第四話「齟齬も積もれば」



 殺風景な部屋の中で、少女は目を覚ました。



「………………」



 部屋の中は薄暗く、カーテンから漏れる薄明かりだけが部屋の中に光をもたらしている。

 少女が見つめる天井は白く、壁の上半分も同様に白い。

 下半分は明るい木目調の壁紙になっており、どこを見ても目に優しい部屋となっている。


「……けほっ」


 少女が軽く咳き込むと、マスク式の人口呼吸器が一瞬白く曇る。

 そして咳の音でベッドの隣の椅子で眠っていた少女の母親も目を覚ました。

 

「あっ」


「…………」


「おはよう」


 少女は母親を一瞥して、それからまた天井に目線を戻す。

 若干虚な目をしていて、その視線が天井を見ているのか、将又はたまた虚空を見つめているのか、はたから見ただけでは判別が付かない。

 ただ、時折瞳を動かして周囲の状況を探っているようでもあった。

 そんな少女に対して母親もそれ以上は何も言わず、ただ優しく少女の手を握る。


「…………」


 静かな空間に、窓の隙間から入り込む少し冷たい風が、外界の音を招き入れる。

 車の音、人の声、そしてたまに救急車のサイレンの音。

 時々鳥の囀りも聞こえて、すぐに遠ざかっていった。


「眩しくない?」


 聞かれて、少女は力無く首を振った。


 現在部屋の電気はついていないが、透明なカーテンから橙色の光が透けて差している。

 視界の端で光の色を確認して、今が夕方なのだと少女は察した。

 それから眼球と首を少しだけ動かして、自分が今置かれている状況を確認すべく情報を得ようとする。


 部屋は意外に広く、一介の患者にしては周りに物々しい機械が多いように感じる。

 嗅覚に意識を向けると、過去に何度も嗅いだことのある病室特有の香りがした。

 新品の日用品の匂い。

 視界の大部分を占める白。

 綺麗なシーツ、清潔な服、優しい看護師さんたち。


 そして、ベッドの上の自分。



 生きてたか。



 そこで、漸く実感が湧いた。

 自分はまだ死んでいなかったのだと。



「よくやった。頑張ったね」


 

 母親の温かい手で頭を撫でられて、少女の目から涙が溢れた。

 涙は顔を伝って枕に落ち、小さな滲みを作り出す。


「ちょっと、お医者さん呼んでくるよ」


「……ん」


 少女の母親は涙をこらえながら、早歩きで病室を出て行った。

 一人残された少女は、天井を見つめながら一つ大きなため息を吐く。

 呼吸器が一瞬曇って、すぐに透明を取り戻した。


「ふぅ……」


 涙が乾いて、心中も落ち着いてきて、生きているのだと実感して、一人になって、正常な思考が巡り始める。


 それから心の中でずっと、同じ言葉がぐるぐると回り続けている。



 また死ななかったんだ、と。




       ******


 4月22日(月)


 高校生活11日目。

 つまり、3回目の月曜日がやってきた。


 今朝も相変わらずかったるい坂をこうしてダラダラと登っているのだが、やはり何回登ろうと辛いものは辛い。

 今の季節はまだいいけれど、もう夏はすぐ目前まで迫っているのだ。

 これからはまさに地獄、灼熱地獄。

 上り坂とのコンビネーションはまさに抜群、人々を死に至らしめる合体技で多くの人間を葬ってきたに違いない。

 まだそんな時期じゃないだろ、とでも言いたげな読者諸君。


 春の次は夏なのだ。

 それは紛れもない事実。

 

 梅雨なんてあってないようなものだし、湿気はひどいわ蒸し暑いわで結局夏と似たようなもの。

 油断していれば中間テストがすぐ目前まで迫っていたなんてことがあるように、それは夏もまた然り、である。

「つい先日まで三が日だったじゃないか」と思っていそうな、頭の中は常に春爛漫の君たちなら分かると思うが、月日が経つのはあっという間なのだ。

 光陰矢の如し、人生をそう喩える人もいるくらいなのだから、季節の移り変わりなんてものは最早 阿部寛のホームページが開くまでのスピードと大差ないと言っても過言ではない。




