7-6

『私は、ね。ジルニトラ。あなたたちレースディアの血を引く者は、みんな妖精や幻獣を憎むようになってしまったのだとばかり思っていたのよ。一人残らず、例外なく』


 優雅な動きでユグドラシルが両肘をテーブルにつき、組んだ指の上に自身の顎を乗せる。

 身体をわずかに前へ乗り出した姿勢を取り、彼女は言葉をぽとりと落とした。


『……でも、レースディア家の中にも、過去に私たちと絆を育んだ子たちの心を宿した人間がいたのね……』


 そう呟いたとき、ユグドラシルの目はここではないどこか遠くを見つめていた。

 まさに思わずこぼれ落ちたかのような小さな呟きだったが、周囲に余計な音がない今、しっかりとフィアレッタの耳に届いた。

 ユグドラシルはこの森から、長くティムバーを見守り続けてきた。


 けれど、最初からずっとここにいたわけではなく、遠い過去の時代にはレースディア家の人間と交流していたのだろう。

 言葉を交わし、絆を育み、ともに生きる道を歩み――だが、ある日突然、その絆はレースディア家の人間によって引きちぎられた。


 さぞ裏切られた気分だったろう。

 許せない、許さないという強い怒りが心を満たしただろう。

 ユグドラシルがレースディア家の人間であるジルニトラに対して、あんなにも冷たい目を向けていたのは、つまりそういうことなのだろう――とフィアレッタの直感が叫んでいた。


『ええ、ええ。わかったわ。思い直しましょう』


 は、と思わず息を呑んだ。

 思い直す――ということは、もしかして。


『私の子供たちが過去にお世話になっているのに、恩を返さないのもおかしな話だものね』

「……ユグドラシル様、もしかして」

『ええ。あなたが思い浮かべているとおりよ、シュガーロビン』


 思わず言葉をこぼしたフィアレッタへ、ユグドラシルが優しく微笑みかける。

 そして、ゆっくりと椅子から立ち上がり、フィアレッタに向けていた視線を横へ滑らせてジルニトラを見た。

 瞬き一つの直後、彼女の唇から言葉が紡がれる。

 先ほどの絶望に満ちた言葉ではない――真逆の言葉を。


『私たちシュネーガイストの妖精たちは、あなたたちレースディア家との親交を再開するわ』


 がたん、とフィアレッタの隣で大きな音が立った。

 反射的に隣へ目を向ければ、ジルニトラが両目を大きく見開いたまま、椅子から立ち上がっている。彼の背後にある椅子は地面に倒れており、先ほどの音は椅子が倒れるほどの勢いのまま立ち上がったからのようだ。


「……本当、か?」


 隠しきれないほどの歓喜。

 嘘なのではないかという疑心。

 かすかに震えたジルニトラの声には、正反対の二つの感情が揺れている。

 そんなジルニトラの傍へ、ユグドラシルが優雅な足取りで歩み寄る。


『もちろん。こんな場面で嘘は言わないわ。……でも、今回は特別。あなたの心を信じるわ』


 でも、と。

 ジルニトラが何か言うよりも早く、彼の胸にびしりと人差し指を突きつけた。

 その胸に刻みつけろ――と言いたげに、ユグドラシルの指先がぐいとジルニトラの胸に強く押しつけられる。


 ただ指を突きつけられているだけだ。特別なことは何もされていない。

 だというのに、まるで心臓を掴まれているかのように背筋が冷える。

 これが、古き時代を生きた妖精の一人。普通の妖精には出せない空気か。


『もう一度レースディア家が道を踏み外すときがあれば、今度こそ私たちはレースディア家を見限るわ。シュガーロビンのことも――フィアレッタのことも、私たちの国に連れていく』


