第三話「先客万来」



 もし私が人間の優れている機能の一つとして何か一つ挙げるとすれば、それは「慣れ」かもしれない。


 何事も初めてのことは不安だったり緊張したりするものだが、2度目ではそれらが緩和、或いはきれいさっぱりなくなっていることすらある。

 1度目で耐性が付くのだろうか、将又「一度やったし大丈夫だろう」という安心感によるものなのだろうか。

 兎角不思議なもので、人間慣れると大抵のことはできてしまうらしい。

 聞いた話によると、刑務所生活やジャングル生活も2、3週間経ってしまえば慣れてしまうものなのだという。

 嘘吐きは泥棒のはじまりなんて言葉は「慣れ」とは少し違うかもしれないけれど、一度高いハードルを超えてしまえば二度目からはそのハードルも低く感じてしまえる、つまり「一度目で耐性が付く」を表した言葉のように最近は思うのだ。

 一概に「慣れ」といっても、その使い方や意味なんてのは意外と奥が深いのかもしれない。


 因みに「将又」というのは「はたまた」と読むらしい。

 昨日クイズ番組でやっていて、印象的だったのですぐに覚えてしまった。

 子供のように早速使ってみたが、自分にすら馴染みのない漢字を使うと「自分はこんな漢字を使えるんだぞ」と威張っているみたいで、別段気分が良くなるものではなかった。


 そんな話は置いておき、何故「慣れ」に関してうだうだと書き連ねたのか、という話に戻る。


 私は坂道を上っていた。

 やたらと長い、校舎までの坂道である。

 当然息は切れるし、足だって痛くなる。

 もうこの坂道を上るのも3回目となるが、果たして私はこの坂にいつか慣れることができるのだろうか。


 いや、ない。


 と、反語を用いたくなってしまうほどに、全くもってこの坂に慣れる気がしなかった。

 何事にも例外はある、ということだろうか。

 どんなに善良な人間にも「この人だけは無理!」なんて人間がいるのと同じように、大抵の法律や規則には、原則の裏に例外が存在するのと同じように。

「例外の方が多い規則」なんて言葉もどこかで耳にしたことがあるくらいだし、その辺りは割り切って足を動かし続けるしかないのだろう。


 慢性的な坂の辛いところは、いつ休めばいいのかよく分からないところにあると思う。

 そのため私は「どこへと繋がっているのかさっぱり分からない長い階段」をセーブポイントとすることにしたのだった。

 昨日登校した際にもお世話になった、二回目にして最早実家のような場所である。

 しかし立ち寄ったところでHPとMPが全回復するわけでもなく、腰を落ち着けて時間をかけて自然回復を待つタイプのセーブポイントなのが玉に瑕である。


 朝の時間帯は日陰になっており、頭上は青々しい木の葉で茂っている。

 階段のについてだが、上るには些か辛いが座るには丁度良い高さをしている。

 位置としては通学路に垂直のように面しており、通り過ぎる生徒らを眺めるには絶好のポイントだ。

 なに、制服を着ていれば不審者と間違われることはなかろうて。

 ……息が荒いのがまずい?

 その時は、その時である。

 ともかくここは、休憩するにはうってつけの場所となっているのだった。

 

 そして、やっとの思いで階段が右手に見えた時、私は多分口をぽかんと開けながら2秒ほど静止していたように思う。


「あぇーーー……」


 そこには多くの男子生徒がたむろしていた。

 電線の上に並ぶスズメのように仲良く座っており、ぺちゃくちゃとまぁ仲が良さそうにお喋りしていた。

 その数、ぱっと見およそ7人。

 階段からわらわらと生徒が降りてくることはあまりないようだが、邪魔にならないということはあるまい。

 しかし彼らからは、他人の邪魔になろうと知ったことか、という気概を感じる。


 それにしても、何故彼らはここで集まっているのだろうか。

 なにか集客効果のあるようなものでも置いてあるのか?

 それとも貴様らもそこで休憩が必要なほどに体力を消耗しているのか?