 さて、一旦スルーしてはみたもののやはり読者諸君は違和感を感じていると思うので、重い腰を上げて面倒がらずに説明しておくとしよう。


 そう、何故 3日目の次が11日目になっているのか、という話。

 日記というものはその名の通り「日を記すもの」だが、7日も飛ばしてしまえばそれは「週記」になってしまうのではないか、と心配になる気持ちはわからなくもない。

 では、何故この日記が週記になってしまったのだろうか。




 答えは簡単、面倒臭いからである。




 正直、新学期が始まってからの3日間は大変だった。

 その日にあった出来事を日中のうちに忘れないようにメモして、家に帰って文章に作り替え、メモから漏れた分は海馬をフル回転させてなんとか補い、実に事細かに日に起きた出来事を記してきた。

 うむ、改めて文章にして見たが、やはり面倒なことこの上ない。

 いくら私の記憶力が平均以上だとしても、それがやる気につながるかと言われれば否である。

 ていうかつい便宜上「日記」と称してしまったが、そもそもこれは日記ではないし。

 随時訂正しておかなければ、いつの日か自身でさえ日記と認識してしまいかねないので、これからも定期的にリマインドが入るだろうが、ご了承いただきたい。


 とまぁ とどのつまり、恐ろしく無駄な時間の使い方をしているような気がしてならないのだ。

 いくら私が望んでやっていることだからといっても限度というものはある。

 そもそもこんなに丁寧に作らなくても目的自体は達成できるのだが、完成時のクオリティを考えれば流石に新学期の三が日辺りはしっかりと書いておきたかった、というのも本音ではあるが……。

 無論、いつかに書いたようには自己満足以外の何物でもないのだが、だからこそ自己が満足するレベルまでは達成したい。

 この先は日数が空くこともあるだろうが、私への負担のことも考えて許して欲しい。

 まぁ誰が何と言おうと私が許せばそれまでの話ではあるのだが。


 そういえば、この日記帳の製造工程を書いたのは初めてだったか。

 以上のように大分面倒なプロセスを踏んでこの本は作られているので、これから続きを読むときはもう少し有り難みを感じつつ読んでいただきたい。

 例えばひとつページを捲るごとに一つ合掌を交える、とか。

 いや、縁起でもないか。


 それと、今回から冒頭に日付を書いてみることにした。

 後々読み返した時にいつの話なのかわかった方が個人的にも楽だと思ったからである。

 これまでのところにもつけておこうかと思ったが……まぁ気が向いたらやることにする。

 


 さて、そろそろ本編に移るとしよう。

 ついいつもの癖で坂を登っているシーンから始めてしまったが、正直今日はそんなに書くことがない。

 書くことはないのだが、あまり長い間記録を放棄するわけにもいかないので、帰宅後の自室でこうして渋々書き始める私であった。

 こんな書き方では本当にただの日記帳になってしまうが、高校生活なんてそう何度も事件が起きるものではない。

 ネタがなければ自ら作り出せばいいじゃない、なんて悪徳思想を標榜する昨今のTVショーとは違い、私がお届けするのはほとんどが嘘偽りのない真実である。

 おまけに金も取らないし、記者によって取材内容が湾曲されることもないので、情報発信の媒体においてこの日記帳の優良性はまさにトップクラス。

 ……多少の嘘は目を瞑ってもらうことにはなるかもしれないが、そこはご愛嬌。


 私だって腐っても華の女子高校生。

 人権の真骨頂、そのスタートラインを切ったばかりの初々しい存在なのだ。

 多少の嘘や誇張は目を瞑ってもらいたいし、なんなら知られたくないことはこの本には書かない、なんてことも許されて欲しい。

 女子高生の秘密の日記帳を覗き見しているのだ、そのくらい我慢したまえよ。



 というわけで前置きが長くなってしまいましたが、学校生活11日目のはじまりです。



 因みに「内容が可愛くない」などという質の低いクレームは全て聞き流させていただきますので、予めご了承下さい。



       ─・・・・─



 二人と友達になってからというものの、朝はいつも通り華恋への挨拶から始まる。

 これがないと一日が始まった気がしないので、彼女が風邪でも引こうものなら私の時計の針は止まってしまうかもしれない。

 体調が悪そうだったら、アムリタだろうとエリクシールだろうと私が取ってきてみせよう。

 ……なんて大袈裟に言ってみたが、事実心情的にとても助かっている。

 友達がいなかったわけではないが一人で過ごすことが多かった私にとっては、こういった何気ない朝の挨拶ができる友達がいるだけでも十分有難いのだ。

 

「おはよう」


「あっ、おはよう」


 パッと咲く笑顔に癒されて、登校よって削られた私の体力はみるみるうちに回復してゆく。

 これだけでご飯三杯はいける……くらいの気持ちになれるものだ。


 坂道には相変わらず慣れないが、呼吸のリズムを少し掴めてきたのか「教室に着いた時点で死にかけ」という事態は避けられるまでには成長した。

 最近は随分と暖かくなってきたし、登校時はブレザーを脱いでいることが多い。

 クラスではブレザーが椅子に掛かっている状態がデフォルトとなりつつあるし、先述したように夏の足音はすぐそこまで迫っているのかもしれない。

 いや、その前に衣替えかな?