 ユグドラシルの目から、ほんの一瞬だけ全ての温度が失われた。

 すぐ間近でそれを見たジルニトラは思わず表情を強張らせたが、深く息を吸い込み、恐怖心や緊張とともに深く吐き出す。

 もう一度同じ過ちをしたら今度こそ見限られるだなんて、そんなことわかりきっている。


「もちろん。……二度と、祖父や父がした過ちを繰り返さない」


 ユグドラシルへ即答し、ジルニトラは真正面から彼女の目を見る。

 臆することなく、そらすこともなく、ただ真っ直ぐに。

 しばしの間、ユグドラシルとジルニトラは無言で互いの目を見つめていたが――やがて、ユグドラシルがかすかに唇の両端を持ち上げて突きつけていた指を離した。


『ちゃんと理解しているのなら、それでいいわ。……嘘をついていそうな様子もないし、ね。素直な人の子は好きよ』


 そういって、ユグドラシルはするりとジルニトラの傍を離れた。

 白い花のフロスピクシーを自身の傍に呼び、森の奥へ続く道を優雅な足取りで歩いていく。

 かと思えば、途中で身体ごと振り返り、片手の手のひらを上に向けて口元へ寄せた。


『豊穣の妖精からレースディア家へ。今一度、盟友の絆を。終わりなき春の息吹を白き精霊の地へ』


 手のひらにあるものを飛ばすように、ふう――と息を吐く。

 直後、きんと鈴の音を思い切り高くしたかのような高い音が一度だけ響いた。

 ユグドラシルの手のひらには何も乗っていないのに、音が響いた瞬間、魔力を帯びた淡い紅色の光とともに春の色を宿した花弁がふわりと舞い上がった。


 一度舞い上がった花弁は、ともに空を目指した光とともに大地へ降り注ぐ。花弁が地面に触れた瞬間、緑が広がり、花が芽吹いていく。

 ユグドラシルが司る豊穣の力、その行使の瞬間。長く生きていても見れない確率のほうが高い景色を目の前にし、フィアレッタとジルニトラは息を呑んだ。

 呆然と幻想的な景色を見つめる二人へ、ユグドラシルが微笑ましそうな視線を送る。


『私はいつでもここから見ているわ、ジルニトラ。私たちのシュガーロビンを幸せにできなかった場合も、私はその子を連れて帰りに現れるから覚えておきなさいな』

「もちろん。……必ず幸せにすると決めています、どうか見守っていてほしい」


 ぎゅう、とジルニトラがフィアレッタの身体を引き寄せ、抱きしめる。

 必ず幸せにするという宣言と一緒に、彼の体温が触れ合った箇所から広がっていき、フィアレッタの顔に熱を集めていく。

 幸福感と気恥ずかしさを感じながらも、フィアレッタからも手を伸ばし、ぎゅうとジルニトラを抱きしめ返した。


「……大丈夫です。わたしがきっとユグドラシル様のお迎えを待つことにならないと思いますから」


 ジルニトラなら、必ず言葉のとおりにしてくれる。

 必ず、フィアレッタを幸せにしてくれる。

 確信に満ちた声で返せば、今度はジルニトラが目を見開き、片手で顔を覆ってフィアレッタから顔を背ける。

 どんな顔をしているのか正面から見ることは叶わないが、耳が真っ赤に染まっているのを見れば、どのような表情になっているのか簡単に予想ができる。

 ……きっと、フィアレッタもジルニトラも、互いに同じ気持ちだ。


『……ふふ、そうね。しばらくは私も安心して見守れそうだわ』


 ユグドラシルが二人へ身体を向けたまま、一歩後ろへ下がる。

 彼女の足元からふわりと魔力でできた花弁が舞い上がり、どこからか柔らかな風が吹いた。

 優しい花の香りを含んだその風は――春の訪れを告げる風だ。


『幸せに過ごしなさいな、新たな盟友。私たちのシュガーロビン。二人がいつまでも穏やかに過ごしてくれることを祈っているわ』


 その言葉を最後に、ユグドラシルとフロスピクシーの姿が花弁を含んだ風に包まれる。

 反射的にぎゅっと目を閉じて、風が収まった頃にもう一度目を開けば、ユグドラシルとフロスピクシーの姿はどこにも見当たらなかった。


 風で舞い上がった花弁のうち、残されていた数枚がゆっくりと降ってくる。

 春を告げる花が降る。

 長く厳しい冬が終わる。

 その日、シュネーガイスト領を襲い続けていた不作の冬が終わり、豊穣の春が訪れた。

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