 と、いくつか可能性を探ったところで。



「どぉぉーーー…………でもいっか……」



 となってしまった。

 理由などどうでもよかった。

 邪魔なものはただ邪魔なだけ。

 その原因がわかったところで私の体力が回復するわけでもあるまい。

 ならば、考えるだけ無駄である。


 さて、帰り道でまた違ったセーブポイントを探さなければならないのだが、それも今は後回し。


「はぁ、はぁ、くそっ」


 今は兎に角、校舎に向かってひたすらに歩くほかなかった。

 今更だが、高校前まで連れて行ってくれる都合の良いバスなどは運行していない。

 自宅から自転車で通学する人もいるようだが、この緩やかで長ったらしい坂を好んで自転車で駆け上がる数奇な人間は当然少ない。

 そもそもの話、駅から校舎まではそう遠くはないのだ。

 私が人一倍時間をかけて歩いているだけで、普通の生徒からすればなんてことない距離なのである。

 それ故に遅刻ギリギリダッシュでもかまさない限りは、基本的には息切れするような道ではない……そう、基本的には。

 ここでも、例外というやつである。


 昔から「歩きながら体力を回復する」というものが苦手であった。

 通常の人間の体力ならばそれが可能なのであろうが、生まれてこの方ろくすっぽ激しい運動などしたことのない私にとってそれは無理難題のように感じられるのだ。

 おまけにこの緩やかな坂道である。

 ゆっくりと歩くだけでも体力を奪われるのだから、回復などするわけがない。


 しかしまぁ道の傍に一人で息を切らして壁に手をついていようものなら急患と間違われかねないので、仕方なく小股でちまちまと校舎へと向かうことにしたのだった。


 全く、この際新品の心臓なんて贅沢は言わないので、送迎バスの一台くらい用意して欲しいものである。


 そんなことを思った。



       ─・・・・─



「わ、だいじょうぶ……?」


「つ、着いた……」


 まるで富士登頂を果たしたような気分の中、私は自分の席の椅子に深々と腰を下ろした。

 ポケットから桔梗の刺繍の入ったハンカチを取り出して、額に滲んだ汗を拭う。

 目の前には野呂さんが小さな手をパタパタと動かして、微量な風を送ってくれていた。

 かわいい。

 真冬でも構わずやっていただきたいものである。


 さて、ついに本日から本格的な授業が始まる───わけもなく、相変わらず予定は総合やレクの時間で埋め尽くされている。

 4時間目までしかないので「埋め尽くされている」というほどでもないかもしれない。

 やることといえば、教科書の配布や係決め、クラスメイトと親睦を深めるための自己紹介を兼ねたクイズ等の催しくらいであろう。

 しかし勉強以外の授業は大抵「総合」に纏められるあたり、改めてその八面六臂の活躍に舌を巻かざるを得ない。

「国語総合」なんて新キャラも登場するくらいだし、まだまだ彼は広い分野に手を伸ばし続けるのかもしれない。

 これからの活躍に、要注目である。


 そんな1時間目の総合は、教科書配布という特に面白味もないイベントだったので、ただただ現代文の教科書を眺めていた。

 中学と違ってジャンルは多岐にわたっており、小説から詩、評論に批評と実によりどりみどりである。


「あ、羅生門……」


 中には有名なものも混じっていたりもして、ネットでよく見聞きしたあのシーンを見つけた時はちょっとだけ楽しかった。

 因みにストーリーについては、なんかおばあちゃんが死体漁りをしているシーンしか知らない。

 ま、これから学ぶのだ。

 なんだっていい。

 

「ミロのヴィーナス、島崎藤村、グローバリズムの、逆説……」


 意外にも批評系の文章が多く、実につまらなさそうな雰囲気を放っていた。

 文章好きとは言えど、他人の意見を押し付けられるような評論の文章はあまり好きではない。

 なにせ反論しようにも相手は目の前に存在しないのだから、こちらにモヤモヤが溜まる一方なのだ。

 なんなら最早この世にいないなんてこともざらにある。

 勝ち逃げされたような気分になって、どうにも好きになることができなかった。


 なんて考えを巡らせていたら、いつの間にか授業は終わっていたのだった。


 

       ─・・・・─



 2時間目。

 新学期恒例、係決めの時間がやってきた。


「日向さんは何にするか決めた?」


「んー、なんにしようかね」


 黒板には係の一覧がずらっと書かれており、その中には我が校に存在する各委員会の名前もあった。

 学級、美化、図書、保健、そして体育委員。

 係にはレク係や(担任の)補佐係、黒板係などがある。

 ちなみに生徒会はこれとは別にあり、興味を持った生徒は本日の放課後に各々生徒会室を訪ねることになっている。

 より詳しい内容はそこで聞け、とのことであるが、私はあまり興味がないのでこのイベントはスルーでいいだろう。


 さて、今これを読んでいるそこのキミ。

「どうせ図書委員なるんだろ」と思った、そこのキミだ。


 私はこう思うのだ。

 安直な憶測というものは、人としての格を大きく下げるものである、と。

 最近、お母さんやお父さんに「もう少し考えて行動しなさい」と言われたことがないだろうか。

 愚直さは時に美徳とされることもあるが、愚かであることに違いはない。

 ……いやなに、分かってくれればこれ以上言うことはないのだ。

 これを機に考えを改めていたければ幸いである。

  


 『最初はグー、じゃーんけーん……』


 

 かくして、今日から私は書記係となったのであった。

 まぁ別にそこまで図書委員をやりたかったわけではなかったし、自らの不運を呪ったところでどうにかなるわけでもない。

 いや、これは最早書記係になることが運命であったのかもしれない。

 寧ろそう思えてきたまである。

 だから別に、悔しいとかそういう気持ちは一切存在しないのだ。

 第一、仕事なんて少なくて簡単に越したことはないしね。

 ほら、さっさと次の文章に進みたまえ。



 というわけで、各係ごとに顔合わせの時間といこう。


「あ……よろしく」


「こちらこそ」


 同じ書記係の渡邉諒太わたなべりょうたくん。

 なんだかこれといった特徴がない。

 強いていうなら少し前髪が長いくらいだろうか。

 ファンタジーやラノベの登場人物というのは得てして全員が特徴的な髪の色をしていたりするものだが、現実なんてこんなものである。

 というかその「あ……」ってのはなんだ。

 変なやつと当たっちまったな、なんて思っているのだろうか。

 全く失礼なヤツである。

 その点優秀な私はそんなそぶりをおくびにも出さずに、テキパキと進行役を務めた。


「えーっと、学級会の内容をまとめたり、話し合いの際に黒板にこれまた内容をまとめたりする係、で合ってたっけ?」


「多分そんな感じ」


「どっちが何担当するとか決める?」


「順番でいんじゃね」


「……今日の夜ご飯、何か食べたいものとかある?」


「あぁ……え?いや、なんでもいいけど……」


 全く、何にも考えていないのかコイツは。

 これではお母さんも一苦労である。

 しかし寛容な精神を持つ私は、適当な返事に眉ひとつ動かさず話を進めてやる。

 これが「デキる人間」というやつだ。

 しかし、何に対しても受動的な人間というのは困ったものだ。

 これには校長もがっかりだろうさ。



「まぁいいや……それで、明日の総合で早速出番があるみたいだけど、専攻どっちやる?」


「じゃんけんすっか」



 『最初はグー、じゃーんけーん……』

 


 かくして、以下略。

 どこぞの総選挙じゃあるまいし、こんなじゃんけんに勝とうが負けようがどうだっていい。

 どちらも一発で綺麗に負けたことで、むしろ清々しさすら感じるほどだ。

 ここで余計な運を使わなかった自分を褒めてあげたい。


 ……今後大事なことを決める際は、じゃんけん以外の方法を強く希望するとしよう。

 

 