 しかし今の自分は「暖かい」というよりかは「暑い」と表現した方が適切のような。

 ブレザーの内部は若干サウナのような状態になっており、私はカーディガンごと脱ぎ捨てて椅子に重ねるように掛けた。 

 熱気が宙に霧散する感覚を覚える。

 

 夏希はホームルームが始まる直前に教室にやってきて、眠そうに私たちの机に向かってふらふらと歩いてくる。

 軽く3人で今日の授業のことを話したりして、チャイムが鳴ればクラスの皆が自分の席へと戻ってゆくのだ。

 ここまでが最早ルーティンのようになっており、漸く1日が始まった実感が湧くくらいだ。


 新学期が始まって2週間ほど経過した今では、教室の中からは常に話し声が聞こえているような状態で、友人関係やグループは粗方決まったフェーズまで進んでいた。

 私たち3人は大抵一緒におり、数あるグループの内の一つとなっている。

 昼食や下校も3人で過ごし、私はどうにかありがたいことに孤立を避けて学校生活を送ることができている。

 実際、入学する前は教室の隅で寂しくもさもさとサンドイッチを齧っている姿がありありと浮かんでいたが、意外となんとかなるものなのかもしれない。

 


 授業の方は実に退屈である。

 中学の復習から始まり、現在は初の単元といった辺りだろうか。

 無論習ったことがない内容には違いないので、授業中にスリープモードになるわけにはいかない。

 正確には電源OFFと言った方が正しいのかもしれないが、しかしテストのために教師の話は聞いておかなければならない、という状況に置かれている。

 しかし先述した通り内容は退屈で、小テストだって授業前に復習すれば満点など赤子の手を捻るよりも簡単である。

 いや、赤子の手を捻る罪悪感に比べたら遥かに容易である、と言った方が正しいのかもしれない。

 結局休み時間以外は退屈で、しばしば寝てしまうこともあった。

 

 そして私の天敵といえば何を隠そう体育なのだが、これがなんと特に問題も起きずに、今の今まで恙無つつがなく参加できている。

 無論授業前の校庭3周のノルマはその数を減らしてもらったり、体調がすぐれない際には免除してもらったりしているが、中身としては体操や体慣らしの運動が意外と多かったりする。

 

 昼休みを跨いでお次は現代文の時間。

 北原先生、つまり我らが1-4の担任、もとい私に自己紹介のトップバッターを押し付けた張本人。

 今となっては優しい先生だと理解しているが、あの時は恨んだものである。

 現代文の授業はその名の通り文章を読み解いて理解を深めたり、漢字や詩について学んだりする。

 時々創作の類をやらされるので、うっかりしょうもないものを作って周囲に笑われないように気を付けねばならない。

 まぁ私にとってはお茶の子さいさいな内容が多いから、適当にやっていればよろしい というやつである。

 

 しかしどの教科においても「始まったばかり」と言ってしまえばそれまでだし、これから徐々に高校らしい内容に変わっていくのだろうが、それらは求めずともやってくるのだ、今は前座を素直に享受するとしようではないか。



 ……とまぁ、そんな感じで日々は過ぎてゆく。

 特にこれといった問題もないし、元気に過ごせているといっても良いだろう。

 これを読んでいる諸君、安心したまえ。



 ……なんだって?

 結局ただの日記と変わらないじゃないか、だと?


