」ってなんやねんって感じなんですよね。どう考えても侯爵か男爵くらいになる功績挙げてないとつけないでしょそんな官位。これ冠軍参軍だったりしないかなあ。北史だとどうなのかしら。


登國中,拜冠軍將軍,假新安子。與甯朔將軍公孫蘭,潛自太原,從韓信故道,


うーん、やっぱ冠軍だ。仮爵がいったいなんなのかにもっと踏み込まないとだめかなあ。

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