 その後は各委員からの簡単な挨拶を聞き流し、先生からの話を要点だけなんとか海馬に留めたところで終わりの挨拶となった。


 大きな伸びと欠伸をして、チャイムの音がぼやけて耳に入ってくる。

 10分の休憩時間の合図……となればやることは一つ。

 そう、我らが野呂さんと楽しいトークタイムである。

 彼女以外に友達がいないだけだろうと思った人は、際限なく怒るので怖がらずに手を挙げてほしい。

 そんなことはさて置き、早速野呂さんの様子を伺うべく声をかけようとした時のことであった。



「華恋さん、お疲れ様!今日お昼一緒に食べない?」

 

「えっ」


「えっ」

 


 野呂さんを下の名前で呼ぶ不遜な態度の男が、そこには立っていた。



       ******



「それで、配布係で同じってだけでフラフラと……」


「いや、確かに昨日一緒に食べただけって言われたらそれまでなんですけど」


「思い上がりって自分とは結構無縁なものだと思ってたんですけどね。いざこうなると、ちょっと悲しいというか」


「娘を嫁に出す親ってこんな気持ちなのかなって……ははは。あ、榎本さんに話す話じゃなかったですね……」


 

 高校生活二日目の昼。

 教室の窓側に一番近い列、前から2番目の席。

 カーテンの隙間から陽の光が差し込み、机の角をキラキラと照らしている。

 机の上にはたまごのサンドイッチが一つ。

 今日こそは一人でゆっくりと落ち着いて食べられると、そう思っていたのだが。


「あ、なんか一人で喋っちゃってごめんなさい」


「いや……別にいいけど。てか、敬語じゃなくていいから」


「あいや……じゃあ、お言葉に甘えて」


 何故か目の前に、昨日と同じ光景が広がっている。

 厳密に言えば人数が違うが、そんなことは大した問題ではなかった。


 日向綴。

 自己紹介のトップバッターで、場を恐ろしく盛り下げたちょっと変なやつ。

 心臓病を患っているらしいが、病弱な様子はあまり見受けられない。

 ドラマなどでよく見る病弱少女特有の儚さみたいなものが、不思議なほどに感じられないのだ。

 少しでもそういったものがあるのならば多少は心配する気も起きるのかもしれないが、残念ながら(?)彼女にそういった感情を抱くことは難しそうである。

 それは本人からしても本望ではなさそうだし、その方が良いのかもしれないけれど。



「今日はご飯、買ってきたんだ」


「それだけじゃなくてね、なんとこの……ほら!団子!」


「だん……え?」


「高校ではなんと、甘いものを持って来ても怒られないらしいよ……?」


「そ、そうなんだ」


「甘いものなんて、普段からそんな食べられないからありがたいよね」


 こいつと話していると、真面目に悩んでいるのが少し馬鹿らしくなる。

 昨日、家に帰って真剣に考えたのだ。

 私は高校でどんな立ち位置に落ち着きたいのか。

 どんな人間関係を築くべきなのか。

 結局具体的な答えは出なかったけれど、孤立はしたくないな、という感覚だけは見つけることができた。

 昨日はなんだかよく分からなくなってパニックになってしまったが、落ち着いて考えてみればに私の知り合いはいない。

 私を知ってる人間はいないのだ。

 一度そう思えてしまえば、恐らく昨日のようなことはもう無くなるだろう。

 結局そんな当たり前のことを結論にして、解決したフリをしてさっさと寝てしまったのだった。


「そういえば榎本さん、髪の毛すごい綺麗だよね」


「え、あー……ありがとう。日向さんも伸ばしたら似合うと思うけど」


「うへへ、またまたそんな」


 これに関しては嘘ではない。

 中学の頃はファッションとか美容とか、とにかく容姿に気を遣っていた。

 一定のステータスを保ち続けないと、あの世界では生きて行けなかったから。

 だから、その辺の知識は豊富にあると自負している。

 それが心から役に立ったと実感したことは結局一度たりともなかったけれど。


「私も服とかもっとちゃんと選んでみようかな、なんて」


「……ファッションとか、あんまり興味ないの?」


 色々言いつつも、別に彼女を拒絶しているわけではない。

 何故なにゆえ連日私の目の前に現れるのかが不明なだけで、別に話をしたって構わないのだ。

 無論、今の私はグループに混じってワイワイできるようなタイプではないから、一人で落ち着ける時間の方がありがたかったりするのはまた事実ではあるが。


「私、ここ2年くらい全然外に出てなかったからさ、そういうの疎いんだ」


「ふーん……インドア派なんだ」


「えーと……うん、そうなんだよね。意外とゲームもするんだよ?」


 彼女は両手でコントローラーをピコピコと操作する動きを見せてきた。

 そういうゲームはやらないから、あまり深く掘り下げるのはやめておいた方が良さそうだ。

 ならば、こっちの得意なテリトリーに引き込んでしまえばいい。


「……服とか、あんま持ってないんなら、選んだげるけど」


「えっ、ほんと?」


「まぁ、私でよかったら」


 我ながら踏み込みすぎではないかと思ったけれど、本来私はこういう性格なのかもしれない。

 普通に誰かと話がしたいし、普通に誰かと遊びに行きたい、そういう欲求を今までは押さえつけられていただけだったのかもしれない。

 彼女があまりにも自然に話してくるものだから、ついそういう感情が、欲求が表出してしまい口走ってしまったのかもしれないが、結果オーライというやつだ。

 彼女は嬉しそうだし、悪いことではあるまい。


「じゃあその、LINE交換しようよ」


「ん、オッケー。はいこれ」


 インスタじゃなくてLINEか。

 中学の頃は大体インスタだったから、少し新鮮な気分。

 そういえば、もうインスタに定期的に写真をアップする必要がなくなったのか。

 改めて思うと、本当に色んなものに縛られていたのだと実感する。


「わー、高校始まって一人目の連絡先だ」


「私もだけど……って、昨日のあの子は?