 全く、諸君が何を勘違いしているのか知らないが、私はを日記と明言したことは一度もない。

 ……はずである。

 日記的なもの、みたいな言い方しかしていないはずだが、うっかり明言してしまっていたのなら……いや、謝る必要もあるまい。

 なぜならこの日記帳を読む人間などいないのだから。


 くどいかもしれないが、これは私にとってとても大事なことなのだ。

 だから何度も書き著して、この日記的なものに現在を刻みつける。

 願掛けみたいで馬鹿らしいが、神だろうが紙だろうが役に立つなら使うまで。

 それに、どうせ読まれないと思って書いた方が気が楽なのだ。

 内容に文句があるなら是非直接言いに来てもらたいものである。




 その時はきっと、とびきりのおもてなしをさせてもらうよ。

 

 


       ******




 4月22日。

 綴ちゃんが倒れてから、2週間と少し。

 3周目の月曜日がやってきた。


 流石に2週間も通えば通学路の坂道にも徐々に慣れてきて、どんなペースで歩けば良いのか、とかその辺りが分かってくると案外楽に校舎に到着することがわかった。

 一緒に行く人がいないので、誰かに合わせる必要も勿論ない。 

 一緒に登校したい人はいるものの、今日も休みの可能性が高かった。

 更にその要因が自分にあるかもしれないと思ってしまうと、そもそも一緒に登校しようという気にすらなれないので、これからしばらくはこんな環境が続きそう。


 けれど確かに、綴ちゃんと過ごした時間はたった2日ととても短いものだったけれど、とても心地がよい時間でもあった。

 だからこそそれ以降の日々が少し味気ないものに感じられて、心配な気持ちも相まってこの2週間は憂鬱な感情が霧のようにわたしの心を覆っていた。



「おはよ」


「あっ、おはよう」



 席に着くと、いつも夏希ちゃんが声を掛けてくれる。

 彼女曰く「話す人がいなくて暇」らしいのだが、気落ちしている自分を気遣ってくれているのであろうことにはなんとなしに気付いていた。

 それもあってかここ最近は比較的落ち着いて過ごすことができてはいるものの、でもやっぱり綴ちゃんのことが気がかりで、心から物事を楽しめないでいる。


「今日は朝から数学だってさ。華恋は文系だっけ?」


「あ、うん。文系っていうより数学が苦手なだけなんだけどね」


「中間テストもあと1ヶ月後らしいし、先生の話ちゃんとメモらなきゃな……」


 めんどくさそうにそう話す彼女は、今は綴ちゃんの席に座っている。

 萌え袖からはみ出た指先で髪をいじるのは癖なのか、綺麗な髪の毛を指に巻いて遊ぶ姿を最近はよく見かける。

 綴ちゃんが欠席して以来ずっとこうして話しているのでもう随分仲良くなれた気がするけれど、夏希ちゃんは美人さんだしいつかキラキラしたグループに取られてしまうのではないかと不安な感情は常にある。

 そもそも夏希ちゃんはわたしのことを友達と思ってくれているのだろうか、と思ってしまうこともなくはないけれど、ずっと卑屈になっているよりはずっといいや、とそう思えるくらいには成長した……と思う。

 そう思いたい。



 今は8時10分。

 朝のホームルームは半からで、あと20分ある。

 わたしたちはクラス全体に比べてかなり早い時間に登校するタイプで、室内にはおよそ10人程度、クラスの3分の1ほどしかいない。

 話し声も少なく、大半は小さな声で密談でもするように会話している。


「……今日って現代文小テストだっけ?」


「あっ、うん。20ページ辺りが範囲だった気がする」


「へぇ、よく覚えてるね」


「えへへ……でも点数につながるかどうかはまた別の話だけどね」

 

 他愛もない話をしながら、ホームルームの時間まで適当に時間を潰す。

 わたしたちの趣味はあまり範囲が被らなくて、話の内容は大抵授業のこととかになる。

 たまに夏希ちゃんはファッションの話になると一瞬流暢になるけれど、わたしの反応を見てすぐにやめてしまうことが多い。

 わたしが無知で反応が鈍いだけで、そういうことに興味がないわけではない。

 空いた時間にファッションの勉強をして、いつかちょっぴり驚かせてあげようと計画しているけど、現在難航中なのも含めて今は秘密なのだ。


 やがてわたしたちの話し声は後からやって来たキラキラグループの騒ぎ声に掻き消されて、その後はお互いスマホをいじって予鈴を迎える。

 毎朝騒がしい雰囲気を肌で感じ取って、少し憂鬱な気分になるところまでがお決まりの流れ。

 ここ一週間ほどで、扉の方向を見なくても周囲の音とか話し声でなんとなく彼らがやてくるのを察せてしまうという、大して役に立たないスキルが身についた。

 そして少しざわざわし出して、やがて教室の扉がガラッと音を立てて開くのだ。

 今日もまた、そんな音が──


「ガララ……」


 ……と、今日は少し大人しめだった。

 いつもは扉が開くと同時に5人くらいのグループと騒がしい声が一緒に入ってくるのだけれど、今朝は別々に登校でもしたのかな。



「二人とも、おはよ」


「…………え?」


「あ、おはよ」

 


 気付けば目の前に、綴ちゃんが立っていた。



「どうしたの、幽霊でも見たような顔して」


「あっ、おはよう……」


「……席借りてたよ、はい」


「あ、どうもどうも」


 突然の出来事だったから、挨拶を返すのに精一杯だった。

 わたしの頭にいろんな情報や気持ちが一気に雪崩れ込んで、オーバーヒートしそうになる。

 雪崩なのにオーバーヒート……って、そんなことはどうでもよくて。


 なんてわたしに対して、夏希ちゃんは至って普通だった。

 さも当たり前のように綴ちゃんに席を譲っている。

 いや、元々綴ちゃんの席だから、返すと言った方が正しいのだろうか。


 それから綴ちゃんはおじさんみたいに「どっこいしょ」と言いながら自分の席に着いた。

 着ていたブレザーを脱いで、鞄から取り出した下敷きで暑そうにパタパタと自分の顔を扇いでいる。

 


 こういう時、第一声はなんて言ったらいいのかな。



 よかったね、は違うよね。

 

 ありがとう……は、いったい何に対して?


 ごめんね……は、多分綴ちゃんの望む答えじゃない。



 浮かばない。

 浮かばないのに、時は待ってくれない。


 綴ちゃんが気まずそうにこちらを見ていて、何か言ってあげなきゃともう一人のわたしが急かしてくる。

 こんな時、夏希ちゃんならなんて言うんだろう。

 そう思った時だった。


「ひゃっ!」

 

 夏希ちゃんが綴ちゃんの背後に回って、首に両手を当てた。


「冷た……くはないけど、びっくりした」


「あったかいね、階段登って来たばっかだから?」


「あったかいどころじゃないかな。もうほんと、SASUKEをクリアした気分。今なら山田勝己と対等に話ができそうだよ」


「山田……って誰?」


 目の前のそんな光景を見て、言葉以外にもあるんだなと気付かされる。

 それから夏希ちゃんは、少し間をおいて口を開いた。



「ほんと、お疲れ様」 


「あ……ありがとう?あはは」



 綴ちゃんの髪の毛を軽くわしゃわしゃしながら、「心配したんだから」と小声で付け加えた。


「ごめ、ごめんて。あっ、わしゃわしゃするんじゃない、こら」


 すごいなぁ、と素直に感心してしまった。

 羨ましいとさえ思ってしまった。

 わたしもあんな風にできたらな。


「まぁ、私よりずっと心配してた人もいたけど」


 なんて眺めていたら、いきなりこちらにとんでもないキラーパスが飛んできた。


「ちょ、ちょっと夏希ちゃん!」


 夏希ちゃんは両手で綴ちゃんの顔を無理矢理こちらに向けさせて、「ほら」と楽しそうに笑っている。

 

「あはは……。えっと、なんというかその」


 綴ちゃんは真面目な顔になって、わたしに言った。


「あの時はごめんね。それと、ありがとう」


 そこまでお膳立てされて、漸く言葉を口にすることができた。


「……ううん、わたしこそ、大した役に立てなくて」

 

 とはいえ話したいことがまとまっている訳でもなく、かといって当然無視するわけにもいかないので、とりあえず思いついた言葉を口にする。


「いやいや、命の恩人と言っても過言ではないくらい」


「……もう身体は大丈夫なの?」


「うん、多分」


 多分って……。


「あ、あのね、休んでる間は中学の復習と新しい単元に少し入ったくらいだから、今からやれば多分大丈夫……だよ」


「あ、うん。取り敢えず予習だけはしてきたから」

 

「部活はね、募集期間はこれからなんだ。明日の放課後とか見学できるんだよ」


「へぇ、そうなんだ。じゃあ、一緒に回ってくれる?」


「……うん」


 纏まりのない会話。

 自分が本当に情けなく感じる。


 本当に言いたいこと、思っていたことってなんだったっけ?