 ───あっ」


「…………」


「……ごめん」


「いや、全然気になってなんか、ないよ?」


 嘘つけ。

 冒頭であんだけうだうだ言っていた癖に、よくもまぁ今更取り繕おうと考えたものだ。

 まぁ、地雷を踏んでしまった私に非があるのだが……。




 遡ること5分。


 彼女はゾンビのような足取りでこちらに近づいて来て、小さな声で「聞いてくださいよ……」と呟いた。

 面倒な気配がしたが、いつまでも一人でご飯を食べているとそろそろぼっち認定されてしまいそうだったので、渋々承諾した。


 そして始まったのは、約3分間のぼやきだった。

 親の気持ちがどうだの、チャラ男は信用できないだの言っていたのを覚えている。

 余計なものが多かったので簡潔にまとめてしまうと、昨日一緒に昼食をとったもう一人の女子、野呂と今日も一緒にお昼を食べようと思っていたところに、同じ配布係になった男子が彼女を昼食に誘い、それに割って入ることもできずここに流れ着いた……ということらしい。


「どこの馬の骨とも知らない男にさ……なんだか寝取られた気分だよ」


 知らねぇよ……。

 そう思って私は開きかけた口を強い意志で閉じた。

 ていうか何でここに来るんだ。

 それこそ、その男子に構わず一緒に座って食べればよかったのに。

 私だったら

 ……今の私は、分からないけれど。

 ただまぁ、そこそこいい暇つぶしにはなったわけだし───


「そこが空いてるなら、別にいつでも来ていいけどさ」


「えぇ、ほんとにいいの?」


 昨日今日と勝手に来たくせに、変なところで遠慮がちなヤツ。



 ……とまぁそんなことがあって、今に至る。

 

「にしてもあれだね、ここはあったかくていいね。今すぐ野呂さんもここに連れて来ちゃいたいよ」


 カーテンの隙間から日の光が差し、机に伏している日向綴の頭をキラキラと照らしている。

 目を細めながら気持ち良さそうにしている姿は、なんだか猫のようだった。

 そんな中でも野呂華恋のことを話しているあたり、相当ショックだったのだろうか。

 

「今日知り合ったばっかだろうし、そんなに心配しなくてもいいんじゃないの」


「それはそうなんだけどね、野呂さんすごくいい子だからちょっと心配もあって……」

 

 日向綴の視線の先には件の二人の姿があった。

 なるほど、ショックだけではなく心配もあったのか、と軽く得心がいった。

 確かに男の方は少し軽そうな雰囲気があり、小柄な少女の隣に並べると不安な気持ちになるのも理解できる。


「まぁ、本人が一緒に食べることを承諾したのなら、私から言えることはなにもないよ」


「……ま、それもそうだね」


 本人がそういう考えなら、これ以上この話を広げても盛り上がることはないだろう。

 何か適当に話題を逸らすことにした。


「そういえばさ、下の名前。ちょっと珍しいよね」


「たまに言われるけど、もう15年以上付き合って来たから今更特別感も何もないかな。あ、つづるって呼んでくれてもいいんだよ」


「わはは」と冗談めかしてそう口にする彼女だったが、私自身呼びには少し違和感があった。

 中学では大抵のヤツらは下の名前で呼んでいたし、教師ですらもみんな呼び捨てにしていた。

 だから自分の口から「〇〇さん」という言葉が出てくるのは違和感があった、というだけの話。

 だからといって「下の名前で呼び捨てにしたい」というわけではないのだが、その方が少し居心地が良くなる気はした。


「そう。じゃあ、私も夏希で」


「え?あ、そう……わ、わかった」


「ふふ」


 そっちから言ってきたくせに、照れくさそうな反応。

 ベタな反応だけど、新鮮でもあった。

 こんなに何も考えなくていい会話は、随分と久しぶりな気がする。


「綴はさ、家どの辺なの?」


「えーっとね、薄場から歩いて10分くらいのとこかな。えの……あ、夏希はどの辺?」


「ん、私はね───」


 他愛もない話をした。

 どこの誰でもするような普遍的な会話。

 誰かを傷付けることのない穏やかな会話。

 

 今はまだこの感覚もこの感情も具体的に表現することはできないけれど、いつかはこれが普通になって、歪んでしまった「榎本夏希」という人間を矯正していけたら。

 

 それができたらいいなと、そんなことを思った。



       ******



 高校生活3日目。


 最早言及することすら億劫に感じる長ったらしいゆるやかな坂道を、私は昨日・一昨日と同様に肩で息をしながら歩いていた。

 昨日の帰り道、どこか休めるところはないものかと注意深く周囲を気にしながら歩いていたのだが、結局あの階段以上に休憩に適した場所など見つからなかった。

 一度良い暮らしをしてしまえば元の平凡な暮らしに戻れなくなる成金のように、私も一度あの階段を経験してしまったが故に下手に妥協ができなくなってしまったのだ。

 成金の気持ちが一端でもわかる日が来ようとは、人生とはやはり分からないものである。


 そんな果てしなくどうでもいいことを考えながら、今朝も階段の付近にまで辿り着く。

 時間帯は昨日と同じくらいだが、果たして例の集団はいるのだろうか。

 いるのだとしたらまた休憩を挟まずに校舎まで歩かなければならないのだが、正直そんな思いはもう勘弁である。


(もういっそ、誰がいようが座ってしまおうか)


 記憶が確かであれば階段の下の方は空いていたわけだし、向こうから話しかけられることもないだろう。

 万一にも何か言われたなら、次から座らなければいいだけの話。

 …………いや、それは困るので、その時は何か別の方法を考えるとして。



 よし、座ってやる。

 やってやらぁ。

 誰がいようと座るスペースがある限りは、誰も私の休憩を阻むことなど許されないのだ。

 