 大丈夫。

 素直な気持ちを話しても、この人ならきっと大丈夫だから。


 そう思って、わたしは重い口を開いた。




       ******




「心配、したんだよ」


「…………」


「頭が真っ白になって、もしかしたらって思っちゃって」


「そっか」


「だから今日会えて、ほんとによかったよ」


「私もよかった。華恋のおかげだよ」


「…………」


「ほんと、ありがとう」


「……うん、あの、ちょっとトイレ行ってくるね」



 そう言い残し、華恋はトテトテと教室の外へ小走りで向かっていった。


「……はぁ、情けないね」


「しょうがないよ。心配させた綴が悪い」


「返す言葉もありません」


 取り敢えず忘れられてるとか、距離が遠くなったとか、その辺りの悪い予感は外れたようで一安心。

 私の感覚ではまだ二人は友達でいてくれているようだった。

 たった2日しか一緒に過ごしてないのに、友達というものは本当に不思議なものである。

 

「体調は?本当に平気なの?」


「あー、うん。多分大丈夫」


「……そう」


 正直、私にもわからない。

 不整脈なんていつ起こるのか予想なんてつかない。

 せめて起きる前にサイレンでもなんでもいいから教えて欲しいものだ。

 医者は久しぶりの慣れない学校生活によるストレスが原因の一つだと言っていたが、開始3日で倒れていたんじゃ話にならない。

 毎日スペランカーのように段差のひとつひとつに注意して過ごす、なんてそれこそストレスになってしまいそうだが、これまでよりはあまり無理はできない身体になってしまったのは否めない。

 というわけで、4時間目の体育は見学とさせていただこう、そう思った。




       ─・・・・─




 5時間目、現代文。


 我らが4組の担任、北原きたはらめぐみ先生担当の科目である。

 前回から短歌と詩についてやっているそうだが、今回はどうやら実際に詩を書いてみよう、という授業らしい。

 学校という場においてたまに起こる義務的な創作は、上手い具合にやらないと変な注目を浴びてしまう恐れがある。

 幼稚な作品だと単純にバカにされるし、下手に玄人ぶっても「似合わない」「クサイ」などと言ってこちらも同様にバカにされる。

 下手とも言えないし上手ぶっているわけでもない絶妙なラインを模索し、加えて先生からそこそこな評価をもらえそうなクオリティに仕上げなければならないという、そんな高等テクニックが求められる恐ろしい授業なのだ。


「うーん……どうしたもんかな」

 

 現に私も例に漏れず、そんな絶妙なラインを模索している最中である。

 ただまぁ、詩なんてものは、難しい言葉を使う必要はない。

 平仮名が敢えて多用される世界だ、漢字がわからない言葉をそのまま平仮名にしただけで読み手が勝手に「味がある」と勘違いさえしかねない。

 つまるところそれっぽい内容を書いておけば、読み手は都合の良い解釈をしてくれるのだ。

 まるで昨今のアニメや漫画のようである。

 作者の預かり知らぬところで勝手に考察が進められ、たまたまそれっぽい辻褄が合っただけでそれが作者の意図に違いないと勘違いされる。

 果たしてそれが作者にとってありがたいことなのかはわからないが、少なくとも学校の創作物においてはそこまでマイナスに働くことはあるまい。

 てなわけで、ここは適当にひとつ。


「つ、綴ちゃん……」


「……ん、どうしたの?」


 華恋が振り返り、ほとほと困り果てた顔でこちらを見ていた。


「わたし、こういうの苦手なんだよね」


「まぁ、得意な人も少ないんじゃない?まぁでも、こういうのはね……」


 私は先程の持論を華恋相手に展開した。

 取り敢えずは適当でいいのだ、深く考える必要は全くない。

 深く考えるのは相手の仕事なのだ、と。

 

「なるほど……流石、綴ちゃんだね!」


 私がそれこそことを言うと、華恋は勝手に都合よく解釈してくれたようで、心底感心した顔をする。

 今述べたばかりの持論を華恋は見事に体現して実証してくれたが、それについては黙っておこう。


「なんとなくわかった気がする、ありがとうね」


「ふふ、がんばって」


 さて、人に言ってばかりでいざ完成したものがジャングルジムくらいスカスカでは示しがつかない。

 ここは、「それっぽい」雰囲気をもう少し足しておくとしよう。

 


       ─・・・・─



 放課後、3人で駅まで帰ることになった。

 夏希が綾蓉橋、華恋が曲屋くるやが最寄りなので、この先の駅で夏希と別れて華恋とは途中まで一緒の電車に乗ることになる。

 帰り道ではずっと勉強の話だった。

 受験で詰め込んだものはどこへ行ったのかとか、復習はめんどくさいとか、まだ授業は難しくないね、とか。

 他愛もない話だったけれど、普通の学生とはこんなものなのだろうと思って話を続けた。

 それがただ心地よかったのもあるし、普通を享受できる今の環境への感謝もあった。

 