 不思議なもので、一度そう思ってしまえば自信も余裕も少しだけ湧いてくるのだった。

 この時の私は多分、そんな感じだったと思う。


 というわけでいざ、謎の自信を引っ提げて階段へと向かった私であったのだが。




「…………なにアレ」




 階段に、大男が一人。


 下の方の小さな段差に、窮屈そうに座っている。


 どうしよう。


 というか、何故毎朝階段に先客がいるのだろうか。

 おかしい。

 絶対におかしい。

 私が到着する前に、美味しいお菓子でも置いてあるに違いない。

 流石にそれはないか。


 制服を着ているので生徒と判別はできるが、その身長とガタイの良さからか大きな威圧感を感じる。

 若干俯いたような感じで地面を凝視しており、襲ってくる様子はなさそうである。

 こちらから攻撃しない限りは敵対状態にならないタイプのモンスターだろうか。

 無論襲われたらひとたまりもないが、触らぬ神に祟りなしとはよく言ったもので、肝要なのはこちらから手を出さないこと。

 ミウリンだってエスピナスだって、攻撃しなければ友達と同じなのだから。


 というわけで、私はさも当たり前のように階段へと向かい、少し奥の方まで登って腰掛けたのだった。

 


       ******



 日枝駅から紅楼高校までの道のりは、ゆったりとした坂道になっている。

 早歩きでもしなければ基本的に息が切れることはないが、普段から運動と無縁な者にとっては多少辛いものがある、といった具合の坂道であった。

 車の通りはほぼない。

 特に朝の時間帯は1時間に一台通るか通らないかといった少なさで、ほぼ歩行者天国状態となっている。

 そんな坂道の左側を、わたしは一人でトボトボと歩いていた。

 

 時刻は8時10分、少し前。

 当然周囲には生徒の姿が多くあり、視界の右端で自身を追い抜いていく人々をなんとなく見ていた。


「はぁ……」


 お手本のような溜息をいて、ただでさえゆったりとしていた歩みがさらに遅くなる。

 鉄製の足枷が付いているような感覚があり、「学校に行かなければいけない」という義務感に引っ張られて半ば無理矢理歩かされているような、そんな状態であった。


(……なんか、なんにもうまくいかないな)


 昨日、同じ係になった仁科にしなという男子生徒に昼食に誘われた。

 その際、あまりに唐突であったために冷静に判断ができず、咄嗟に「は、はい」と返事をしてしまったのだ。

 どうしたものかと悩んでいるうちにあっという間に昼になり、気付けば対面に座って昼食を食べていた。

 初対面の男子生徒から興味のない話をひたすらに聞かされ、味のしないお弁当を胃に詰め込む作業に徹する不思議な時間だった。

  目も耳も舌も正常に働いていたはずなのに、その時の記憶がほぼ存在しないのもこれまた不思議であった。

 工場の作業もこんな感じなのだろうか。

 失礼な話だが、そう思った。


 問題は、その後。


 目の前の状況に囚われて視野が狭くなっていたのか、ずっと大事なことを忘れていたのだ。

 お弁当を食べ終わり、漸く相手の顔をちらと確認できた時。

 

(あ、日向さん……)


 視界の左端に、高校で唯一の知り合いとも呼べる存在を見つけた。

 今日も彼女と昼食を共にするのだと、当たり前のように思っていた。

 そんな彼女は自分とはまた別の女子生徒と楽しそうに話しており、その関係は疑いようも無いほどに「友達」であった。



「あ…………」



 小さな声が漏れる。

 刹那、いろんな色の感情がないまぜになって、心がだんだん黒い色に近付いていくのを感じた。


 彼女も今日は私とご飯を食べるつもりだったのだろうか。

 4時間目が終わってから、わたしを待っていたのではないか。

 それなのに、自分は……。

 わたしが別の、しかも異性とご飯を食べていたのを見て、どんな気持ちになっただろう。


 彼女を裏切った?

 悲しい思いをさせてしまった?


 ……そんな確証なんてないのに。

 ただの思い上がりかもしれないのに。

 なんて傲慢な考えなんだろう。

 そんな自分が嫌になる。

 

 でももしそうだとしたら、わたしは───



 変わらず、視界の端には楽しそうな二人の姿があった。


 

(…………そんなわけ、ないか)



「ねぇ、華恋さん」


「へっ?」


 仁科から声を掛けられた。

 いや、掛けられたというのは間違いかもしれない。

 彼はずっと話しかけてくれていた。

 今になって突然呼びかけられたわけではないのだ。

 空返事と愛想笑いを使い分けながらなんとか今まで捌けていたが、どうやら今の10秒ほど意識がどこかに飛んでいってしまっていたようで、その間は彼の話を聞けていなかったようだった。

 

「あっ、ごめんなさい!ちょっとぼーっとしてて……」


 話をしている人そっちのけで別の相手ばかりみていたら、相手に不快感を与えてしまう。

 そんな当たり前のことに、一瞬とはいえ失念していた自信にまた失望する。


「あの人、日向さんだっけ?」


 教室の端の方を見て、彼は言った。


「えっと、うん…………」


「ふーん……」


 その時の彼の表情に少し違和感を覚えた。

 何か良くないことを考えているような、悪巧みをしているような顔である。

 そんな違和感に少し恐怖心が芽生え、自分の表情が強張るのを感じた。

 それに反して彼は表情をコロッと変えて、申し訳なさそうに言った。


「ごめんね、あんま楽しくなかったでしょ」


「えっ!?いや、そんなことないよ!聞いたことない話ばっかりで……」


「ははっ、いいよ別に」


 彼はテキパキと机の上のゴミをビニール袋に詰めて立ち上がる。

 

「今日はありがとう。そんじゃ、配布係よろしくね」


「ぁ…………」


 最悪の気分だった。

 せめて人に迷惑をかけないよう生きてきたのに、一度に二人も傷付けてしまったのだ、自信や自尊心のようなものが、じわりと溶けていくのを感じた。


(…………だめだな、私)