「あ、もう駅だ。話してたらあっという間だね」


 気付けば改札の近くまで来ており、夏希はここからバスで帰路に着く。

 ふと寂しい気持ちになって、一瞬うまく言葉が出なかった。

 

「ほんとだ。じゃあ、ここで夏希ちゃんとはお別れだね」


「お別れって、そんな大袈裟に言わなくたって……」


 私が少し逡巡していると、夏希は何食わぬ顔で言った。



「話し足りないなら、また明日話せばいいだけでしょ」



 その時の言葉は、偉人の格言や日本古来の諺なんかよりよっぽど胸に響いた、と思う。

 そして、思わず軽く笑ってしまった。



「はは、そりゃ違いないや」


「うん、そうだよね。それじゃあ──」



『また明日』



 それから華恋と他愛もない話の続きをして、別れた。

 こんな日を送れるなんて中学の時は思いもしなかったけれど、実際送れてしまっているのだから現実として受け入れる他ない。

 しかしまぁ、今日はなんだか二人に気を遣ってもらってばかりのちょっと情けない一日だったので、遺書には少し脚色して残しておこう、そう思った。

 多少現実との齟齬があったとて、自分以外読む人間もいない予定なのだから、最早何だっていい。


 兎にも角にも。

 

「また明日、か」


 おっと、思わずにやけてしまう。

 まぁ、そんな自分も今は許してしまおう。

 

 やり直す機会はまだまだある。

 まずは、明日から。




       ******




「北原先生。これ、借りてた教材です」


「あっ、ありがとうございます!」


「いえ、こちらこそ。大変助かりましたよ」


 放課後の職員室で、男女の教師がやり取りをしていた。


「北原先生の教え方からはやっぱり学ぶことが多いですねぇ」


「そんな、私なんか吉田先生の生徒みたいなものですから」


「はは、自分は大したことしてませんよ。成長できるか否かはその人次第ですから」


 穏やかな微笑みを湛えながら北原と話す白髪の男は、近くにあった椅子を引っ張ってきて、よっこいせと腰を下ろした。

 北原も作業の手を止めて、プリントの端を綺麗整えて机の話に寄せた。


「学年主任のお仕事、お疲れ様です」


「いやはや、正直やるものではないとは思っていましたが、意外とやりがいがあるものです」


 今年から学年主任として多くの業務をこなす吉田を北原は労う。

 吉田もまた同様に残業中の北原を労い、軽い雑談を交わす。


 二人は元教師と生徒という関係で、約20年ぶりに母校からほど近い場所で同じ教員として再開したのであった。

 ……というのが、2年前のことである。

 今では同じ国語分野の教員として話の合う友人のような関係であり、度々こうして二人で談義を交わしていた。


 それから最近の授業の進め方について簡単に共有したのち、吉田が「そういえば」と腰を据え直す。


「その紙の束、もしかしなくてもアレですかな?」


 北原の机上、先ほど右側に寄せた紙束を吉田は指差す。


「えぇ、毎年恒例の詩です。まだざっと見たくらいなんですけど、今年は中々豊作なんです」


 北原は嬉しそうに笑い、それから厚い紙の束を手に取った。


「えーっと、名前順なのでぱっと見つけるのは難しいんですけど……あ、これなんてどうでしょう?」


 上から2番目、一枚だけ手に取って吉田に手渡す。


「どれどれ……」


 

 『羽化』


私には羽がなかった

成長すれば勝手にはえるものだと思ってた


いつまで経ってもはえてこないから

まわりと自分を見比べた


まわりはとっくに空を飛んでいたのに

自分たちだけがまだ飛び立てずにいた


気付けばあとはあっという間

しがらみという名のまゆを振りほどいて

あの明るい空の下へ、私もすぐに


【感想】

まゆの漢字が難しかったです




「へぇ、面白いですね。しがらみにまみれた自分をさなぎに喩えるなんて、センスがある。虫にも個体差があるように、人にも個体差は当然ありますから、それをうまい具合に雰囲気として出せている」


「そうなんですよ。大人しい子なんですけど、こんな文章が書けるなんてびっくりしました。仮にこれが過去の自分のことだとすると、なんだか辛い出来事があったみたいに思えるのが少し心配なところですけど」