 自嘲的な乾いた笑いが出て、すぐに消えた。


 その後の時間もまるで身が入らず、結局下校時間になるまで自分が何を考えていたのかすらよく分からなくなっていた。


「のーろさん」


「……日向さん」


「どしたの?疲れちゃった?」


 下校を知らせるチャイムが鳴り、彼女はいつもと変わらぬ様子で肩に手を乗せてくる。

 羨ましいな、と思った。

 具体的に何が羨ましいとか、そういうのはよく分からない。

 今はなんだか、何もかもよく分からない。


「あ、今日はなんと新たに友達ができました」


「……どうも」


「あっ、昨日の。えと、野呂華恋です。よろしくね」


「榎本夏希。よろしくね」


 綺麗な人、と思った。

 こういう人がモテるんだろうなぁ、なんて当たり前の想像をして、そんな人とすぐに仲良くなれる彼女が、また羨ましい。

 

「夏希は最寄が綾蓉橋りょうようばしの方なんだってさ」


「駅まで一緒」


「…………そうなんだ」


「綴んちはどこだったっけ」


「あれ?言わなかったっけ?逆だよ、あっちの方」


 気付いたけれど、なんともないふりをした。

 だって、「だからどうしたの」という話だから。

 でも、なんだか今日一日で距離ができてしまったような、そんな気がした。

 

「ごめん、今日は用事があるから急いで帰らないと」


「えっ、引き止めちゃってごめんね。気を付けて!」

 

「また明日」


「うん、…………」



 続きの一言が喉まで出かかって、謎の力が働いて引っ込んでしまった。

 早足で教室を出て、階段を降りて、靴をさっさと履き替えて、緩やかな坂道をこれまた早足で進む。

 一瞬躓きそうになって、なんとか持ち堪えて、それでも早歩きをやめなかった。

 半分辺りまで来て、足が痛くなってきて、歩くのが嫌になって、早歩きから普通の速さになって、やがて電柱の近くで立ち止まった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 息が上がる。

 受験期から今日まで碌に運動などしてこなかったから、体力が落ちているような気がする。

 肉体的にも精神的にもまるで成長がない。

 思考がネガティヴな方向へとどんどん沈み込んでいくような感覚があった。


「はぁ、はぁ……」


 たまたま近くに階段があって、座った。

 体重が一気に増えたようで、硬い石が自重でほんの少しだけ凹んでいるようにさえ感じる。


「はぁ……」


 ひんやりとした階段に身体の熱が吸われていくようで、心地よい。

 少し冷たい風が吹き抜け、頭上では緑が擦れて涼しい音を鳴らしていた。


 視界の端から端へと、下校中の生徒が流れてゆく。

 友人を伴っていたり、集団だったり、一人きりだったり。

 一番多かったのは二人組で、一人きりの人はそれに比べてちょっぴり少なかった。


「……帰ろ」


 早くしなければあの二人に見つかってしまう。

 それだけは避けなければ。

 今の心情では彼女らと話すことすら申し訳なく感じてしまうから。


 そこから駅までは、蝸牛のようなスピードで歩いた。


 まるで誰かに追い付いて欲しいような、そう思われても仕方がないスピードだった。






 そして今朝も、昨日座った階段の近くへとやってきたのだった。

 

 まだこの道を通ったことなんて片手で数えられる程しかないが、毎朝この階段には誰かが居る気がする。

 幅もそこそこ広いし、昨日座ってみて確かに休憩には丁度良い場所だな、と思う。

 しかしそれと同時に、だったらさっさと教室まで歩いて、そこでゆっくりすればいいのに……とも思っていた。

 そんな階段に今朝も誰かが座っているのだろうと思いながら、なんとなしに階段のある右手を振り返ると───



『あっ』



 悩みの種が、階段に座っていた。

 


「おはよぉ」



 ぽけーっとした顔をしながら「にひひ」と笑って、手をひらひらと振っている。


「えっと、おはよう……ございます」


「……なして敬語?」


「まぁいっか」と彼女は呟いて立ち上がる。

 ぐっと伸びをして、お尻についた細かい砂を手ではたいて、そしてゆっくりと階段を下り始めた。

 

「よっと」


 残り2段を軽くジャンプで飛び降りて、自分の目の前に着地した。



「いこっか」


「……うん」



 まだ人の多い通学路を、のんびりとしたペースで歩く。

 先ほど1人で歩いていた時と同じくらいのスピードであったが、それは決して自分がそのペースを頑なに守っているわけではなかった。

 彼女のペースが、とてもゆっくりだったのだ。

 別にこのままのスピードだと遅刻してしまうというわけでもなかったので合わせて歩いているが、それにしても遅い。


「ねぇ、野呂さん」


「は、はい!」


「…………」


 突然話しかけられて、変な返事をしてしまった。

 

「あのさ」


「う、うん」


 何を言われるのだろう。

 胸の鼓動が止まらない。

 別に悪口を言われるわけでもなかろうに、「恐怖」の種類の気持ちが心のどこかにあった。

 

 ……いや、もしかしたら昨日のことで何か言われるのかもしれない。

 事実、私自身そのことで罪悪感を感じてしまっているのだから。

 一度そう思ってしまうと、どんどん感情が暗闇に包まれていくような感覚に陥る。

 まともに彼女の顔を見れないまま、続きを待った。


「えーっとね」

 

「…………」


「私のこと、下の名前で呼んで欲しいなーって…………」


「…………ん?」


「えっ?あっ、ほら、下の名前でさ……ダメかな?」


 まるでロシアンルーレットで弾が出なかった時のような気持ちになって、体の緊張がすっと抜けた。

 途端、考えていたことが馬鹿らしく思えてきて、更に彼女に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 謝りたい。

 少しでも彼女のことを悪く思ってしまった自分が情けなくて、すぐにでも目の前に出て頭を下げたい気持ちだった。

 けれど、今それをしてしまっては折角の提案を「断りたい」と否定するように捉えられそうなので、そんな気持ちをぐっとこらえて口にするのだった。


「……ありがとう、綴ちゃん」

 