「今はどうやら良い方向に進めてるみたいですから、少し気にしてあげるくらいで丁度良いと思いますよ」


 吉田は微笑みながらそう言って、他はいかがでしたか、とそれとなく続きを促す。

 一方の北原も「少しお待ち下さいね」と楽しそうに紙の束から発掘を続ける。

 互いの授業で詩や短歌の授業がある度にこんなことをやっているものだから、お互い事前にいくつか出来の良い作品を見繕っておくことがいつの間にか常となっていた。


「えっと、これは……野呂さんのやつですね。とってもかわいいんです」



 『のぼり坂』


学校までの のぼり坂

だらだら歩いておもい足

同じ景色と変わらぬ気分

いつもトボトボ歩いている


水を含んだ黒い雨雲

わたしの頭上を通り過ぎ

逃げる間もなくあっという間に

一人の影を飲み込んだ


歩くのですら辛くなったとき

となりにそっと友達の影

夏の希望の気配と香り

雲は過ぎ去り日向にかわる


 【感想】

詩を書くのは学校の授業でしかやらなかったので、慣れない中でどうにかそれらしいものにできないかと試行錯誤しました。ですが、自分で何かを作るのは嫌いではないので、達成感はとても感じることができました。



「これはまた、や柔らかくて素敵な詩ですね。季節を匂いで感じられるような描写から工夫が見て取れて、試行錯誤の末生まれた感覚が私には伝わってきますね。きっと良い友達ができたのでしょう、優しい心の持ち主なのがよく分かります」


 吉田は目を瞑ってうんうんと頷いた。

 同調するように北原も頷いて、「そうなんです」と付け加える。


「文章に人柄が滲み出るのは今に知ったことではありませんが、こうして授業で生徒の創作に触れる度に改めて思います。しかも最後のフレーズなんですが、これがまたとっても素敵な仕掛けがあって……」


 と、机の上から一枚の紙がひらりと舞い落ちた。

 

「おっと」


「あら、すみません」


 吉田は落ちた紙を拾って北原に手渡し──する前に、内容を一瞥した。

 正直出来の悪い作品も混ざっていたため、それを引き当てられてしまったら、と北原はすぐに返してもらおうと手を伸ばす。


「あの、吉田先生」


「…………」


 吉田は黙ってその紙を眺めていた。

 集中すると周りが見えなくなるのは吉田の癖みたいなものであったが、声を掛けても反応しない程のことは今までに見たことがなかった。

 珍しいこともあるものだと北原は少し待って、吉田が読み終わるのを待つことにした。


 それから1分ほどして、吉田はそっと北原にプリントを返した。


「北原先生」


「あっ、はい。読み終えられましたか?」


「今回の授業は先生の担任のクラスでありましたよね」


「えぇ。そうですけど……何かありましたか?」


「現代文に関しては粒揃いな生徒たちですね、優しい子も多いのでしょう。ただ、それ故に」


「…………?」


「しっかりと生徒たちのこと、見てあげて下さいね。子供の心はワレモノ注意です。何か相談があればいつでも仰って下さい」


「それは、もちろんです……?」


 吉田は柔らかい笑みを浮かべたまま職員室を後にし、北原は一人残される形となった。


「なんだったんだろ……。あ、もしかして」


 そう思って渡された手元の紙を見てみると、やはり思った通りの生徒の作品であることに気が付く。


「はぁ……。やっぱり」


 しかし先程の吉田先生の反応を思い返してみると、彼は全てを見透かしているようである。

 の事情を知らないというのに、文章からそれらを読み取ったとでもいうのだろうか──


「やっぱ先生には敵わないですね」


 と、不思議に思ったが「まぁあの人のことだしな」と自身を無理やり納得させる。


 それから紙の束の上にそっと一枚追加して、まだ量の残る事務作業へと戻るのだった。



       ******



 『砂の塔』


元より砂の量は少なかった

流れを緩める術も知らなかった

いつしか流れは加速して

聞こえてくるのはゼロの足音


リズムキープが苦手だった

みんなと足並みが揃わなかった

ようやく追いついたかと思ったのに

気付けば砂の流れに足を取られて


時限の迫りから逃れようと抗った

大きな時の奔流に呑まれまいと足掻いた

気付けば身体は動かなくなって

感慨と諦観の中で やがて塔は役目を終える


 【感想】

長い間お休みをいただいてしまい申し訳ありませんでした。早くクラスの皆に追いつけるよう努めますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

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