「えへへ、呼び捨てでいいって。まぁ、いっか」


「えっと、わたしのことも……その……」


「うん、華恋ちゃん、ね。……どう?」


「あー……よ、呼び捨ての方がいいかも?」


「いいの?じゃあ華恋、よろしくね」


「う、うん。なんか、照れるね……」


「あはは、私は嬉しさの方が勝っちゃうな」


 そういうことをさらっと言えてしまうのが、彼女と自分の大きな違いである。

 そう思うものの、嬉しい気持ちは自分だって負けていないとも思う。



「やっぱ友達ならこうじゃないとね」


「……ふふ」



 気付けば、ネガティヴな感情はすっかりと薄れていた。



       ─・・・・─



「そういえばさ」


「どうしたの?」


 時刻は8時15分過ぎ。


「……ふぅ。華恋ってもしかして、意外と体力あったりする方?」


 あと少しで校舎に到着するといった辺りで、そんな話になった。

 この10分ですっかりとお互いの呼び方がなじみ始めていて、案外踏み出してしまえばこんなものなんだろうか、と考えさせられる。


「そんなことないけど、一応中学でバドミントンやってたよ」


「わ、すごい。私、インドア派の代表みたいな、人間だから、はぁ」


 隣で歩く彼女は5分ほど前からずっと肩で息をしている。

 何度か心配の声を掛けているのだが、返ってくる言葉は毎度似たようなもので、本人曰く「毎朝こんなもん」だそうだ。


「……はぁ、はぁ、なんか今日暑いねー」


「そうなのかな……、一回休憩しよっか?」


「あとちょっとだし、全然平気だよ、ふぅ」


 ゴールが近付いてきたからか、彼女の様子もほんの少しマシになったような印象を受ける。

 しかし毎朝この調子では、登校すら一苦労に違いない。

 階段で休んでいたのも今なら納得できる、というか毎朝しっかりと休んでもらいたいものだ。


 校門から下駄箱までは平坦な道になっており、普段はこのあたりから呼吸が落ち着いてくるのだと、彼女は話す。

 教室で出会う時は過去二回とも肩で息をしていたが、恐らくそれは階段のせいだろう。

 体育館から戻る時、毎回階段の長さについてぼやきながら上っているのを聞いているから分かるのだ。


「いやぁ、ギリギリだね、ふー……」


 まだ呼吸が整わないのか、靴を上履きに履き替える際も大きく呼吸をしていた。

 耳を澄まさずとも呼吸の音が少し聞こえるくらいで、ただ徐々にそれが落ち着いてきているのも感じる。

 大丈夫だろうか、という気持ちは拭いきれないが、これから一緒に登校することも沢山あるだろうし、ある程度は慣れておいた方がいいのかもしれない。

 

「いやほんと、はぁ……こっから階段があるんだよ」


「大丈夫?荷物持とうか?」


「へーきへーき……なんなら先行ってて」


 時刻は8時25分。

 半に教室にいればいいのだから、今から歩き出せば十分間に合う時間である。


「一緒に行こう。ほら、荷物持たせて」


「あー……ごめんね」


 一瞬、彼女が苦い顔をしたように見えた。

 気のせいかと思い、鞄を受け取って左の肩に掛ける。

 右肩には自分の鞄を掛けており、何だか傍から見たら力持ちだと思われるかもしれない、なんて下らないことを思った。


「わたし、力持ちになったみたい」


 他に話題もなかったので口にしてみたが、特に反応は返ってこなかった。

 声が小さかったのかもしれない、と振り返ると、彼女は下を向きながら一段一段ゆっくりと階段を登っていた。

 口で呼吸する音が僅かに聞こえる。

 

(疲れちゃったのかな……?)


 ここですぐに「自分は無視されているのではないか」という方向に走らなくなっただけ成長を感じる。

 落ち着いて考えてみればお互いの位置は少し離れているし、下を向いていることで自分の声が届きにくくなっている可能性もあるのだ。


(変に卑屈になるのは、もうやめよう)


 そう思い、前を向いてまた階段を上り始めた。

 ゆっくりと彼女のペースに合わせて、時々後ろを振り返りながら上を目指す。

 まだまだ時間には余裕があるし、焦らずのんびり行こう、そう思った。


 気付けば3階まで来ていて、2年生の姿が多く見られた。

 上履きのゴムの部分は学年ごとに色が分かれており、一年生が緑、二年生が青、三年生が赤となっている。

 その色は3年間ずっと変わることはなく、卒業した三年生の色を次の新一年生が引き継ぐローテーションシステムとなっていた。


 この3色の中では緑が一番好きで、個人的には当たりを引いた気分になっていたのだが、いずれは慣れて当たり前と思うようになってしまうのだろうか。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか3階と4階の間の最後の踊り場まで来ていた。

 


「あれ?」



 ふと振り向けば、後ろからついて来ていたはずの彼女の姿がない。

 考え事をしている間に追い抜かれた、なんて可能性は低いだろうから、私が無意識に早歩きをしてしまったのかもしれない。

 

(ちょっと待とう)


 本当に力持ちになったわけではないので、鞄2つを持ち続けていた肩にも若干の負担を感じ始めていた。

 先に教室に行って待っていようかとも思ったが、もし自分が逆の立場であれば待っててくれた方が嬉しいので、待つことにした。

 まぁ待つと言ってもほんの10秒ほどかもしれないけれど。


 それにしても、彼女の歩くスピードの遅さや体力の無さは想像以上であった。

 今まで自分を体力がある方だと思ったことなど一度たりともなかったが、彼女を見ていると案外そうでもないのかもしれないと錯覚してしまいそうになる。

 尤も、病人と比べている時点で高が知れている部分はあるのだが。



(…………病人、か)



 遅い。

 流石に遅い気がする。



 ───何かあった?



 そう思った瞬間、体が動いた。


 小走りで階段を下りる。

 急ぎつつ、しかし転ばないように一段一段しっかりと踏み締めて3階に辿り着く。


 そして踊り場を見下ろすように視線を向けた時、予想通りそこに彼女の姿を見つけた。

 瞬間、安堵感を覚える。




「綴ちゃん……?」




 そして、それは一瞬のうちにして吹き飛んだ。




「───っ!!」


「はぁっ、はぁっ、はっ……」




 嫌な予感が、的中した。

 苦しそうに胸を押さえて、浅く荒い息をする友人の姿が、そこにはあった。



「綴ちゃん!!」


 

 血の気が引いた。

 なんでこの可能性に気付かなかったのか。

 なんでもっと想像力を働かせなかったのか。

 様々な感情が一気に押し寄せて来て、何故かわからないけれど一瞬目頭が熱くなる。

 感情を完全に切り替えられないまま、持っていた2つの鞄を地面に放ってすぐに近くに駆け寄った。


「だ、大丈夫!?どうしたの!?」


 ありきたりな呼びかけだが、何か声をかけずにはいられなかった。

 今回も返事はなく、聞こえてくるのは間隔の短い呼吸音と、時々漏れるうめき声のようなものだけ。


「ちょっとごめんね……!」


 一先ひとまず少しでも安全なところに移動させるべく、無理やり肩を組んで3階まで押し上げる。

 上るよりも下りる方が楽なのは頭では十分理解していたが、元いた位置が3階に近かったのと、万が一転倒した際に大事になりにくい方向を咄嗟に選んだ結果、そうなった。


 3階に着いた途端、彼女の体がどっと重くなる。


「わっ、危ない……!」


 肩を組んでいたため、地面にへたり込むようにして崩れ落ちる彼女と共に、自身の体も地面に吸い寄せられるようにしてバランスを崩した。

 

「ど、どうしようどうしようどうしよう」


 呼吸が浅く、歩くことすらままならない。

 発汗と過呼吸と、あとは?

 あぁ、まずは保健室か。

 保健室ってどこだっけ。

 いや、保健室では不十分?

 その前に、適切な体勢を取らせるべきか。

 スマホで調べる?

 そんなことしてる間に、悪化したら?

 110番?いや、119番───


 落ち着こうとすればするほど焦りが増して、自分の呼吸も浅くなる。

 何が正解かわからない。

 わからないから、動けない。


 周りに野次馬が沢山いる。

 2年生だ。

 そんな沢山いるくせに、自分より長く生きているくせに、何もしてくれないのだろうか。


 うるさい。

 うるさい、やかましい。

 なんでこっちを見る。

 私が何かできると思ってるのだろうか。

 私がどうにかすると、そう考えているのだろうか?


 もし最悪の事態になったら、それは私のせい?

 私がやらなきゃいけない?

 こんなこと考えてる場合じゃないのに。

 何かしなければいけないのに。


 彼女の症状が自分にも移ったように、汗が出て、息が荒くなる。

 視野が狭まって、鼓動が身体を震わせて、ただただその場に座り込んでいるだけ。



 今すぐに立ち上がって、何か行動を起こさなければ。


 それが自分のすべきことなのだから。



 自分が、この場をどうにかしなければ。


 一刻を争う状況なのだから。



 自分が、彼女を救わなければ。


 わたしは彼女の友達なのだから。




 自分が、私が、わたしが────





「静かに!!」


「………………ぇ」




 突如、大きな声がした。

 よく通る女性の声で、上に立つべき人間が持っているような力が込められていた。

 その声は一瞬で野次馬達を制し、その場は静寂に包まれる。


百井ももいさん、119番お願い。葛西かさい本郷ほんごう先生、新田にった下柳しもやなぎ先生呼んできて。保健委員、誰でもいいからAED!一番近いところから持って来て!」


 それから彼女は、近くにいた人間に次々と的確な指示を出していった。

 指示を出された人間は棒立ちをやめ、緊迫感に追われて走り出す。

 名前を呼ばれていない周囲の人間もそれつられるように行動を始め、再びその場の時が動き出したようだった。


「それから、あなた」


「は、はい」


 彼女はこちらに駆け寄り、屈んで目線を合わせるようにして言った。


「落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから。お友達を助けるために、手伝ってくれる?」


「は、はい!!」


「よし、偉い!そしたら───」


 そこからはよく覚えていない。

 ただ指示されたことを無我夢中でやった。

 先生を呼びに行ったり、救急隊員に状況を説明したりとか、多分そんな感じだったと思う。

 途中綴ちゃんが気を失ってからは、生きた心地がしなかった。

 だからといって手を止めるわけにはいかず、ただただ指示されたことをやった。


 その女性が指示を始めてから5分ほど経った頃だっただろうか。

 気付いた時には、私は救急車を見送っていた。

 大きなサイレンの音がずっと脳内に響いて、ただでさえまともに働いていない思考力が壊されていくような感覚に陥った。

 その後救急車は、狭い道を結構なスピードで走り去ってゆく。

 大切な友人が運ばれてゆくのを、車が曲がり角で曲がって、車体の端っこが見えなくなるまで見つめていた。



「……大丈夫?」



 気付けば、廊下でテキパキと指示を出してくれた2年生の女子生徒が隣にいた。

 彼女は的確な指示で周囲の人間を操り、実に効率よく救急隊員に現場を引き渡した。

 結局、最後までこの人に頼りっぱなしだったな。

 わたしがしたことといえば、誰にでもできることだけ。

 寧ろ他の人がやった方が効率よく終わったかもしれない。

 つまり、わたしは大切な友人の役に立てなかったのとほぼ同義であったのだ。



「…………うぅ」


「……頑張ったね」


「うぇ…………ぅぐ……」



 涙が止まらない。

 堰を切ったように、とめどなく溢れてくる。

 これは一体何に対しての涙なのだろう。

 具体的に言葉で表現することはできないけれど、なんとなくわかっていた。

 

 自分の無力さを嫌というほど痛感して、最早呆れてしまうほどに自分自身に腹が立つ。

 もしこれで彼女が助からなかったとあれば、自分はこの先一体何度後悔することになるのだろうか。

 あの時、自分がもっと早く動けていれば。

 そのための知識があれば。

 



「………………この、役立たず」

 



 無知というのは、本当に愚かである。


 



 本当に、心底、愚かであった。



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